和歌山市旅行記2021年1月-⑥
旅行期間:2021年1月某日(0泊1日当日旅)
葵の御紋だらけ!
ここは江戸時代に和歌山藩(紀州藩とも)の中心地だった和歌山城。その天守閣は見学できるようになっており、また大天守・小天守に分かれており、更に2つの櫓が合体して連立天守閣ともなっている。
天守閣内の「わかやま歴史館」の続き!
この和歌山城の大きな方の天守閣は3層構造となっているが、その途中の空間は「わかやま歴史館」として歴史的な資料や文化財が保管・展示されている。とりあえず1階部分は程々に見学して、こちらの無機質な階段を登って2階へと進んで行く。
そして2階に登っても、このように辺り一面に歴史的な文化財などが展示されている様子が見える。ただここの展示の仕方が、デッドスペースになってしまう柱部分を上手く活用して、そこに掛け軸や陣羽織などの文化財を展示して、スペースを有効活用しているようにも感じた。
こちらは「葵紋:革製陣羽織」で、主に甲冑を付けた上から着ていたとされる陣羽織だ。どうやら紀州徳川家の藩主が着用していた陣羽織らしく、生地は何と革製になっているようだ。
そして葵の家紋部分は豪華に金糸で刺繍されており、一般の家臣では触れる事さえ許されなかった逸品かもしれない。江戸時代は日本全国に300以上もあった藩の殆どが、藩財政に苦しんでいた時代ではありながら、藩主の身の回り品はそれなりに調度品が使われていた事だろう。
こちらの書は、紀伊紀州藩:第12代藩主だった「徳川 斉彊(なりかつ)」が書いた作品となっている。この徳川斉彊は紀州藩の藩主から江戸幕府の将軍になった徳川吉宗の玄孫(やしゃご/孫の孫)だった人物でもあり、第11代江戸幕府将軍:徳川家斉の21男でもあった。ただ紀州藩主としては3年未満の在位で、30歳で死去している。
こちらの書状は、紀伊紀州藩:第12代藩主だった徳川斉彊の兄であり、先代の第11代藩主だった「徳川 斉順(なりゆき)」の物。2人の父親で第11代江戸幕府将軍でもあった徳川家斉は、50人を超える子供をもうけており、この徳川斉順と徳川斉彊の兄弟は20歳近くも離れていたようだ。
徳川家斉はワシの曾孫だよ!
こちらの書状も、紀伊紀州藩:第12代藩主だった「徳川斉彊」の物。江戸時代の歴史に興味が無い人からすれば、同じ苗字ばかりが続く藩主の事など、覚えようとしても覚えれない程だが、この時代の紀州徳川家は主に徳川吉宗の血を引いた「御三卿(ごさんきょう)」の勢力が強かったようだ。
日本史の中でも資料が沢山残されるようになったのが江戸時代で、このような本も手書きの写本から木版の印刷物として発展していった事も大きく影響している。なので世界的にも「印刷」という技術は、産業革命前に大きく人類の文明を向上させる技術となった事が分かるのである。
こちらは「群書治要」という、古代中国の古典から治世に関する重要な箇所をまとめた”政治のノウハウ本”だった物。優れた考えというものの大半は、既に古くから究明されている事が多く、過去の偉人の考えを学ぶ事が良い未来を築く為に不可欠だった事が分かる。
この「群書治要」はあの徳川家康が駿河で出版していた本らしく、徳川家跡取りのバイブル的存在だった本。優れた人間には優れた師の存在があり、優れた師はこういった歴史的な資料から優れた思想を学んでいた事だろう。
この2021年も引き続き新型コロナウイルス感染が世界的に蔓延していた時代なので、館内の窓は開けられていて換気が行われていた。しかし1月という寒い時期に訪れた事もあって、その窓から差し込んで来る冷気に冷やされつつも、展示品をしっかり見学していく。
こちらは「黒塗金蒔絵:葵紋鞍」という、紀州徳川家ゆかりの鞍。この鞍は馬に乗って上手に操る為の道具として開発された物で、江戸時代は身分の高い人間しか馬に乗れなかった事もあって、高貴な人間用に向けて製作された物だったのかもしれない。
こちらは「梨地 葵紋金蒔絵 四方御菓子器」という、茶菓子を入れる為の器で、当時最高級の漆工芸で造られた逸品。下地に漆を塗った上に金粉を撒き、その上に透明の漆を塗って金箔が取れないレベルで研ぐ”梨地”という技法が用いられているようだ。
こちらの扇子は『別れの扇子』という名前が付けられており、紀州藩14代藩主で最後の藩主となった「徳川 茂承(もちつぐ)」が、廃藩置県となった明治時代初期に家臣達に配ったとされている記念品。
紀州徳川家には代々家老職として世襲されていた『三浦(長門守)家』があり、相模国の三浦氏を祖とする「三浦 為春(ためはる)」の代から徳川家に仕えていたという。この三浦為春は紀州徳川家の祖である徳川頼宣の母親の兄という存在で、その縁もあって徳川家康に取り立てられ、徳川頼宣に仕える形で駿河⇒紀州へと移り住んでいった。
こちらは1678年頃に発行された『紀州藩家老:三浦為隆 位記』という、三浦為春を祖とする紀州三浦家3代目だった家老の三浦為隆に”従五位下”を授けた時の辞令だという。江戸時代の家老職には世襲制が多く、その影響で汚職などが行われる事も多かったようだが。。
世襲制は個人的に好きではなかったね!
こちらは現代人が見れば”カツラ”のように見えるが、これは「毛槍」という槍の先に取り付けて、大名行列の先頭などで振り歩いて目立たせた装飾物の一種。この毛槍は三浦家が所用していた物で、この毛は動物の毛が使われているという。
こちらの地図は昔の和歌山城内を描いたもので、藩主が住んでいた上の方にある二ノ丸には大奥や中奥などもあって、大きな建物になっていた事がよく分かる。藩主は子孫を残す為に正室だけではなく側室を何人も召し抱えていたが、それに伴って世話をする世話人の数も膨れていった。
こちらは1850年に再建された天守に使用されていたと推測される、葵紋が入った鬼瓦である。今の天守にも葵の御紋が入った鬼瓦が取り付けられているが、江戸時代の鬼瓦はこのようにお役御免となって、今は館内にて大事に保管されている。
そしてこちらから、和歌山城の石垣についての説明コーナーとなっている。城と言っても、昔からそこに城が存在していた物と、江戸時代初期に新たに建造された城によって、このような石垣にもその違いが見受けられるようだ。
この和歌山城は秀吉が近畿内を制定した後に、弟の羽柴秀長を送り込み、築城させた物が基本となっている。なので戦国時代後半に、このように昔ながらの”野面積み”で構築されている石垣が多く現存しており、ここ和歌山城ではそのような昔ながらの野面積みの石垣は解体せずに、そのまま活用していたようだ。
そして江戸時代の城に多く見られるのが、こちらの”打込ハギ”と呼ばれる、石垣の面を平らに削った形式の物。野面積みよりも石垣表面の凹凸がかなり少なく、多少手間は掛かるが見た目にも整っているので、江戸時代に好まれた石垣スタイルだったようだ。
その石垣スタイルで更に発展したのが、こちらの「切込ハギ」という、石を綺麗に削って整えた物。野面積みや打込ハギでは、石の間にどうしても隙間が発生してしまい、その対策として”間詰石”を隙間に詰め込んでいたが、この切込ハギは間詰石が不要な程に隙間すらない形式となっている。しかし、費用と手間がかなり掛かった為に、予算が豊富にあった城造りでしか、主に見られないようだが。
こちらには石を割る際に空けられた「矢穴」が入った石が置かれている。現代みたいに色んな機械が無かった江戸時代までは、石垣に使われる石を割るのには、全て人力で行われていた。
大きな石材を”切り出す”という表現が使われているけど、実際には矢穴を空けて、そこに鉄製の矢と呼ばれる物体を差し込んで衝撃を与えて”割って”いたので、正確には”石を割り出す”という表現の方が正しかったのかもしれない。
なお、この和歌山城では『和泉砂岩』という岩石が多く石垣に用いられており、独特な風合いの石垣になっているようだ。同じような石垣に見えても、それぞれの石垣に用いられた石の産地が異なっているので、全く同じ石垣というのは存在せずに、それぞれに個性がある江戸時代の石垣となっていたようだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
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