和歌山市旅行記2021年1月-①
旅行期間:2021年1月某日(0泊1日当日旅)
静かな和歌山!
さてブログ内ではやっと2021年を迎えて、その年一発目に訪れたのは和歌山県。ただ今回は当日に行って帰れる距離の和歌山市内だけの散策なので、ちょっと短めの旅であった。大阪市民からするとあまり和歌山県に旅するという事を考えないけど、実際に訪れてみると大きな発見をする事が出来る。
和歌山城へ向かう!
そんな和歌山旅の開始は、ここ「和歌山市駅」から。電車で和歌山県を訪れたのは記憶に残っている限りでは、大学生以来かと思う。それ以外で和歌山県を訪れたのはほぼ車ばかりだったので、こんなに駅前が綺麗に、また大きな建物に様変わりしている光景にまず驚く。
この和歌山市駅と繋がっている大きな複合施設は2020年に開館したばかりで、「和歌山市民図書館」や「キーノ和歌山」というショッピング施設が併設されている。
和歌山市駅前は、ビックリする程に変わとる!
このように駅前は様変わりして想像とは違った雰囲気を受けたが、和歌山城ヘ向かう道の方を眺めると、こちらはそんなにキャピキャピした街ではなく、昔からの佇まいが残って良そうな雰囲気も感じた。
さてまず和歌山城へと向かおうと南の方角に進んで行くと、「勝海舟寓居地」という記念碑が設置されているのが見える。これは幕末に海外から渡航してくる外国船に対して、砲台場建造を早急に行う必要があったこの和歌山の地に、幕府の要人であった勝海舟がやって来て、その砲台づくりを検分した時の記念碑だという。
そしてもうこの辺りから和歌山城の城下町みたいな雰囲気が出ている街並みで、周辺を散策しているとこちらの胸像が設置されているのが見えてくる。なお、背後の建物の壁には菅元総理のポスターも張られていたりと、今思うと懐かしくも感じる。
こちらは「南方 熊楠(みなかた くまぐす)」という幕末にこの地に生まれた生物学者の、生まれた場所に造られている生誕地碑だった。アメリカやイギリスに留学し、大英博物館にも入り浸って勉強したという。ちなみにイギリス滞在時に中国から亡命してきた孫文と出会い、後に日本に帰国した際にも再会しているそうだ。
和歌山市には数回訪れた事があるけど、このように街中を散策するのは初めて。関西に住む関西人からすれば、わざわざ和歌山まで行って観光したいとそこまで思いにくい場所で、観光で訪れるにしても熊野古道や白い砂浜が人気の白浜がメインだろう。
そんな熊野古道や白浜など、いかにも観光地らしい場所よりかは、このように城下町だった雰囲気の場所を散策する方が楽しめる。歴史が好きな人間程に、その地方にあった藩の中心地の方が色んな発見が出来る場所だけに、歩き甲斐のある場所に思えるのだ。
そんな和歌山市内を流れるこちらの川は「市堀川(しほりがわ)」という、景色を見れば分かる人もいるかもしれないけど、和歌山城の外堀として形成された水路でもある。この外堀は紀伊和歌山藩:初代藩主となった「浅野 幸長(あさの よしなが)」時代に掘られたもので、今でも残されている。
なお、この市堀川沿いは「市堀川遊歩道」として1990年代から歩ける歩道として整備されているが、この時はコロナ禍という事もあってか、このように開放の条件下にあったものの、扉は閉まっていて遊歩道を歩く事が出来なかった。遊歩道として整備したものの、民家の裏などを通ったりする為に、プライバシーや防犯の面を考慮し、このように立ち入りできる時間帯などが設けられているようだ。
こちらは大きな象が入口の壁に彫られていて、その象がクレヨンを持って可愛らしく見える。幼稚園の入口付近は、子供達に好まれる装飾をしている所が多く、日本人にはお馴染みのアンパンマン絡みの装飾を一番目にする。
そして和歌山城近くまでやって来ると、こちらの広い「汀(みぎわ)公園」が見えてくる。ただ公園という程に人がいる訳でもなく、遊具などがある訳でもなく、広い原っぱのような公園内には奥に見えた供養塔ぐらいしか見られない。
こちらにあったのは「戦災受難者供養塔」という、1945年7月に和歌山市内が空襲された際に亡くなった約1,000人ぐらいの市民を弔って造られたもの。アメリカ軍の高度から行われる爆撃は命中精度が悪かったが、逆に命中精度が低くても被害が広がり易い火災を引き起こす焼夷弾に変更し、東京大空襲などでもアメリカ軍が戦果を挙げていき、ここ和歌山市内でも焼夷弾が落とされた。
供養塔に居た猫ちゃん! 動画
この広場はかつて県庁があった敷地らしく、和歌山空襲の際には火災から多くの人が避難場所としてここに逃げてきたという。そんな場所には今では日向ぼっこの絶好の場所として、このように猫ちゃんが佇んでいたが。。
和歌山城周辺に到着!
そしてこの汀公園からは、和歌山市のシンボルでもある「和歌山城」が見えている。過去に和歌山城を見学した事があるが、当時はまだ仕事をしている時代で、和歌山に車でやって来た際に人生経験として登城した記憶がある。ただその時は今みたいに歴史に全く興味が無かった時代なので、天守閣からの景色を楽しんだ記憶しか残っていないが。。
しかし、今ではそんな昔の自分とは違って、趣きや歴史を特に感受したい気持ちに溢れている。だからいきなり車で駐車場まで乗り付けて天守閣に一目散に登るような事はせずに、今回のようにまずは城周辺の外堀から固めていくのである。
攻城は、まず外堀を埋める事から始まるのだ!
こちらは和歌山城の内堀だが、城の北西部分はこれだけしか残っていない。昔は和歌山城をグルっと一周囲むように内堀が引かれていたが、明治時代以降に廃城となって、更に交通の便を向上させる為に堀の一部が埋め立て工事されたりした影響のようだ。
内堀の景観! 動画
しかし、このように石垣はそれなりの状態で残されているのが見える。内堀は全国的に埋め立てられてしまう運命にあったが、石垣が残されている事に感謝した方がいいのかもしれない。ただ今の城跡として残っている部分は、和歌山城全盛期の半分以下の面積だという。
この和歌山城は豊臣秀吉の弟だった豊臣秀長が築城した城とされており、江戸時代初期には浅野幸長が紀州藩として治めたが、後に広島藩に移封され、その後に徳川家康の10男で駿府藩主だった徳川頼宣(よりのぶ)が転封してきて、紀州徳川家の紀伊和歌山藩となった。
内堀越しに見る和歌山城! 動画
和歌山城北西部分は「吹上口」とも呼ばれていて、かつて大きな門があったようだ。ただし今ではそのような門構えの建造物は見られず、ノーチェックで城内へ入れる時代となっている。
紀州徳川家の紀伊和歌山藩となった後は、”徳川御三家”の1つとして14代に渡って和歌山藩を治め続けた。なお、その間に紀州徳川家からは、”暴れん坊将軍”としても有名な「徳川吉宗」や「徳川慶福」などの江戸幕府将軍も輩出している。
なつかしの我が家です!
和歌山城敷地内には「和歌山縣護國神社」も設置されている為に、このように吹上門跡に大きな鳥居が見られる。全国の城跡にはこのように神社が沢山存在しており、明治時代以降に大きく変わった事だろう。
そしてこの吹上口を入った場所にある石垣が、ちょっと面白い光景を見れるポイントである。というのも左右に石垣が造られて残っているのだが、右と左で石垣の積み方が全然違うのだ。よくある城跡の石垣は、同じ積み方で統一されている事が多いが、ここ和歌山城では徳川家以前の豊臣秀長や浅野幸長時代の石垣も見られる。
昔の石垣まで手入れする余裕が無かったからかな?!
古い時代の石垣は「野面積み」という、石を削ったりして整えずにそのまま積んでいく方式。その為に石と石の間に隙間が生じて、その隙間にはこのように”間詰石”を詰めていくというやり方だった。このような石垣は凹凸がある為に、攻めてきた兵士がこの凹凸に足をかけて登る事が安易に出来た為に、江戸時代にはこの方法の石垣は殆ど造られなくなっていく。
西の丸の石垣! 動画
そしてそれから「打込接(うちこみはぎ)」と呼ばれる、石垣造りが開発されていく。こちらは石の表面が削られて統一感が出てきており、間詰石が詰められているものの、上の石垣に比べて登りにくい形式になっている。
石垣1つをとっても芸術的に極められていく江戸時代だったが、このように実際のサンプルとして戦国時代の石垣と江戸時代の石垣がコラボレーションしている光景は、なかなかに珍しく、また楽しめる場所でもあった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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