「和歌山県立博物館」で和歌山の歴史を更にお勉強(Part-1)【和歌山市旅行記⑭】

和歌山市旅行記2021年1月-⑭

旅行期間:2021年1月某日(当日旅)

博物館は面白い!

「和歌山県立博物館」の外観

さて前回は和歌山城の南側に造られている和歌山県立近代美術館を見学したが、続いてその隣に併設されている「和歌山県立博物館」も見学していく。この博物館の建物も隣接している近代美術館と同じ1994年に、有名な建築家:黒川紀章の設計で建てられている。

 

 

 

和歌山県立博物館の見学開始!

「和歌山県立博物館」の内観

こちらは「和歌山県立博物館」の入館料を払って内部に入った景色だけど、結構に盛りだくさんの展示している雰囲気がある。この建物はバブル時代に計画されただけあって、広々とした館内になっている雰囲気が漂っていた。

 

こういう博物館の展示品って、どの時代からスタートするか?とか、どの時代の展示品を多く魅せるか? などその博物館によって特徴がある。このように大きな展示スペースが設けられている博物館であれば、それぞれの時代毎に均等に展示品を並べていけばいいけど、あまり広くない博物館では所蔵品を全て展示する事が出来ないだけに、展示品で悩む事も多い事だろう。

 

この和歌山県立博物館では、まず縄文時代や弥生時代といった、2000年以上も前の時代に人類が使っていたと考えられる土器類が展示されている。このような土器はだいたい日本全国でそれなりに見られる物だが、微妙に地域の特徴が出ている物もあるが、よほど考古学のマニアでなければそのような違いには気付けないが・・・。

 

弥生時代の人類が使っていたと考えられている土器と共によく目にするのが、こちらの「銅鐸」である。この銅鐸って何に使っていた物かはハッキリ明確に分かっている訳ではないけど、古代中国大陸では死者と共に埋葬する埋葬品の一種だったようだ。それが日本に伝わり、更に大型化され、手前に置かれている石の「舌(ゼツ)を銅鐸内部にブラ下げて音を鳴らしていた可能性が考えられているようだ。

 

日本人の祖先は主に農耕民族だった事もあり、次第に集団生活の輪が大きくなっていき、その集団を維持する為に代表者が集団を管理していくようになる。すると、その代表者の運営資金が必要となり、「税」という納め物が確立されていったようだ。

 

この和歌山県立博物館の展示コーナーで特に目を惹いたのが、展示品の時代が変わる毎に置かれていた、このような小さな人形だった。こちらの人形のタイトルは『税を都に運ぶ農民』というもので、古墳時代から平安時代の庶民をイメージして作られた物のようだ。

 

こちらの書物は「紀伊国大税帳」(複製品)という、毎年正倉院に蓄えられた税(米)の収支決算を報告していた書類(730年頃の)だった。今から既に1300年も前頃から、既に税を納めて管理するシステムが構築されていた事が分かる書類でもある。

 

こちらは江戸時代の1723年に発行された「版本 延喜式」という、9~10世紀頃の紀伊国から都に年貢を納めたルールが書かれていた本。このように昔から支配する側と、支配される側に世の中が隔てられていたようだ。

 

 

こちらは有名な「古事記」(複製品)であるが、これの原本は1371年頃に恐らく写本で書かれた物となっているようだ。昔はこのような本も1冊1冊を全て人間が手書きで写していた訳だが、それだけ当時はこのような本自体がとても価値ある宝物だった事だろう。

 

こちらも有名な『日本書紀』で、この原本は大昔の本ではなく、1669年頃に発行された木版での印刷物。昔は全て写本で本を製作していたのが、木版を使った印刷技術が出てきた為に、印刷物が増えていく事になる。しかし、木版は版がヘタり易いので耐久性がなく、あまり大量の印刷には適していなかった。

 

こちらはよく猿の置物で目にするポーズが見られるが、『地頭の非法に抵抗する百姓』というタイトルになっている。これは平安時代後期~鎌倉時代をターゲットにしているが、税の徴収が義務として慣例化してくると、次第に支配者は勝手に富が増えていき、それによって更に欲望が増えていって税負担を重くしていった。しかし農民たちはそれに反発し、このように何も聞こえないフリをして税を誤魔化していった。

 

こちらは「美福門院令旨」(複製品)で、1159年頃に書かれた、ある地域の年貢を鳥羽法皇の菩提を弔う為にその経典の転読料にするよう、命令した書類だそうだ。このように税の歴史はちょっと見てみると、現代と大して変わらないシステムとなっていて、徴収する側は何としてでも多くの税を求め、納める側は何としてでも少ない税だけを納める方法を常に探り合っていた事が伺える。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

全員が喜ぶ税システムなんて、存在しないよ・・・

 

こちらは「高野枡」(復元)という、1396年頃に作られたと考えられている高野山オリジナルの枡。日本では昔から年貢は米で納められていて、米は細かい粒なのでその計測にこの四角い枡を利用していた。そこにずる賢い税関が少し大きめの枡を作って、多めに年貢を徴収し私腹を肥やしたりなどの横領が日常的に行われていたという。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

今では日本酒を飲む器になっとるけ!(笑)

 

そんな日常的な役人の横領に苦しんでばかりの農民達は、遂に立ち向かう事を決意する。それら地頭と呼ばれた役人の不正を告発した「カタカナ言上状」を作成し、自分達はもう不正に屈しない態度を表明したのである。

 

「カタカナ言上状」という名の書状だけあってカタカナで書かれているのが見えるけど、昔の農民は字が読み書き出来なかった人ばかりだったので辛うじてカタカナだけ書ける農民の代表が、力いっぱいに書いた物である。現代では明治時代以降に学校制度の義務化によって、日本国民の識字率はほぼ100%に近いが、学校制度が充実していない後進国では満足に読み書きできる人も少ないのである。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

教育制度が人類を発展させたと言っても過言ではないよ!

 

このような税についての歴史を少し見るだけで、昔から働かなくても勝手に収入がある人間はそれに依存してしまって、その収入の元となる物を頑張って納めてくれている人間の事を下に見てしまうのが分かる。これはそういう人間の考え方が悪いというよりは、生物的な本能として、そういう環境に立てばそう流されやすいという事なのだろう。

 

 

こちらは「粉河寺参詣曼荼羅図」という安土桃山時代に描かれた、「粉河寺(こかわでら)という1200年以上の歴史を持つ粉河観音宗:総本山の寺院の様子である。粉河寺の本尊である千手千眼観世音菩薩や寺の境内の様子が描かれた、国宝となっている『粉河寺縁起絵巻』などにも描かれている有名な寺のようだ。

 

こちらは「道成寺(どうじょうじ)縁起」という室町時代の16世紀後半に作られた巻物で、熊野古道に参拝に来た僧が途中に寄った宿の女性の愛執を描いた当時大人気になったという作品である。僧と女はいい仲になり、「また戻ってくるから、その時に一緒になろう!」と言って僧は立ち去った。しかし待てども僧は女の元に戻って来ずに、気になって調べてみると、僧は女を避けるように帰り道を進んでいたのを知る。

 

それを知って激怒した女はなんと龍に変身して、僧を追いかけ始めたという。その僧は龍となった女の追跡を何とか逃げて、道成寺という寺に逃げ込んだ。そしてその寺まで龍が追いかけて来て、寺の住職から大きな鐘の中に隠れるように言われて僧は鐘の中で身を潜めた。

 

そして道成寺にやって来た龍は鐘の中に僧が逃げ込んだ事を知り、その鐘に巻き付いて火を吐き、僧を焼き殺してしまう・・・というストーリー。現代人からすれば驚く展開の話だけど、昔の人からすれば大好評の内容だったらしく、アダムとイブの時代から男と女の愛憎劇は常に人気を博していたようだ。。

 

和歌山というと「高野山」がやっぱり有名で、その高野山というと「空海」が開いた高野山真言宗の総本山である。こちらは”弘法大師”とも呼ばれる空海を描いた作品であるが、日本国内では神様に近い存在として崇められている人物でもある。

徳川ヨシオ
徳川ヨシオ

高野山の勢力は凄い権力を持っていたんだよ!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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