暴れん坊将軍も眺めたハズの、和歌山城天守閣からの景色とは【和歌山市旅行記⑦】

和歌山市旅行記2021年1月-⑦

旅行期間:2021年1月某日(0泊1日当日旅)

一面に紀州が拡がる!

ここは和歌山県和歌山市内の高台に造られている、江戸時代に紀州徳川家が治めていた和歌山藩(紀州藩)の中心地だった和歌山城の天守閣内。その天守閣の建物内は「歴史博物館」ともなっていて、紀州徳川家ゆかりの品々が沢山展示されている場所でもある。

 

 

 

天守閣内の見学!

和歌山城内に現存している石垣には、戦国時代に建造された物から江戸時代に造られた物もあって、その時代の移り変わりと共に石垣建築の技術が向上していった様子も伺える。またそのような技術と共に使用されている石の材質なども変化していき、一見地味に見える江戸時代だが、実際には色んな面で進化していった時代でもあったようだ。

 

現代人からすれば、石垣って完成した外側から眺めるだけの物だが、大きな石ばかりで構築されているのかと思ってしまうけど、実際にはこのように外側だけに大きな石が積み上げられているが、中身は砂利や砂になっている。

 

そんな石垣の裏側に詰められた砂利などの中には、このような遺物がたまに入っている場合があるそうだ。これら石垣の中に入っていた遺物は子供のイタズラで入れられた物ではなく、色んな願掛けの一種として入れられていた可能性があるようだ。

 

石垣内には、このような紀州徳川家に仕えた桑山家の”桔梗紋”が入った瓦や、茶碗なども出土している。このような遺物は現代のタイムカプセルのような意味合いもあったのか、それとも後世にこの石垣造りに関わったという証拠を残す為に入れられたのだろうか?!

 

それ以外にも石垣内には、五輪塔や石仏が彫られた石なども入っていたようだ。石垣にはたまに墓石などが活用されている場合があるけど、広範囲から大量の石が必要となった為に、使えそうな石は再活用されていた事だろう。

 

ただ石仏が彫られているというこちらの石も、道端でもし落ちていてもそんな事に気付かずに通り過ぎ去ってしまいそうな程に、石仏が分かりにくい。本格的に石仏として彫られていた石ではなかった為に、石垣に再利用されていたのかもしれない。

 

江戸時代に造られた石垣も、場所によっては地震の影響で石垣が膨れて崩壊した場所などで、一旦解体されて補修工事が行われる際に発掘調査が行われている。その際に色んな遺物が出土する場合があり、数百年埋もれていた物が陽の目に当たる機会となる。

 

こちらの「双青寮」という、紀州徳川家が大正時代に築いた別邸を描いた絵で、昭和天皇が皇太子時代に和歌山県を行啓した際に宿泊した施設ともなっている。ただしこの双青寮は現存していなく、当時を偲ぶこのような絵などでしか、その存在が残されていないようだが。

 

こちらには戦国時代以降に、この紀州にゆかりのある大名の系譜が飾られていた。主に戦国時代に畿内を平定した後に居城を築いた羽柴秀長以降となっており、江戸時代初期に紀州藩の藩主を務めた浅野家などの名前も見られる。

 

その江戸幕府は天下を統一した徳川家康の血を継ぐ徳川家が支配した組織だが、沢山の人物が生まれているので、単なる”徳川家”では曖昧になり易く、紀州ではこの地を治めていた徳川頼宣を祖とする”紀州徳川家”という括りになっている。

 

徳川幕府の将軍職は初代の家康から、2代目将軍は徳川秀忠に引き継がれた。それ以外の兄弟は分家のような形で”御三家”と呼ばれ、紀州徳川家以外に尾張徳川家水戸徳川家が将軍家に次ぐ、高い地位にあった。なお、後に紀州徳川家からは徳川吉宗が将軍として選ばれる事になり、その吉宗の子孫筋である”御三卿”も後に誕生している。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

御三家やら御三卿やら、日本人は『三』の括りが好きな民族だ!

 

こちらは紀伊国紀州藩:第10代藩主だった徳川 治宝(はるとみ)が描いたとされる、『花鳥之図』。この徳川治宝は紀州藩主の中でも特に文化人として知られた人物らしく、また80歳を超えて生きた長寿の藩主でもあったようだ。ただ長寿の藩主は隠居後に強い影響力を持っていた事もあり、裏でフィクサーとして紀州藩を操っていたという説もあるようだ。

 

こちらには鹿の角部分の剝製が刀置きとして活用されている。こちらの刀は金蒔絵梨地という、当時の最高級の装飾が施されていて、かなりの高貴な人物が所有していたと考えられている。江戸時代にはこのような刀は護身用ではなく、偉いさんの贈答用ギフトという感じで、変化していったようだ。

 

そんな沢山置かれている展示品を眺めながら、次に見えてきた階段を登っていくと、このように明るい太陽光が差し込んでいる景色が少しずつ見えて来て、天守閣の最上階に近づいてきた実感を受ける。

 

 

天守閣最上階に到着!

そしてこのように解放感のある、和歌山城の大天守閣最上階に到着する。ここを訪れたのは1月で寒い時期だったが、普段は寒いから外に出る窓が開閉式になっていたのかもしれないが、コロナ禍で換気が必要という事で窓は開けっぱなしになっていた。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

現代の天守閣は、こんな感じになってるのか!

 

「馬鹿と煙は・・・」という有名な言葉にある通り、人は高い天守閣の上に登りたがる傾向がある。特にお城の中心地だった天守閣は、元々は物見櫓という周囲を観察する為にわざわざ高台に造られていた事に由来する建物なので、そこからの景色はひと際絶景が待ち受けている事が多い。

 

この最上階にはベランダのように外側に通路が造られているが、その前に最上階フロアに和歌山城の模型が設置されていたので、先にそちらを眺める事にする。ここを訪れた時期はご覧のように全然観光客が居なかった事もあって、ゆっくり見学する事が出来た。

 

こちらには”150年前を偲ぶ”という文句と共に、『和歌山城郭模型(1/300)』と書かれた文字が見える。昭和前半の時代を和歌山で生きてきた人は太平洋戦争の末期に空襲で焼失してしまった和歌山城天守閣を、生で実際に見ていた。だから、そのような記憶がある人からすれば、今の再建された天守閣よりも、昔の記憶の中に存在する過去の天守閣を思い出すのであろう。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

やっぱり天守閣は木造がいいんだが・・・

 

こちらの模型では、今は見られない本丸御殿の姿も見られる。元々は羽柴秀長時代に城が建築されたのが、この本丸御殿があった小高い山の上で、後に移封されてきた浅野家が新たに築いたのが、今の場所にある和歌山城天守閣なのである。

 

さて昔の姿を再現した模型を眺めた後は、満を持して最上階のベランダ部分に足を踏み出す事にする。過去に2回、この場所に来た事があるけど、まるで今回が初めて来たかのような気持ちで、外に飛び出す事にした。

 

 

天守閣最上階からの眺め! 動画

 

 

1月という事もあって外に出ると、冷たい風が肌に吹き付けてきたが、その寒さもぶっ飛ぶ位に天守閣最上階からは和歌山市内の景色が一望できた。本音を言うと寒さはぶっ飛んだりせずに、「絶景≧寒さ」という意識であまり感じないだけで、寒いのは寒いが・・・。

オカン
オカン

めちゃくちゃ寒かったけどな・・・

 

そしてこちらは天守閣から北西側の景色で、奥にある紀伊水道に流れ込む「紀の川」の様子が一望できる。このような立地に造られた城からは、重要な水路ともなっていた紀の川を監視する目的もあったとされている。

 

 

こちらの下の方には、脇に造られている小天守の屋根も見えていて、鯱が2体屋根の上に乗っている姿も見られる。なお、先程見えていた紀の川は秀吉が和歌山にあった太田城を攻める際の水攻めで、突貫工事で紀の川を堰き止めてその流れを変えて水攻めを行ったとされている。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

秀吉公の水攻めは、鬼のような策じゃ!

 

そしてこの天守閣最上階で待ち受けてくれていた、2021年一発目に出会った”双眼鏡クン”がこちら。和歌山市内でも有数の高台展望スポットに設置されている割には、そんなに塗装が剥げている感じはなく、また地中海沿岸のイスラムの街に見られる○○ブルーとコントラストのある白の壁をイメージしたかのような外観になっていた。

 

 

江戸時代は海運で大量に物が運ばれる時代になった事もあって、陸地だけを見守るだけではなく、このように紀の川を含めた紀伊水道を監視する必要性もあったのだろう。その監視の為には、この高台の物見台が最適な立地であり、また城の存在を遠くまで見せつけるという効果もあったのかもしれない。

 

この和歌山城天守閣は、大と小の天守以外に櫓などと繋がっている”連立式天守閣”となっており、普通の城の天守閣であればこの最上階からの景観を楽しんで終わりであるが、ここ和歌山城ではまだここから繋がっている回廊を進んで行く必要があるのだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ

↓↓↓↓和歌山市旅行記:初回↓↓

暴れん坊将軍の出身地:和歌山市にある和歌山城へ向かう【和歌山市旅行記①】
2021年1月に訪れた和歌山市内旅の旅行記。JR和歌山駅に降り立ち、城下町だった堀などを見ながら和歌山城を目指します。
タイトルとURLをコピーしました