東北旅行記2020年冬-59:秋田編
旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(In Tsuchizaki, one stop from Akita Station, visit the Minato Castle Ruins and the Tsuchizaki Port Folklore Museum. [Tohoku Travelogue 59])
一駅の距離の遠さ・・・
さて、秋田市内で「ねぶり流し館」や「赤れんが郷土館」などを訪れて、秋田市の郷土文化などを勉強した。そして外に出ると既に昼飯時の時間帯を迎えており、久保田城跡で犬を連れて散歩していた秋田マダムにお勧めされた『稲庭うどん』を食べようかと迷いながら、秋田市内の街を散策する事にした。
秋田市内を散策!
お勧めされた『稲庭うどん』だけど、そこまで魅力を感じなかったのもあるし、実はこの後に向かう一駅の距離にある「土崎」というエリアで、あるテレビ番組で取り上げられた有名なうどんの自動販売機が設置されているので、それを食べる為にお腹を空かしておく必要もあったので、結局稲庭うどんを食べなかったのだが。。
そんな事を考えながら秋田市内を散策していると、少し寂れた感じの街並みの中にこちらの「川端角のレトロ博物館」なる、お店というか博物館らしき場所が見えた。この『あしたのジョー』はボクらの世代より、まだ上の世代のアニメであるが、個人的にはパチンコ台で『あしたのジョー』とコラボした台をよく打った記憶が残っている。
こちらもパチンコ台でも使われた『エースをねらえ!』のポスターだけど、一回り程上の世代が見ていたアニメ。だからテニスの青春アニメである印象しか知らず、どのキャラクターがどんな性格なのかとか全く分からないのである。
博物館のお店のショーウインドウに飾られていた、色褪せた雑誌のような物は「ソノシート」という、柔らかいビニールで造られた簡易レコード盤のような物。昔の雑誌の付録として付いていた物で、当時は流行していたが今では製造が中止になっているので、希少価値が高い物となっている。
【オバケのQ太郎/スーパージェッター】ソノシート
このようにボクらの世代が子供の頃よりも、更に一回り上世代向けのおもちゃなどが集められているお店であり、博物館でもあった場所。残念ながら日曜日しか営業していないらしいが、収集されている作品数は約10万点にも及び、ここに展示されているのはその中から厳選された約1万点のみだそうだ。
この辺りは昨日の夜にも歩いた、秋田市内を代表する歓楽街の「川反飲食店通り」。歓楽街ってのは夜には賑やかなイメージがするけど、明るい昼間に訪れると汚いイメージしか感じない場所。そう思ってしまう背景には、夜に訪れると汚い場所に気づきにくいだけで、汚い場所は昼間でも夜でも本来は汚いままであるのだが。。
明治時代から昭和前半にかけて日本が経済成長をしている時代には大いに繁栄していた場所なんだろうけど、今の日本はバブルが崩壊してから長い不況に突入して、金融緩和を行っても経済成長しない残念な国に成り下がってしまった事もあって、昼間は特に閑散としていた。
こちらはその歓楽街の境ともなっているかのように感じる旭川だけど、元々は久保田城の西側を流れる外堀として整備された川でもあり、城下町が形成する上で重要な川ともされていた。かつて城下町が形成されていた街の中を流れる川も、その多くが城を守る為に人工的に流れを変えられた川が多いのである。
こちらの先に見えている「すづらん通り」の看板も、昼間に見ると味気ない。暗くなった夜にこの看板を眺めると夜のとばりに光って雰囲気がいいが、昼間に見ると単なる広告の看板にしか見えない。。
秋田市内を散策してみたけど、昔の街並みぐらいしか見る物がなく、早々に秋田駅に戻ってきた。今日はこれから隣駅の「土崎」に向かい、その土崎の港付近にあるタワーからの展望を眺めるのと、そのタワー近くに設置されている”うどんの自動販売機”を見に行くのを楽しみにしていた。
ボクの大好きなテレビ番組であるNHK『ドキュメント72時間』で、2015年に放送された「秋田・真冬の自販機の前で」という回で、寒い時期の秋田市内で設置されたうどんの自動販売機に3日間密着したドキュメンタリーで出てきた自動販売機。
その放送後に設置されていた商店が店を閉めたに伴って、地元の名物にもなっていたそのうどんの自動販売機が、土崎近くのタワー近くに移転して、今も稼働しているという。
そのうどんの自動販売機が設置されている土崎港付近までは、この秋田市内から約8kmほどの距離にあって、歩くと1時間半以上掛かりそうだったので今回は電車に乗って、秋田駅から一駅隣の土崎駅へと移動する事にした。
しかし、ここで大きな問題が発生した。この昼間の時間帯はJR奥羽本線の電車本数が少なく、秋田駅に到着した12時15分頃には12時台の電車が出発した後で、次の電車が発車するのは13時35分と、およそ1時間20分も待たないといけなかった。
大きな秋田駅だから、隣駅にも簡単に行けると思い込んでいたのだが・・・
秋田の電車を舐めたらいかんゾ~!
駅で電車待ちで1時間20分もただ待つだけというのも退屈過ぎるけど、今更歩いて向かうには遠すぎるし・・・と悩む。そして仕方なしに秋田駅で約1時間半に渡る待ちぼうけをしたが、今思うと機転が利く人だったら「電車が無ければ、バスを使えばいいのに!」と策が浮かぶのかもしれない。
そして今更ながら秋田駅西口から土崎方面に向かうバスの時刻表を調べると、明らかに電車に比べてバスの方がフレキシブルなダイヤが用意されていた。今この時の事を振り返ると、人口の少ない地方都市に行く程に電車の本数は減るけど、その代わりにバス路線が充実しているので、移動の選択肢にバス移動を常に入れておく必要があったという反省しかない。
テレビ東京系列で放送されている人気番組『ローカル路線バスの旅』のように、地方の旅では柔軟にバスを使い分けて移動できるようになると、無駄な移動時間の削減にも繋がる事だろう。
この反省は今後に活かします!
土崎の地に到着!
そして秋田駅で1時間20分という、自分の中では長時間電車を待って、やっと辿り着いた土崎の地。長い時間を犠牲にして待った電車で来た甲斐があって、その分、この土地の良さを満喫して元を取ろうと1人意気込むのであった。。
とりあえず土崎の駅を出るけど、その駅前には大きな駐車場ぐらいしかなく、目立った商店や食べ物屋なども見当たらない。ただ、よ~~く目を凝らすと、奥の方に目指す「ポートタワーセリオン」という高い塔が建っているのが見える。
こちらは2012年頃にリニューアルされた「土崎駅」の駅舎で、2020年の一日の乗車人数は約1,700人前後のようだ。ただ10年前と比べると乗客が約20%減少しており、今後の鉄道運営の暗い未来が垣間見えたのであるが。。
これからはバス全盛の時代だゾ~!
こちらは土崎のデザインマンホールで、この土崎の代名詞ともなっている「土崎港曳山祭り」のデザインが入れられている。青森でもそうだったけど、この東北地方では夏場の祭が特徴的なのか、それともそれ以外に目立つ物がないから、祭だけが取り上げられるのか?
湊城跡の土崎街区公園にて
そして土崎駅から高いタワーが造られている港の方に向かって歩いている途中に、こちらの「湊城跡」に行き当たる。この秋田の地を江戸時代に治めていた久保田藩の藩主であった佐竹家が、常陸地方からこの秋田に移封されてきた時に当初居城にしていたのが、ここに造られていた湊城跡であった。
ここに存在していた「湊城」は佐竹家が築城した城ではなく、戦国時代にこの地を支配していた”安東氏(あんどう)”が戦国時代頃に築いた城とされている。この今の秋田地方を統一したのが安東氏であるが、江戸時代初期にこの湊城の増築が完成した直後に国替えとなって、常陸の佐竹家がこの地に移ってきた。
この土崎街区公園内には、こちらの蒸気機関車も展示されていた。こちらの蒸気機関車は『国鉄D51形蒸気機関車370号』という名前の1940年頃に造られた、貨物列車運搬用の機関車のようだ。
このタイプの蒸気機関車は太平洋戦争に突入する日本国内で、貨物運搬用機関車として大量生産された物で、それもあって国内に沢山存在している蒸気機関車でもあるので、そこまで珍しいタイプでもないようだ。もう使い道がないからここに置きっぱなしの展示となっているが、2022年は原材料が高騰してきているので、このような鉄の塊もスクラップに回される可能性も無きにしも非ずかもしれない。
この秋田の土地を戦国時代に治めていた安東氏は、この地に土崎港を整備して東北随一の港となった為に、秋田で最も栄えた場所になっていたようだ。しかし江戸時代に入れ替わりにやって来た佐竹家の規模が安東氏よりも大き過ぎた為に、湊城が小さ過ぎて、直ぐに秋田市内に築城した久保田城に移っていって、街の発展に大きな影響を与えたようだ。
その湊城跡には、こちらの「土崎神明社」も造られていて、この秋田の地に移封されてきた佐竹家と共にやって来た肝煎(世話人)の川口惣治郎氏の氏神だった神様をここで祀る為に造った神社である。それ以来、土崎港の守り神として地元の人々に親しまれている神社でもある。
「土崎みなと歴史伝承館」の見学!
この土崎の地に造られた港は北前船の中継地点として、重要な拠点でもあった。北前船とは主に当時「蝦夷地」と呼ばれていた北海道の南西側に配置された松前藩からの物資を日本国内に、日本海側の北側経由で大阪までを運航していた海上輸送ルートだった。
このように人類の歴史には、大きな物流システムの拠点があった場所が必ず繫栄している。江戸時代には鎖国されて外国との貿易が出来なくなってしまった為に、その貿易先が国内に向けられた。そして北海道で採られた珍しい海産物が高値で取引された事もあって、また東北地方で採れた米を大坂や京に運ぶ大事なルートでもあった。
そんな土崎港には船乗りから神輿が寄進されて、それが後々まで続く『土崎港曳山祭り』として、今日まで伝承されている。そして土崎にはこちらの「土崎みなと歴史伝承館」という綺麗な建物が造られており、ここでその伝統的なお祭りの内容が学べるようになっている。
この「土崎みなと歴史伝承館」は何と入場料が無料になっているので、土崎を初めて訪れる人は必ず立ち寄るべき場所かと思う。このような伝統的なお祭りの山車が展示されているだけではなく、第二次世界大戦中には終戦前日にアメリカ軍の大規模な空襲を受けて崩壊した歴史なども学べる場所でもある。
この施設はとても綺麗でまだ新しい物かと感じたけど、2018年3月にオープンしたばかりという真新しい建物だった。それなりの費用を掛けて自治体が造った観光客向け施設であるが、この訪問時は殆どお客さんが居なかったが。。
この土崎の地で伝統的に行われている「土崎港曳山祭り」の起源は、1704年頃に港に出入りする松前船の船乗りから、神輿が寄進された事に由来するそうだ。昔の船乗りは日本海という荒波の大海に出掛ける命懸けの職業でもあったので、特に神頼みの意識が高く、このような祭り事は特に大事に思っていたのかもしれない。
館内にはこのように曳山の実物展示が置かれている。毎年7月20~21日の2日間に行われる「土崎港曳山祭り」で使われる”曳山”という山車は、毎年新しく造られて、基本的にはその年の祭が終わると解体される。というのも元々この曳山を街中で練り動かして、街の中に住み着いている悪霊などをこの曳山の中に閉じ込めるという考えがあるからのようだ。だから祭が終わるとその閉じ込めた悪霊を退散させる意味合いもあって、直ぐに解体されるという。
この曳山も他の祭同様に町内毎の競争によって段々大型化していったが、街の近代化に伴う電線が張り巡らされた事によって、電線に引っ掛からない高さまで低くなってしまったようだ。明治11年に来日して日本全国を旅した「イザベラ・バード(Isabella Bird)」がこの土崎を訪れた際に、高さ約15mの曳山を目撃した旨が日記に記載されていたという。
明治時代には高さ20mを越す曳山が造られるまで大型化していったが、電線が街中に増えた為に段々と小型化に推移していき、現在には一般的に高さ5mほどの曳山の大きさがメインだという。
電線が発達したおかげで、小型化してしまったべ・・・
曳山の山車の前部分には、このように昔の勇猛果敢だった武将などが配置されて街中に住む悪霊に威圧感を与える内容となっている。秋田の他の土地では主に五穀豊穣を祈る祭が多かったけど、港町でもあった土崎では、海が荒れない事と、家内安全が願われた祭だったようだ。
【土崎港 曳山まつり】
こんな旅はまた次回に続きます!
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