秋田市内の久保田城跡にある「佐竹史料館」で、毛虫をモチーフにした兜を眺める【東北旅行記53】

東北旅行記2020年冬-53:秋田編

旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(Viewing a helmet with a caterpillar motif at the Satake Museum of History, located at the ruins of Kubota Castle in Akita City. [Tohoku Travelogue 53])

毛虫の大名?!

ここは秋田県秋田市内の、かつてこの地域を治めていた久保田藩の佐竹家の資料が保管/展示されている「秋田市立:佐竹史料館」。佐竹家というと全国的にはあまり有名ではない家柄ですが、平安時代から続く家系で、江戸時代には12代に渡ってこの久保田藩を守り続けた名家でもある。

 

【秋田市立:佐竹史料館】

住所:秋田市千秋公園1-4
営業時間:9時~16時30分頃(※年末年始休み)
電話番号:018-832-7892
入館料:大人100円/高校生以下無料

 

 

 

「秋田市立:佐竹史料館」での見学!

この佐竹家は平安時代からこの東北の秋田県付近で過ごして来た訳ではなく、元々は常陸という今の茨城県付近に領地を所有していた大名。江戸時代に江戸幕府の指示によって、この秋田県へと移封されてきたが、その背景には関ヶ原の戦いなどに参加していなくて、またそれなりの石高があった大名の為に徳川家康が警戒していたからとも考えられている。

 

戦国時代に日本に伝来してきた鉄砲も、初期の形は長い銃身の先から弾薬を詰めるという、連射が効かない構造となっていた。なので織田信長が甲斐の武田勝頼を滅ぼした戦いでは、銃隊を何列かに分けさせ、銃を撃った後は後ろに戻って、そこで銃身を掃除してから弾薬を詰め込んで、再び先頭に戻って銃を発射するという手間を掛けていたようだ。

 

明治時代に勃発した戊辰戦争で、この久保田藩は新政府軍側として戦った。周囲の領土を治めた大名の中には旧幕府軍側に付く者が多く、領土の至る所で戦いが行われた。現代からこの戊辰戦争を振り返って見てみると、時代遅れの旧体制側が必ず滅ぶような地球上の生存の法則に基づいた結果となったのも必然のようにも思える。

 

この久保田藩は「秋田藩」とも呼ばれて、現在の秋田県の領土を治めていた藩。しかし、現代の人から見れば、そこまでの歴史的建造物や観光客を惹きつける名所などが少ない為に、全国的な知名度が少ない。

ハゲる前君
ハゲる前君

それだけ秋田の良さに気付けていないだけだゾ~!

 

こちらの絵は「湊古絵図」という、江戸時代初期にこの秋田地方に移封となった佐竹家が、久保田城を居城とする前に拠点として使っていた「湊城」の絵である。この湊城は佐竹家と入れ替わりで常陸に移封となった安東氏が使っていた城だが、安東氏は約5万石に対して佐竹家は約20万石の大名であったので、家臣などを含めると手狭だった為に今の久保田城へと移っていったとされている。

 

こちらの扇子は久保田藩:第3代藩主だった「佐竹 義処(さたけ よしずみ)が、和歌を書き込んだ扇子。1600年代後半に久保田藩主として活躍した人物であるが、それから考えると約300年以上も昔の扇子。

 

こちらもその佐竹義処が描いたとされる「和歌色紙」で、右側に描き込まれているのは『奥山に~紅葉踏み分け~鳴く鹿の~~』とボクが覚えている数少ない百人一首の句だった。

 

こちらはこの秋田市内より、南東の方角にあった「横手城」の城下の様子を描いた絵。江戸時代初期に秋田の地に移封されてきた佐竹家は、この横手城を重要な拠点と考えていた為に、江戸時代には一国一城令という大名は1つの居城しか持つ事を許されなかったが、横手城は特別に許されて存続する事になった。

 

 

こちらの書は「渋江内膳(政光)」という、久保田藩の家老を務めていた人物の物。秋田に移封してきた佐竹義宣が組織を一新した際に家老に選ばれ、久保田城築城や農業生産や財政などの改革を務めた。ただ大阪冬の陣では主君:佐竹義宣と共に参陣したが、この戦いで戦死してしまう。

 

ただ、この渋江内膳(政光)の家系はその後の久保田藩でも度々家老になる人物を輩出しており、合計で8人もの家老を出す名家として有名だったようだ。当時は家柄が出世に大事だった事もあるけど、それ以上に頑なな教えを代々伝授していった効果があったのかもしれない。

 

当時の藩政では役人達の汚職が、普通に行われていた。また農民たちは最も位が低かったので、特に役人達に虐げられる事が多かったようだ。しかし、渋江内膳は役人が必要以上に農民から搾取した場合には、それを懲らしめるようなお達しを出していたようだ。

 

こちらは秋田県内の金山や銀山、そして鉛山などの鉱山の在り処が地図に入れられている。江戸時代には銀山開発が本格化し、徳川家康もメキシコなどで盛んだった銀山堀り技術に興味を示してヨーロッパ勢と懇意にしていたが、最終的には宗教を通じて日本を支配する意向を見抜いた為に、鎖国するようになったとされている。

 

こちらは「秋田鍔銭」という、久保田藩最後の藩主となった12代藩主:佐竹義堯の所持していた刀の鍔を模って造られた銅銭。江戸時代後半には全国の藩が財政難に苦しんだ為に、それぞれでこのような地域貨幣を流通させていた。

 

こちらは「天保通宝(てんぽうつうほう)という、天保6年頃(1835年)に造られた全国的に通用する貨幣。この天保通宝は最終的に明治29年頃(1896年)まで流通したというが、1枚の天保通宝が100文の価値がある所に1枚当たりの製造原価が10文という安く造れた為に、全国的に密造した天保通宝が多く出回ったという。ちなみに江戸時代に天保通宝の密造に関わったのは、少なくとも10藩はあったという。

青森ンゴ
青森ンゴ

通貨って、それを管理する人間によって大きく価値が変わるよネ!

 

こちらの絵は江戸時代後半から明治時代に活躍した画家の「荻津勝章」が描いた、「秋田加護山鉱山全図並製鉱之図」。久保田藩内で最大の鉛鉱山だった太良山から採られた鉛の鉱石を加護山に運び、そこでその鉛を使って”南蛮絞り”という精錬方法によって、他の銅山で採れた粗銅から銀を取り出していた様子が描かれている。

 

このように銀を取り出す技術を西洋などから取り入れて、国内の生産量を増やしていた。江戸時代には日本は鎖国していたけど、中国とオランダだけは例外的に貿易をしていた事もあって、海外との交易には銀などが必要となったのであろう。

 

 

秋田加護山鉱山全図! 動画

 

 

こちらには色んな家紋が所狭しと、額内に飾られているのが見える。世界中の国旗デザインでも無数にあるけど、このように国内にはもっと多くの家紋が作られて、代々受け継がれてきたのである。

 

 

そしてこちらは久保田藩の祖でもある佐竹義宣の父親で、戦国時代に勇猛果敢な武将としても知られていた「佐竹義重」が所有していたとされる「黒塗紺糸縅具足」という鎧兜。戦国時代の物なので、今から約400年程前の品である。

 

戦国時代や江戸時代に造られた鎧兜の中には、このように兜の前面:前立てに、その武将を象徴するようなデザインを施した物がある。こちらの猛将としても知られた佐竹義重の前立ては、なんと「毛虫」をイメージしているとか。ただ実際には毛虫を集めて作ったものではなく、鳥の羽を集めて作られているようだが。

 

有名な変わった前立てでは、上杉家に仕えた直江兼続の『愛』という文字が入った物が有名だけど、ほんとこのようなデザインの兜を楽しむという文化があった時代。特に大将は自ら先陣を切って戦う訳ではなく、後ろに築いた本陣の中で指揮を執る事が多かった為に、このような実戦向きではなく、自分の存在感を示すような物が好まれた事だろう。

 

こちらは久保田藩:第10代藩主だった「佐竹 義厚(さたけ よしひろ)が描いたとされている『唐子遊』という作品。この当時の大名の後継ぎは、今の時代では考えられない程の英才教育が施されていた為に、このような絵描きの能力を持った大名も沢山居たようだ。

 

このような『秋田美人』というワードを目にすると、勝手に期待してしまうけど、このポスターに載っている女の子達にはあまり秋田らしい雰囲気を感じない。ただ東京や大阪などの都市は地方から多くの人が出て来るので色んな人が混ざっているけど、地方で育った女の子は純粋な子が多くて、九州などでもそれぞれの県によって微妙にその土地の女の子の性格が違うとも言われている。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

王子には熊本のウマみたいな女の子が似合うけ!(笑)

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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