明治時代の名匠:堀江佐吉の最高傑作とも称される、弘前の旧第五十九銀行本館【東北旅行記㉓】

東北旅行記2020年冬-㉓:青森編

 旅行期間:2020年12月1日~8日(7泊8日)
(The former main building of the 59th Bank in Hirosaki, considered the masterpiece of Sakichi Horie, a master artist of the Meiji era. [Tohoku Travelogue 23])

和洋折衷の銀行!

ここ青森県の弘前市は津軽周辺を支配していた弘前藩の中心地として栄えた街なので、このような昔に造られた蔵なども場所によっては見られる。それ以外にも明治時代に造られた洋風の歴史的な建造物なども現存しており、和洋折衷な街並みを見られる場所でもある。

 

 

弘前市内にて

こちらの「青森銀行」は青森県内で最大手の金融機関で、明治12年(1879年)にここ弘前市に創業した旧:第五十九銀行が色んな銀行と合併し、今の青森銀行となっている。だから青森銀行は今の本店は青森市内にあるが、その始まりはここ弘前の地という訳である。

 

そして進んで行った先にあった広場の中には、こちらの女性に左右から抱き着かれている像を発見する。こちらのタイトルは『安寿と厨子王と母』となっていて、日本の昔話の1つを取り上げた物になっているようだ。

 

ちなみにこの逸話に出て来る人物が実在したという証拠がなくて架空の話と推測されているが、安寿と厨子王を酷使させた人物が丹後出身だった為に、弘前藩では江戸時代に丹後出身者を排除し、江戸幕府からの視察団の中に丹後出身者が居ても断っていたとか。

 

国の重要文化財「旧第五十九銀行本店本館」にて

弘前駅から弘前城を目指して歩いていると、手前に公園のある広々とした一画にこちらの歴史ありそうな建造物が見えてきた。このレトロな外観からして、明治時代後半に造られた銀行のような雰囲気を放っている。明治時代後半に造られた、このような西洋風のガッシリした建物は銀行に使われる事が多かった為に、全国どこにでもこのような建物が見られる。

 

【旧第五十九銀行本店本館】

住所:青森県弘前市大字元長町26番地
営業時間:9時30分~16時30分頃(※定休日:火曜日)
電話番号:0172-36-6350
入館料:高校生以上200円/小中学生100円

 

 

こちらの建物は「旧第五十九銀行本店本館」という、先程見た青森銀行が創業した時の本店だった建物で、明治37年(1904年)に造られてそのまま現存している歴史ある建物。そしてこの建物は1972年に国の重要文化財にも指定されている。

 

この外観が洋風な建築は、青森が生んだ名建築家である堀江佐吉が設計した建物。堀江佐吉というと初日に訪れた五所川原市にあった、「斜陽館」という太宰治の生家を設計した建築家でもある。

 

堀江佐吉はこの明治時代に造られた多くの洋風建築物の設計に関わっており、青森で造られた洋風建物を殆ど手掛けていたとされている程の人物。関西に住んでいるとその名前を聞く機会なんて全くと言っていい程になかったけど、ここ青森県に来てみると意外とその名前を何回も聞く程の建築家だったようだ。

 

そんな青森が誇る名建築家だった堀江佐吉が59歳の時に建設した「旧第五十九銀行本館」は、彼の今までの洋風建築物の技術の粋を集めて設計した最高傑作とも称されている程に、内装まで凝った造りになっているようだ。というのもこの銀行の建物設計を依頼した当時の第五十九銀行:頭取が「好きなだけ費用を払うから、思いっ切り豪華な建物にして欲しい!」と頼んだからだという。

 

この旧第五十九銀行本館は1904年に造られてから銀行として使われ続けて、それから1965年に建て壊して新しい銀行の建物に造り替える計画となった。しかし歴史的な建造物の保存を求める市民の声が上がり、この建物を横に移動し記念館として保存する運びとなった。

 

太宰治の生家である斜陽館とは違って、ここは銀行として使われてきただけあって、生活感の漂う空間ではなくて、完全に洋風の歴史ありそうな内観となっている。また足元は木張りの床となっているので、足を踏みしめるとその木の板がキシむ音が普段聞き慣れない現代人は、ちょっと懐かしさを感じる事だろう。

 

長い人類の歴史の中で、昔から続けられてきた仕事も時代を経る毎に大きく変化していっている。昔は完全アナログの世界でこのような金融業の銀行など営なわれてきたが、今では金融界にもデジタル化の波が押し寄せて、今までは店頭に来なければ出来なかった事がパソコンやスマホを通じて簡単に出来るようになったので、銀行マンなどの業種がこれから大幅に消えて行く運命となっている。

 

 

青森のこのような歴史ある洋風建築物に似合うのが、こちらの精工舎の壁掛け時計である。昔の時計は電池ではなく振り子で時を刻んでいた為に、常に時計の内部が動くシステムとなっていたので、常に時を刻むように音を立てていた時計。

青森ンゴ
青森ンゴ

今は音を刻まない時計が増えちゃったネ・・・

 

この建物が銀行として役目を果たした後は、この地で「青森銀行記念館」として残される事になった。このような歴史的な建造物はただ残っている訳ではなくて、その裏側にこの建物を何とか後世まで残そうと尽力した人達が必ず存在している。

青森ンゴ
青森ンゴ

このような記念館を見学する際には、保存に尽力した人に敬意を払おうネ!

 

この旧第五十九銀行は青森県内の幾つかの銀行と合併して最終的に青森銀行となったが、その中には太宰治の父親が経営していた「金木銀行」も1938年に買収されている。だから太宰治のルーツとなった銀行が、ここ青森銀行にも含まれている訳である。

 

近代日本の起業家を指導した偉人:渋沢栄一も、この銀行の設立に尽力していたようだ。2021年の大河ドラマで主役となった渋沢栄一は全国的な有名人となって、2024年には20年振りにデザインが刷新される紙幣の中でも一万円のデザインに採用されている。ただ個人的にこの渋沢栄一の名前を知ったのはごく最近の事で、明治時代に大きく近代化した日本の功労者である人物を最近まで知らなかったのである。。

 

この「旧第五十九銀行本店本館」の建物は外観だけではなく、内装も豪華な装飾が施されている。建物に使用されている木材は、青森県産のヒバやケヤキなどがふんだんに使用されており、鉄筋コンクリート造りの建物では感じられない自然の世界で長年生きてきた木材らしい雰囲気を醸し出している。

 

そして今は青森銀行記念館となっているので、その建物だけではなくて、昔の紙幣などを見学する事が出来る。現代では日本銀行だけが「日本銀行券」として発行/流通させている紙幣だけしか種類が無いが、明治時代当初には色んな紙幣が次々と造られていった。

 

1872年に第一国立銀行(現:みずほ銀行)が設立されてから、合計153の国立銀行が次々と設立されていった。そしてそれぞれの国立銀行がオリジナルの銀行券を発行していき、色んな紙幣が流通していたという。なお、上記の古いお札は明治16年まで流通していた旧第五十九銀行の5円札である。

 

今でも日本全国には沢山の銀行があって、その中に「七十七銀行」や「百十四銀行」などの番号だけの名前の銀行があるのを不思議に思っていた。しかし銀行の歴史を調べてみると、それは明治時代に設立された153もの国立銀行の数字で呼ばれていた時代からの銀行の生き残りという訳だった。

 

 

江戸時代から明治維新が起こった時の日本国内は色んな混乱が大きく起こり、今では普通に行われている金融システムなどもその当時には決まっていた訳ではなく、手探りで色んな方法が採られていたようだ。ちなみにこちらは昔の預金通帳で、今では考えられないような手書きでその入出金の管理を行っていたようだ。

それと右上にある通帳は太宰治の父親が設立した金木銀行の物である。

 

こちらは八戸で設立された「八戸銀行」の株券で、1927年に八戸周辺の銀行が合併して誕生したが、1943年に青森県内の他4行の銀行と合併して、今の青森銀行となった。

 

 

現代の金融システムが出来上がっていなかった明治時代初期には、150を超える国立銀行がそれぞれにこのような紙幣を発行していたので、激動の時代だった明治時代は今では考えられない程に時代の流れに着いていかなければいけなかった事だろう。。

 

ただ江戸時代にも1箇所からの紙幣しか無かった訳ではなく、全国の藩毎にこのようなオリジナルの「藩札」なる独自の紙幣が発行されていた事もあった。弘前藩では1756年・1837年・1869年と3回に渡って藩札が発行されていたが、勿論全国的に通用する紙幣だった訳ではなく、その実情は藩の財政が苦しかったから独自のお金を造って凌いでいただけのようだが。。

 

このような藩札は江戸時代に財政に苦しむ全国の藩で造られたが、明治時代になるとその藩札は禁止されてしまう。ただこのような紙幣の歴史を学ぶ事は、人類がどのようにお金と共に暮らしていたかを知る事が出来るので、とても興味深い。

個人的には大学の卒論でヨーロッパの貨幣の歴史と人類の歴史の推移を取り上げた記憶があるけど、どのようなレポートを仕上げたのかは全く覚えていないのだが・・・。

 

激動の明治時代に入るといきなり国立銀行が設立されて紙幣が発行された訳ではなく、その前に明治政府が発行した「太政官札」(不換紙幣)や、民部省によって発行された「民部省札」や、為替会社などがそれぞれに異なる紙幣を発行した為に大混乱になっていたようだ。

 

そして更には廃藩置県前の明治政府直轄地方組織であった府や県などもオリジナルの紙幣を発行していたというから、今からでは想像が付かない程に金融システムが混乱した時代だったようだ。こちらの紙幣は弘前県(のちの青森県)が発行していた紙幣で、「津軽」の文字が入った割印や、他にも沢山押されたハンコが目立つ紙幣となっていたようだ。

 

右側は明治政府が発行していた「太政官札」で、この明治時代序盤は戊辰戦争や近代工業化への投資資金を稼ぐ必要があった為にこのような紙幣が明治政府で独自に発行されていた歴史がある。

 

こちらは明治14年(1881年)に発行された、それまで偽札が多く出回った明治政府の紙幣から偽造防止対策が織り込まれた「改造紙幣:一円券(モデル:神功皇后)」である。それまで偽札が多く出回っていた事に懸念を示し、その対策としてイタリアから版画家で印刷業も営んでいた「エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone)を招聘し、紙幣に肖像画をデザインして印刷した紙幣にモデルチェンジさせたのである。

 


 

鹿児島市内「維新ふるさとの道」にある、西郷隆盛のパネル1

なお、鹿児島の英雄で明治維新の立役者でもある西郷隆盛の、最も有名な肖像画であるこちらの絵は実はこの改造紙幣をデザインしたエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画なのである。しかもキヨッソーネは西郷隆盛とは直接面識がなく、実物の西郷隆盛を見た事が無いにも関わらず、これほどの絵を仕上げたのである。

 


 

 

こちらは昭和5年(1930年)に発行された「日本銀行兌換券(10円)」で、明治維新後に明治政府などが発行した紙幣は「不換紙幣」という金や銀との交換が保証されていない紙幣だったが、その後に金本位制度に切り替わり「兌換(だかん)紙幣」という一定量の金貨と交換が保証されている紙幣だった物。

 

しかし1931年に世界大恐慌の影響により金の輸出が禁止となった為に、それまで流通していた兌換紙幣は金貨との交換が停止されて、そのまま不換紙幣へと自然に切り替わっている。判りやすく説明すると「兌換紙幣」は一定量の金に交換できる保証付きの紙幣で、「不換紙幣」というのは発行元の政府などの信用の上に成り立つ、金や銀などと交換できない紙幣の事。

青森ンゴ
青森ンゴ

今流行りの仮想通貨も、「不換紙幣」の部類に入るんだネ!

 

このように明治時代に大きく貨幣の歴史が変わり、色んな試みが試行錯誤で行われた。その背景には自国内の激動だけではなく、当時の世界情勢にも大きく影響を受けており、一時は「金本位制度」という実物資産と同等の価値があった紙幣も、時代の流れと共に「管理通貨制度」という紙幣を発行する国が発行量などを管理する時代へ移り変わっていくのであった。

紙幣の歴史も面白いですよ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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