「徳川吉宗:生誕地」と「紀州徳川家御廟」がある報恩寺を訪問【和歌山市旅行記⑱】

和歌山市旅行記2021年1月-⑱

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

紀州徳川家の菩提寺!

さて和歌山城に来て、近くに設置されていた”暴れん坊将軍”でもお馴染みの徳川吉宗の銅像を眺めた後は、その南の方にあるという「徳川吉宗の生誕地」にやって来ました。紀州藩主から徳川幕府の征夷大将軍に就任した人物だけあって、その生誕地は大きな銅像などが設置されているのかと思いきや、こちらの民家の片隅にそれらしい記念碑が残されているだけだったが。。

 

【徳川吉宗:生誕の地】

住所:和歌山県和歌山市吹上2-4-15

 

 

「徳川吉宗の生誕地」にて

徳川吉宗は1684年にここ和歌山の地に、紀州藩第2代藩主:徳川光貞の四男として生まれる。なお母親は光貞の側室で、また幼い頃は家老に預けられて育てられたようだ。吉宗は幼い頃から活気のある子供で、その頃から暴れん坊の素質を見せていたという。

 

徳川吉宗は四男として生まれた為に、当初は家督を継ぐ事すら想像していなかった事だろう。江戸時代には家督を継ぐのは大概長男で、その弟達は家督争いを避ける為もあって、他の家に養子入りさせられる事が多かった。それもあって吉宗は越前国に3万石を与えられて、葛野藩主に就任した。

 

江戸時代は今の時代と比べて医学が発達していなかったので、藩主の子供として生まれても、その半数が成人できればいい方だったという。また成人しても20代半ばで亡くなる藩主も多く、その為に跡取りを残さずに死去して改易となってしまう家も多かったようだ。

 

四男として生まれながら、兄がみな死去してしまった為に家督相続が回ってきた吉宗。そして藩主として紀州藩の財政改革に取り組み、大きな成果を挙げる。その功績が評価されて江戸幕府将軍に推挙され、将軍としても改革を行い、日本国にメスを入れた。それと共に評価されるべきは吉宗が残した子孫筋で、”御三卿”と呼ばれる吉宗の血を継ぐ家柄がその後の時代に受け継がれていった事だろう。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

ワシの種をもっと評価して欲しいな!(笑)

 

「紀州徳川家御廟」を訪れる!

そして和歌山城南側に拡がる寺町で、紀州徳川家の菩提寺とされていた「報恩寺」もついでに訪れる事にした。この報恩寺は紀州徳川家の祖である徳川頼宣の正室だった「瑤林院(ようりんいん)が亡くなった際に、頼宣がこの地にあった吹上要行寺に埋葬した。後に2代目紀州藩主となる光貞が吹上要行寺を造営し、報恩寺が建立されている。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

瑤林院殿はワシのおばあちゃんでもあるよ!

 

【報恩寺/紀州徳川家 霊廟】

住所:和歌山県和歌山市吹上1-6

 

なお、徳川頼宣の正室だった「瑤林院」は、戦国時代の有名な武将:加藤清正の娘で「八十姫(やそひめ)とも呼ばれている。江戸時代には政略結婚が多い時代で、時の権力者であった徳川家の血縁関係者になるだけで、かなりの恩恵があった時代でもある。

 

この辺りは江戸時代に沢山の寺が設置された場所で、大きな寺町となっている。ただこの報恩寺の敷地奥に紀州徳川家の墓があるとは、事前に知らないとまず立ち寄る事はないだろう。

 

 

このような静かな石造りの道を進んで行くと、数十mでこのような門構えの霊廟が見えてくる。なお、紀州徳川家の霊廟という表示があるけど、実際にはここには紀州藩主のお墓はなく、その藩主の正室の霊廟のようだ。

 

紀州藩の歴代藩主の墓は、海南市にある「長保寺」にあるようで、そこに行けば紀州徳川家の祖でもある徳川頼宣の立派なお墓も設置されているようだ。てっきりここに歴代藩主の豪華な霊廟が並んでいるものと思っていただけに、少々ガッカリではあったが。。

 

和歌山県海南市にある、歴代紀州藩主の墓が並ぶ「長保寺」は和歌山市から電車で約1時間程の距離にある。

 

門の脇にはこのように「徳川家御廟」と文字が彫られた石碑が見られるが、そんなに古い碑には見えない。左側には「昭和」の文字が見える事から、昭和時代に設置された碑だったのかもしれない。

 

そして門をくぐって墓所内に足を踏み入れて行くと、広々としたお墓に大きな墓石が設置されているのが見られる。どうやら入って左正面に設置されていた墓石が、徳川頼宣の正室だった瑤林院の物のようだ。1666年頃にここに埋葬された事から、その時代から置かれているそうだ。

 

それ以外にも紀州藩第2代藩主だった徳川光貞の夫人や、徳川吉宗の夫人のお墓も設置されているという。ただ今回の訪問の時にはあまりそういった案内板が設置されていたので、単にお墓が並んでいる光景だけを見て満足するだけだったが。。

 

 

徳川家御廟の景色! 動画

 

 

こちらのお墓が瑤林院の墓石だと思われる。ただ1666年頃に設置された物としては、風化してボロボロになった部分と、その後に一部取り換えられて補修されたような部分が見える。また、風化して石が割れているけど、辛うじて「瑤林院」という文字も見える。

 

その瑤林院の右側の方にも、大きな墓石が設置されているのが見える。この墓所ではこの2つの墓石だけが、立派な台の上に設置されていたので、右側のこの墓石が2代目藩主だった徳川光貞の夫人の墓だった可能性が考えられる。脇の灯篭には「天真院」という文字が見られるので、これが徳川光貞の正室だった「安宮照子(天真院)」のお墓のようだ。

 

こちらは徳川光貞の正室だった「安宮照子(天真院)」の墓石であるが、左側に設置されている瑤林院の墓石と比べると、比較的風化がマシでそこまでの古さは感じない。

 

 

この2つの墓石以外にも、両脇には何個もの墓石が並んでいた。ただこの墓所ではそれぞれの墓が誰の物かという表示板が見当たらなくて、歴史マニアと一緒に来ないとどの墓が誰の墓までかは、ちょっと分かりづらい感じだった。

 

藩主の霊廟の場合は、その藩の藩祖となっている人物が大抵敬意が払われて、大きな霊廟が造られている場合が多い。ここは藩主夫人の霊廟だったが、同じように初代藩主と2代目藩主の夫人だけ、特別待遇のような墓にも見えた。

 

こちらには卒塔婆が立ち並んでいる光景も見られる。なお、報恩寺は日蓮宗の寺となっており、江戸時代に紀州徳川家の菩提寺として扱われてきたが、明治時代に入ってからの廃仏毀釈で一時廃寺となっていた。

 

こちらは報恩寺の本堂などがある境内から、徳川家御廟に向かう道にあった門。ここには”丸に三つ葉葵”の徳川家の家紋が入れられており、徳川家御廟に入るにはボクが入った裏道より、こっちの正面から入っていった方が雰囲気があったのかもしれない。

 

ここにある「徳川家御廟」「瑤林院墓」は、”和歌山市指定文化財”にも指定されている。ただこのような江戸時代の霊廟は明治時代になってからそれを管理していた寺が廃寺となって、廃墟と化している所もあったりする為に、綺麗に手入れされていて良かったと思う。

 

こちらにはこの報恩寺内にある梵鐘も、同じく”和歌山市指定文化財”に指定されているという事が書かれているが、残念ながらだいぶ文字が見えにくくなってしまっている。どうやら1692年頃に作られた鐘のようだ。

 

その”和歌山市指定文化財”にも指定されている報恩寺内の梵鐘が、こちら。第二次世界大戦中には国内で金属回収令が出された事で、寺や神社にあるこういった大きな鐘や、その辺りに設置されている偉人の銅像などが持っていかれてしまったが、この鐘はどうやらその回収令を免れたようだ。

 

なお、この報恩寺の本堂は1945年の和歌山大空襲の際に、焼失してしまったようだ。戦争によって国内でも多くの歴史的な文化財が燃やされて灰になってしまった事を思うと、とても残念で仕方ない。

 

なお、こちらが報恩寺の正門のようだ。今回寺に入ったのは左裏の方にあった裏道から入ったけど、やっぱりお寺の境内に進むのであれば、この正門からちゃんと入るべきだったのかもしれない。

 

そしてその正門脇には、このように「報恩寺」と文字が彫られた石碑が見られる。本当は紀州藩主のお墓が並ぶ霊廟に行きたかったけど、海南市はちょっと遠いし、この報恩寺は徳川吉宗の生誕地から近い所にあるので、一緒に見学できる最適な徳川家の霊廟だった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓和歌山市旅行記:初回↓↓

暴れん坊将軍の出身地:和歌山市にある和歌山城へ向かう【和歌山市旅行記①】
2021年1月に訪れた和歌山市内旅の旅行記。JR和歌山駅に降り立ち、城下町だった堀などを見ながら和歌山城を目指します。
タイトルとURLをコピーしました