「和歌山県立博物館」で和歌山の歴史を更にお勉強(Part-3)【和歌山市旅行記⑯】

和歌山市旅行記2021年1月-⑯

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

江戸時代の和歌山!

「和歌山県立博物館」の外観

ここは和歌山市の和歌山城南側に造られている「和歌山県立博物館」。前回に引き続き、この博物館内で和歌山の歴史の資料などを見学しながら、和歌山が成り立ってきた歴史を勉強していきたいと思います。

 

 

 

「和歌山県立博物館」の続き②!

取り入れた蜜柑を運ぶ農民

次は『取り入れた蜜柑を運ぶ農民』という人形が見える。和歌山ではこの蜜柑と梅の生産地として国内ではとても有名だけど、この蜜柑は大昔から栽培されていた物ではなく、実は中国より熊本県八代に伝わった蜜柑が1600年前後に紀州藩内に導入され、それ以降和歌山の地で蜜柑が一大産地に変貌していったという。

 

紀州蜜柑

その中国大陸から熊本を経由した和歌山で栽培されて人気になった蜜柑の種類は「紀州蜜柑(キシュウミカン)で、この紀州蜜柑はやや小ぶりで酸味があり、また種も入っていて食べづらい蜜柑である。しかし江戸時代にはこの紀州蜜柑が大人気で国内で多く流通していたが、明治時代になってから「温州蜜柑(ウンシュウミカン)という少し大きめで甘い蜜柑が人気となり、逆に紀州蜜柑は生産量が少なくなって販売量も減っていった。

ボクは酸っぱい紀州蜜柑の方が好きです!

 

日高綛(ひだかかせ)

綿花から生産する(かせ)糸生産が紀州藩で奨励されていた事もあって、江戸時代に生産量が増えた。こちらは「日高綛(ひだかかせ)という、藤井村(御坊市)のある日高郡で生産された品質の高い綛糸を港から積み出す様子が描かれている。

 

鯨絵巻

こちらの巻物は「鯨絵巻」という、色んな種類の鯨の絵が描かれたもの。この巻物には京の魚屋の署名が入っているらしく、鯨の仕入れをする際に説明する書物だったと考えられているようだ。

 

こちらには紀州国の地場産業が、地図にそれぞれ記されているのが見られる。太平洋に面している立地を活かして、蜜柑を船で江戸に直送したりと、関西地方の中では江戸に名産品を出荷しやすい場所でもあった。

 

江戸時代は徳川幕府が実権を握っていた時代だが、京に置かれた朝廷の役割は建前上、昔のまま維持された。こちらの書は紀州藩6代目藩主だった徳川吉直”従三位近衛権中将”に叙任された時に朝廷から贈られた文章である。三位以上の官位には、この薄青色の紙が使われていたという。

 

 

こちらは天皇の命令を蔵人頭が担当の公卿に口頭で伝えた内容を書き残した書類で、叙任の際に一緒に渡されたようだ。天皇の命令と言いつつ、本当は江戸幕府の意向がその裏にあって、天皇は操り人形となっていた訳であるが。。

 

徳川茂承:帰国行列図

こちらは「徳川茂承:帰国行列図」という、紀州藩14代で最後の藩主でもあった「徳川 茂承(もちつぐ)が参戦していた第二次長州戦争で、時の第14代将軍:徳川 家茂(いえもち)が大坂城で急死した事を受け、天皇からの勅命で休戦となった為に広島から引き返す紀州藩の様子が描かれている。

 

小田井堰工事

こちらは1701年に伊都郡学文路村出身の大畑才蔵という人物が指揮を執って築いた、紀州国内でも随一の用水路として名高い「小田井堰工事」が説明されている。新田開拓など農地を開発する為には、近くに河川がない地域まで水を送る必要があった。この小田井堰工事では、10年以上の歳月と20万人以上の労働力が投入された大工事だったそうだ。

 

こちらは1884年後に製作された「小田井諸樋管 橋梁等取調図」という物で、その小田井堰工事で造られた用水路がどう流れているかなどが調査された報告書になっているようだ。

 

華岡青洲 乳癌図

こちらは全身麻酔による乳癌摘出手術を初めて行ったとされる華岡青洲が、門下生に乳癌患者の症状やその手術法を説明し、それを門下生が書き写したノートの1冊だという。江戸時代までは全身麻酔の技術が殆ど無かった為に、大掛かりな外科手術が行えなかった。この乳癌もその部位を大きく切除する必要があるが、大きな痛みを伴う為に手術が出来なかった。

 

こちらは華岡家に伝わる、華岡青洲が開発した薬の原料や調合分量などについて、佐賀出身の弟子がまとめた書となっている。華岡青洲は秘密主義で、門下生には基本口述での説明だけだったので、門下生達はコッソリとこのようにノートにその教えを残していた。

 

華岡青洲 肖像画

華岡青洲は秘密主義だったので門下生がメモしたこのようなノートを見つけると、その弟子を破門にしていたというが、このように詳細に麻酔薬や手術内容が記された書があったからこそ、華岡青洲の業績が現代にも知れ渡るという、皮肉なノートでもあった。

 

 

徳川斉順 帰国行列図

こちらは「徳川斉順 帰国行列図」という、紀州藩第11代藩主「徳川 斉順(なりゆき)が普段住まいの江戸の御殿から、国元の和歌山城まで大名行列している様子を描いた物。この時代にはすっかり恒例行事となっていた大名行列だが、紀州徳川家と将軍家に近い家柄でも、このように定期的に大名行列を行う必要があったようだ。

 

徳川斉順 帰国行列図

この紀州藩第11代藩主:徳川斉順は、約21年間の紀州藩主時代に合計8回ほどの大名行列を行ったようだ。この大名行列は2年に1回の晴れ舞台的なイベントでもあり、また世間に向けて自藩の力を魅せ付ける必要もあった為に、それなりに費用を掛けて大見得を切って行進する必要があったようだ。

 

種姫輿入れ行列図

こちらの絵はちょっと違うタッチで描かれているが、「種姫輿入れ行列図」という、紀州藩主の中でも特に文化人として名高かった第10代藩主:徳川治宝(はるとみ)の正室に迎え入れられた「種姫」の輿入れ行列を描いた物。この「種姫」は単なる大名の娘ではなく、田安徳川家の祖である徳川宗武の七女であり、また第10代将軍:徳川家治の養女ともなった人物である。

 

種姫輿入れ行列図

養女ではありながらも将軍家からの輿入れという事もあって、特別に豪華絢爛な行列が行われたそうだ。ただ表向きは将軍家から輿入れというのは大変喜ばしいように思うけど、実際には江戸城の大奥で種姫の世話をしていた多くの世話人も一緒に紀州藩に迎え入れ、更には種姫の身の回りの品も豪勢な物ばかりを使用したので、紀州藩の経費が一気に増えたという。

それもあって6年間に渡って紀州藩士の給料が半分に減らされたようで、豪華な行列の裏で多くの紀州藩士が泣いた輿入れだったのだろう・・・。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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