「和歌山県立博物館」で和歌山の歴史を更にお勉強(Part-4)【和歌山市旅行記⑰】

和歌山市旅行記2021年1月-⑰

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

和歌の浦!

「和歌山県立博物館」の外観

ここは和歌山市の和歌山城南側に造られている「和歌山県立博物館」。歴史に興味が出てくるとこのような博物館見学が楽しいけど、その裏には歴史学者などが時間を掛けて昔の書物を研究し、コツコツと解明してくれているからこのように簡単に勉強する事が出来る。なので歴史学者などに感謝しながら見学する心構えが必要である。

 

 

 

「和歌山県立博物館」の続き!

こちらの人形は『客待ちをする人力車の車夫』というタイトルになっていて、人力車が出てくるという事はかなり現代に近づいてきた事が分かる。この人力車は明治時代に入ってから開発された乗り物とされており、それまでは凸凹の道だったのが明治時代になってから舗装・整備されていった為に人力車の乗り心地が向上していき、それに伴って普及したという。

 

明治維新を迎えた紀州藩では、西側諸国に遅れを取っていた事を認めて、藩政改革に乗り出す。幕末に藩内の抗争に負けて投獄されていた「津田 出(いずる)を執権に任命し、和歌山に戻っていた陸奥宗光と共に西洋諸国を真似て徴兵制に乗り出す。それと共にプロイセン王国から最新鋭の鉄砲を購入し、それを扱える軍隊を鍛える為にプロイセンで歩兵小隊長を務めた事のあるカール・ケッペンを招聘した。

 

紀伊徳川様式演武之図

こちらは「紀伊徳川様式演武之図」という、明治初期にカール・ケッペンを招いて徴兵制で集めた兵士にプロイセン式陸軍の訓練が行われている様子を描いた物。後に明治政府も徴兵制やフランス式陸軍の戦術を導入したが、紀州藩の方が数年先行していたという。

 

そして兵隊だけではなく、産業も西洋から色んな技術や知識が流入してきた事もあって、大きく発展していく事になる。特にイギリスで起きた産業革命の影響で機械化されていたヨーロッパの技術が、大きく日本にも影響を与える事になる。

 

「生産額大相撲」という、昭和元年の和歌山県内での生産高の一覧

こちらの番付表は「生産額大相撲」という、昭和元年の和歌山県内での生産高の一覧となっている。これを見ると「綿織物」と「綿糸」が横綱でNO.1~2を占めており、それに次いで「生糸」と「繭」が大関となっているのが分かる。

 

昭和元年の「縣下ノ生産」という表

こちらも昭和元年の「縣下ノ生産」という表で、和歌山県内での都市別生産量では和歌山市がトップで、それに次いで海草郡となっている。和歌山市は人口が多いので、それに比例して生産量が多かったのかもしれない。

 

上側に展示されているのは「引札」と呼ばれた、今で言うチラシ(広告物)。近代産業として生まれた製品は知名度が無かった為に、このようなチラシで認知度を上げようとしていた様子が伺える。そして下側は「フランネル生地」で、日本国内ではこの和歌山県で最初に造られた為に「紀州ネル」とも呼ばれていたそうな。

 

こちらには一対の狛犬のような置物が置かれていた。これは紀州最大の磁器窯だった男山陶器場で生産された、屏風を挟んで固定する置物だったようだ。屛風なんて今の日本の家庭内では殆ど見られなくなっているが、それに伴ってその屏風を挟む置物なども見られなくなっていっている。

 

という置物があったコーナーは、このようにズラリと屏風ばかりが並んでいるコーナーとなっている。金色に光る屏風もあったりで、古来日本の芸術の極みが並んでいるコーナーでもある。

 

源平合戦図屏風

こちらの屏風は「源平合戦図屏風」という、18世紀の江戸時代に描かれた物のようだ。源平合戦というと平家が大きな勢力を持っていた時代に、一度は敗北して関東に逃げた源頼朝が挙兵し、平清盛亡き後の平家を壇ノ浦に追い詰めて滅亡させた戦いである。

 

 

ただこの源平合戦図屏風は”壇ノ浦の戦い”を詳細に描いている絵ではなく、壇ノ浦の戦いだけではなく、源義経が山から駆け下りた”一ノ谷の戦い”など、有名な戦などの名場面も盛り込まれている。

 

こちらは”屋島の戦い”で有名な、日の丸の入った扇子を掲げた平家の船に、那須与一が馬に乗って海水に入っていき、離れたその的を見事に射抜いたシーンである。このように源平合戦の有名どころが満載に盛り込まれた屏風である。

 

こちらには大きな錨を掲げた平知盛が見える。この壇ノ浦の戦いで平家滅亡を見届けた後、源氏側に捕まる事を避ける為に入水自殺を図る平知盛。水に飛び込んでも浮かんでこないようにと鎧を2枚重ねで着たとか、このように重たい錨を担いでその重みで海底に沈んだとも言われている。

 

こちらには武蔵坊弁慶のような僧兵が、大きな棍棒を振り回している姿も見られる。この武蔵坊弁慶は『義経記』ではこの和歌山地方の出身とされ、寺で僧兵として鍛えた人物らしい。弁慶の最後は義経を守って、有名な”弁慶の立ち往生”で死ぬのであるが、このような話は後の歌舞伎などで演出された要素が大きいのかもしれないが。

 

壇ノ浦の戦いでは、流れが早くて泳ぐのが危険とされる関門海峡で、敗北を目の前にして平家軍は入水して、自らの命に別れを告げていった。”生き恥を晒す位なら死んでしまえ”という考えで、当時6歳頃だった安徳天皇も平清盛の側室だった平時子に抱えられて入水したという。

 

和歌の浦図屏風

こちらは江戸時代の17世紀頃に制作されたという「和歌の浦図屏風」。景観地や名所に集まる人々の様子を描いた「名所風俗図」に分類される内容の絵らしく、この当時に人気だった厳島と共にこの和歌の浦も人気だったという。

 

和歌の浦図屏風

『万葉集』の中にも登場する和歌の浦は、1000年以上も前から人気の観光地であった。自然が織りなす美しい光景が昔から、日本人の心を穏やかにして癒す効果があったのだろう。

 

詩書・山水図貼交屏風 愛石筆

こちらは「詩書・山水図貼交屏風 愛石筆」で、1つの屏風に何枚もの絵や書を貼り付けた物は「貼交(はりまぜ)屏風」と呼ばれていたようだ。こちらは和歌山出身者の「愛石」と称した黄檗画僧の作品で、江戸時代の画家で有名な池大雅風の山水画を多く残しているようだ。

 

こんな感じで一通りの和歌山の歴史について、勉強は終了となる。大阪府の隣にある県だけど、意外とその歴史については今までの人生であまり興味を持たなかった事もあって、全然知らなかった。だから余計に今回のこの当日旅でも、多くの事を吸収できたのであった。。

オカン
オカン

もっと早く勉強好きになってたら良かったのに・・・

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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