九州縦断旅:熊本編
旅行期間:2020年8月中旬
加藤神社から眺める熊本城
2020年8月に訪れた熊本市内で熊本城を見ようと思っていたけど、2016年に発生した熊本地震で被災した為に本丸などは修復作業中で近くまで立ち寄る事すら出来なかった(※有料ゾーンは本丸の前まで行けます)。なので観光案内所で教えてもらった、本丸を無料で近くから見られる加藤神社にやって来ました。
熊本城内にある加藤神社に到着
熊本城内で本丸の北側に位置する加藤神社は、大小の天守閣を備えた本丸を望むにはベストスポットのようだ。そしてこの神社は名前からして、この熊本城を築城した加藤清正を祀る神社である。神という存在は目に見えない空想の存在かと思っていたけど、多神教の日本では戦国時代に生きた武将までも神様として崇められているのだ。
そんな加藤神社の鳥居をくぐって境内に入ると、まずは樹齢が長そうな大きな木が出迎えてくれます。日本の神社ではこういった昔から生えている木を”神木”などと霊気が入っているものと信じて、一緒に崇める風習がある。キリスト教やイスラム教などでは一神教なのでこんな木を神様として扱う事はないので、もし教会建設の邪魔になっているのであれば切ったりしてしまうのだろう。
だからそんな大きくて長い年月が経ってもいまだに生えている木を崇めている証拠に、このように幹の間に可愛らしくも見える小さな祠が取り付けられていた。
鳥の巣のようにも見えてしまうような・・・
加藤神社内の案内板にも記載されているように、この加藤神社の主祭神は加藤清正公である。元々この加藤神社は日蓮宗の信者であった加藤清正が熊本城主になった際に、大阪で加藤清正公の父親を祀っていた本妙寺を熊本城に移させたのが始まりとされている。そして清正の死後に遺言に伴い、本妙寺の霊廟に清正公の像が設置された。その後、明治時代に入り寺と神社が分離されて、その本妙寺の霊廟だった社殿だけが熊本城内に移動されて、その後に加藤神社という名前に改名されたという。
そして堅固な熊本城が熊本地震によって被災している訳だから、当然本丸のすぐ横にある加藤神社内も石垣が崩れていた。ただまだこの石垣まで復興作業が間に合っていないので、これ以上の倒壊を防ぐ為に石垣には金網が被せられていて、土嚢袋が敷き詰められていた。
神社内には付き物の、入口にあるお清めの手水も2020年のコロナ禍では神社によって対応は真っ二つに分かれていた。そのまま手水が使える場所と、コロナウイルス感染を危惧して手水の使用禁止にしている場所と。この加藤神社ではコロナ感染対策として柄杓の使用禁止になっていたが、その代わりに水が流れ落ちており、手水は使えるようになっていた。
加藤神社から眺める、熊本城本丸
そして加藤神社の境内に入ってちょっと先に進むと、右側には熊本城の本丸が綺麗に見えるスポットがすでに造られていた。建造物も正面から撮る写真よりも、斜めにズラして建造物の立体感が出る角度から撮る写真の方が綺麗に見える。ただこの時は本丸の修復工事真っ盛りの時期だったので、このように手前にある小天守閣の周りには足場がびっしりと組まれていた。
この案内板にもあるように今回熊本城に実際来てみて初めて気が付いたのが、このように天守閣が1つではなくて、大きい天守閣と小さい天守閣の2つの天守閣を持つ構造となっていた事。
天守閣ってのは1つと思い込んでいただけに、結構ビックリしました!
熊本城にはさっき見た宇土櫓も加えて、3つの天守閣という説もあるばい!
そんな加藤神社に設置されている写真スポットには、何やら見慣れないマスコットキャラクターの看板が立っていた。こちらは名札にもあるように「清正くん」という、『加藤清正公、生誕450年&没後400年記念事業』のPRキャラクターであり2009年に誕生した。ここでこの清正くんと一緒に本丸を背景に写真を撮るというよりかは、清正くんの存在感が強過ぎて、ピース姿の清正くん単独で本丸との写真を撮った方が似合っているように思う。。
この立て札にも書かれているように「熊本城 近望の名所」とあるが、この加藤神社が熊本城内に移されてきた明治時代初期にはこの場所には加藤神社はなかったのである。1871年(明治4年)に仏教の寺院内に神社があっては不都合という理由で、加藤神社の前身となる錦山神社が造られたのは「平左衛門丸」という天守閣のすぐ西側の場所だった。だからその当時は、真横から天守閣を見上げる場所にあった加藤神社だった。
しかし加藤神社が熊本城内の平左衛門丸に移築された明治4年に、熊本城敷地が陸軍の軍用地となった為に参拝客で賑わう加藤神社が軍備上邪魔になる。それから3年後の明治7年に本丸横の平左衛門丸にあった加藤神社は、内堀を隔てた現在鎮座する京町の新堀付近へと移動されたのである。
そんな加藤神社境内で本丸が見えるスポット近くには、こちらの立て札が置かれている木もあった。これは「忠広公ゆかりの松」と呼ばれていて、加藤清正の嫡男で熊本藩2代目藩主であった加藤忠広に関する松。今でも熊本県民に寵愛されている加藤清正であるが、実は彼の息子の代で熊本藩主が途切れてしまっていて、熊本藩主加藤家としては短命であった。
1611年に没した加藤清正に代わり、当時11歳であった加藤忠広が熊本藩2代藩主に就いたものの、若年でありかつ藩主としての片鱗が垣間見れなかった事もあってか、江戸幕府から厳しい注文を付けられる。そして熊本藩をまとめ上げられなかった為に1632年に加藤家改易の処分になってしまい、熊本藩主の加藤忠広は出羽庄内藩主:酒井忠勝にお預けの身となってしまう。
その後、出羽国丸岡に1代限りの1万石を与えられて細々と生活をして、1653年に没した加藤忠広。そんな隠居中に周辺にあった金峯神社参拝などを趣味としていて、そんな金峯山に自生していた松を自宅に移植していたそうだ。そんな松が更にこの加藤神社に移植されているのだろう。
加藤清正というと『虎之助』とも呼ばれているように、秀吉の朝鮮出兵の時に参加した際に”加藤清正、虎退治”でも有名である。そんな虎がトレードマークの加藤清正公がこの肥後熊本にやって来た1588年から400年を記念して、1988年(昭和63年)に造られた記念碑であるという。
当時は日本に生息していなかった虎が珍しかったばい!
そして鳥居から真っ直ぐ進むと奥に鎮座しているのが、加藤神社の社殿である。ただ明治7年にこの場所に移された加藤神社の社殿は明治10年に起こった西南戦争の直前に、本丸と共に焼失してしまっている。それから約7年後に加藤神社に社殿が再建されたという。
社殿正面に置かれている賽銭箱の上には、このように参拝の作法が書かれた札が置かれている。二礼して、二拍手して、最後に一礼するといったやり方のようだけど、神頼みをしない人間からはあまり興味のない作法。イスラム教の国に行った時に、現地の人が「神に祈るのは神様の為ではなく、自分の為に祈る人ばかりです!」と言っていた。
宗教としては神様の前に従わせたい理由で神様を崇めるように信者に説くけど、実際に祈る人達は神様の幸せなどを祈るのではなく、祈るのは自分の欲望や幸せの気持ちを満たして欲しいから。
これは全世界の人間も、考える事が同じようである。。
という事で神様に対しての信仰が無いので、基本的には賽銭箱にお金を入れないし、ここで祈りを捧げる事もない。
神様がいたとしても多分、多忙すぎてショ~~もない願いを押し付けるのも気が引けるのでね・・・
そしてその加藤神社社殿の脇には、このような「太鼓橋」という橋の残骸が転がっていた。なんでもこちらの橋は加藤清正が朝鮮出兵した「文禄の役」(1592~1593年)の際に、戦利品として持ち帰ってきた物とされている。そんな太鼓橋は加藤清正の出世にかけて”出世橋”として崇められてきたようだ。
そんな出世橋と呼ばれている太鼓橋があったり、このような「大手水鉢」と呼ばれている加藤清正の家臣の家にあった手水鉢があったりと、加藤清正にゆかりのある物ばかりが祀られている加藤神社。
そんな加藤神社境内の一角ではこのように「加藤清正公をNHK大河ドラマの主人公にしよう!」という趣旨の、署名活動が行われていた。ただ署名活動とは言ったものの、この時は参拝客が少なかったからか、このように机があってそこに書類が置かれているだけだったけども。。
実はこの署名活動は「加藤清正公、生誕450年&没後400年記念事業実行委員会」が2009年(平成21年)から継続的に行っていて、毎年集まった署名を熊本城の横にあるNHK熊本局に提出しているそうだ。ただNHK大河ドラマに選ばれる背景にはこういった活動なども影響しているのかと初めて知れたけど、逆に約10年に渡って署名活動を続けても選ばれない理由が加藤清正には存在しているというのを考える機会にもなった。
NHK大河ドラマも2020年は明智光秀を主人公とした『麒麟がくる』で、この2021年は渋沢栄一が主人公の『青天を衝け』が公開される。そして2022年度の大河ドラマも発表されていて、『鎌倉殿の13人』と個人に焦点を当てずに鎌倉幕府誕生にスポットを当てた三谷幸喜氏の脚本になるようだ。
こちらは加藤神社から本丸がよく見えるスポットから、手前にある宇土櫓を見てみると、ちょうどこのように加藤神社内に生えている木が邪魔してあまりよく見えない。西南戦争が起こった明治10年(1877年)から大小の天守閣が復元された1960年(昭和35年)までの間は、熊本城の天守閣代わりだった宇土櫓。
ちなみにこの宇土櫓は記録に残っている分では明治17年(1884年)、昭和2年(1927年)、昭和31年(1956年)、平成元年(1989年)に修理されている。その昭和2年(1927年)の宇土櫓修理の際に、今までなかった屋根の鯱が取り付けられたという。というのも鯱が描かれている図面が存在していて、当時の指令室に保管されていた青銅製の鯱が宇土櫓に設置されたからだそうな。
現代(正確には昭和35年以降)に生きる我々にとっては、熊本城のこの天守閣があるのは当然の景色であるが、明治10年から昭和35年まで生きた人々にするとここに天守閣が無かったのが普通の景色であったのだ。そして今は昭和35年に再建された大小の天守閣を復元中であるが、実は鉄筋コンクリート造りという外から見るとあまりそれらしき建造物には見えないけど、新しくなる天守閣にはエレベーターも設置されるというのでちょっと味気ないのである。。
城にはエレベーターなど要らんばい!
この地にやって来た加藤清正は肥後一国52万石という大大名だったので、それに見合う立派な熊本城を築いた。熊本城内では昔は国宝となっていたが今では重要文化財に変わっている13棟の建造物も大変貴重なものであるが、やっぱり熊本城で注目してしまうのはその基盤を支えてきた石垣である。
どの城でも、やっぱり土台の石垣が大事ばい!
こちらは加藤神社から二ノ丸公園横に設置されていた売店内に飾られていた、昔の熊本城などの資料。明治時代に撮影された熊本城の写真がそれなりに現存していて、昔の様子が見て取る事が出来る。この写真で熊本城に現存している大小の天守閣が写っているという事は、この写真が明治10年の西南戦争前までに撮影されたという事が分かる。
そんな昔の写真の横には、今は無き飯田五階櫓の模型が展示されていた。4年前に起こった熊本地震で石垣が崩れながらも、角に積まれた石が何とか踏ん張って復興のシンボルとなっていた飯田五階櫓。またいつの日か、この飯田五階櫓もこの姿が再び見られる日が来るのであろう。
その横には遠目でしか見れなかった、熊本城大小の天守閣の模型も設置されていた。さっき加藤神社の展望スポットから天守閣を見ると、手前にあった小さい方の天守閣が遠近法の影響で大きく見えていたけど、実際にはこのように大きい天守閣に比べるとだいぶ小さい天守閣になっているようだ。
縮尺が1/150という天守閣の模型では小天守閣の北東下の石垣にあるという、本丸から東竹ノ丸の平櫓に抜ける、抜け穴のような「石門」まで再現されているらしい。しかしこの模型を見ている限りは、そんな精密に造られた天守閣内部の様子までは見る事が出来なかった。。
そして加藤清正が着ていたという鎧のレプリカも展示されていた。徳川美術館で所蔵されている、この尖がった長い帽子は「長烏帽子形兜」と呼ばれていて、加藤清正の所用として伝わっているそうだ。そして丸のような家紋は加藤家の”蛇の目家紋”と呼ばれるもので、神聖なヘビの目がイメージされたデザインで、日蓮宗で好んで使われていた為に日蓮宗信者であった加藤清正が選んだとされているそうだ。
そして暑い真夏だったので「どんなアイスが置いてあるかな?!」と思って冷凍庫を見てみると、こちらの「熊本城名物:石垣氷」が1袋200円で売られていた。このような氷を見ると、真夏に行われる甲子園大会で売られている「かちわり氷」を思い出す。
一瞬欲しく思ったけど、冷静に考えたら重たいし荷物になるのでパス・・・
そしてとりあえず熊本城の下見を終えて夕方の時間帯になってきたので、そろそろ一旦熊本市の繁華街にある今晩宿泊するホテルへと向かう事にする。
帰りはさっき循環バスに乗ったルートを歩こうと思っていたけど、二ノ丸公園にあるバス停にちょうど循環バスがやって来たので思わず乗り込んでしまった。他に乗客が居なくて、乗客ゼロで運転する運転手さんも寂しいだろうと思っての行動だった。
そこまで広いルートを走る訳ではない熊本城内専用の循環バスだけど、高低差がそこそこにある為に高齢者にも快適に観光してほしいという意向もあって、無料で循環バスが運営されているのだろう。
熊本県民の優しさが溢れているような、循環バスばい!
こんな旅はまた次回に続きます!
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