九州縦断旅:鹿児島編
旅行期間:2020年8月中旬~下旬
大事な海外貿易品の開発
まだまだ島津斉彬の勉強は続きます。今回の九州旅のメインであった”島津斉彬を勉強する”という重要な目的もあったので、ここ照国神社内に設置されていた資料館が楽しすぎて仕方ない時間でした。昔のローマでの有名な言葉に「全ての道はローマに通ず」というのがありますが、「明治維新に繋がる幕末の勇者たちは、島津斉彬に通ず!」と個人的に思っています。
おいどんがここまで重宝されたのは、島津斉彬公以外だったら考えられなかったでごわす!
照国神社の資料館にて
ここで島津斉彬公の資料などを見ていると楽し過ぎて、あっという間に1時間が過ぎてしまったけど、歴史に興味ない人だったら退屈な1時間だったかもしれない。そう思うと歴史に興味が無い嫁さんや彼女と来ていたりしたら、これだけゆっくり資料館で滞在出来なかったので、これもひとえにそういう相手がいない幸せなのかもしれない。
ここでの滞在1時間の間にやって来たのは2~3組程だけ。しかもそれぞれ15分位で帰ってしまったので、ボクのようにじっくりと資料館内を見学する人は皆無だった。
そういう意味ではボクの為に、造られた資料館だったかもしれない(笑)
薩摩藩の名産品の数々
そして色々と資料館内を見回っていると、このように美しい色付けがされている薩摩切子が見えてくる。島津斉彬は欧米列強国と対等な武力を築き上げる目標と共に、将来通商をした場合に日本が送り込める程の特産品を持っておく必要性を強く感じていた。それもあって島津斉彬の代になってから、富国強兵用の設備がどんどんと造られているけど、それに負ける事なくこのような美術品の開発も積極的に行われた。
この色ガラスを用いてカットして造る薩摩切子は、その微妙な色の移り変わりが日本らしい繊細さを表現されているとして、外国で評判となる。ガラスの製造自体は先代:島津斉興の時代であったが、それはあくまでも薬や硝酸などを入れる用の瓶ガラスとしてだったが、島津斉彬の時代に急激な変貌を遂げた。一時はこのガラス工房で100人を超える職人たちが働いていたのを目撃したという、オランダ人軍医の発言した記録も残っている程に盛んだった薩摩藩のガラス工房。
その横に置かれているこちらの「さざれ石」は、日本人なら誰でも知っている日本国歌に出てくるものである。ただ意外と「さざれ石って何??」と聞くと、意外とそれを理解していない人の方が多いのかもしれない。
そういうボクもさざれ石って言われても、説明できないのです・・・
こちらは後ほど訪れる、宮崎県日向市の大御神社境内にある”日本最大級のさざれ石”と言われているさざれ石である。このさざれ石というのは石の種類というよりかは、石どうしが長い年月を経て炭酸カルシウムなどで固まって塊となった大きな石の結合体を表すものである。
さざれ石ってあまり理解していなかったけど、そのように石がくっついて出来た大きな石の塊だと思って見ると、確かにそれっぽく見える。単なる石も長い年月を経ると、このように大きく成長するものという意味で日本国歌『君が代』に出てくるのかもしれない。
そして次に見えてきたのは「蝉耳付香炉」と呼ばれる焼き物らしきもの。こちらは日本らしさというよりは中国らしさを感じる香炉だけど、ここに置かれているという事はこの集成館事業の焼き物場で造られたものなんだろう。
薩摩は中国の属国だった琉球王国を支配下に置いていたので、江戸時代には薩摩藩だけが中国と間接的にだが貿易が許されていた影響もあって、海外の文化に触れる事が出来たのであろう。それに今と違って衛生状況があまり良くなかった昔は、毎日風呂に入れなかったり洗濯出来なかった衣服などから放たれる異臭を誤魔化す為に、このような香炉がよく使われていたのかもしれない。
そしてここにもまた照国神社の歴史が見られるモニターが設置されている。という事で周りに人もいないので、じっくりと動画を眺める事にする。
照国神社は島津斉彬公が死去した後の島津忠義時代に、島津忠義の父であり斉彬の異母弟でもある島津久光が造らせた神社。幼き頃から天賦の才に満ち溢れていた島津斉彬に対して、雲の上の存在のように感じていた島津久光は斉彬が亡くなると早速この神社を造らせた。また斉彬の逸話をまとめた本を作ろうとしたが、それは西郷隆盛や大久保利通によって発行を止められたという。既に唯一無二の人物だったので、それを更に誇張する必要もないだろうと言われたそうな。。
しかし斉彬公についてこれだけの展示品が収められていて、尚且つ冷房がしっかりと効いて涼しい資料館が無料だとは驚きである。もしかしたらこの資料館に来る人が少ないのでわざわざここでお金を取る位であれば、まだ観光客が多い仙厳園で100円増しにでもした方がいいと思ったのかもしれない。
歴史的な資料は保管庫の奥に閉まっているだけでは、勿体ないでごわす!
薩摩切子コーナーにて
そしてここからは島津斉彬が諸外国と通商した時の外貨稼ぎ用に、開発を急かした「薩摩切子」の品々が並べられていた。1853年にアメリカのペリー提督が強引に江戸までやって来て、強気に通商を迫った時に江戸幕府が取った策は”1年間の返答保留”という選択だった。結局幕府内の意見をまとめきれずに、答えを先延ばしするという作戦を執ったのである。しかしその戦法は現代でも同じであるが、先延ばしは問題点を解決しないで問題の判断を先に延ばすだけの行動である。そしてそれが問題なのは、その先延ばししてる間も刻一刻と状況は変わっていくという事。
もし歯が痛くなっても歯医者に行くのが怖いから先延ばししても、歯はどんどん悪くなるだけと似てる・・・
そのペリー提督が来航した時に江戸幕府の老中筆頭だった阿部正弘は、懇意にしていた島津斉彬に助言を求めた。その際に島津斉彬は「ただちに開国すべきは名案ではなく、諸外国に立ち向かえるだけの戦力を整えるのに3~5年は必要」と返答したという。その言葉の裏には武力だけではなく、このような貿易品を開発する時間も必要だったという事だろう。本来であればもっと早くに藩主に就任出来ていれば、早くからこのような集成館事業に着手出来ていた訳であったので、その遅れを取り戻すかのように急いで色んな事業を立ち上げていったのであろう。
それにしても海外から入ってきたカットガラスなどの技術を日本的に置き換えて、開発された薩摩切子は海外でも高く評されてる事になる。そんな芸術品の域にも達しかけていた薩摩切子の運命は、残念ながらその主君の島津斉彬の命と共に消え去っていくのである。
島津斉彬が急死すると、この集成館事業の大半は即座に閉鎖されてしまう。そしてこの薩摩切子の工房も最盛期は100人を超える職人たちが日々励んでいたが、斉彬公が死去した後は5人以下に減らされてしまう。なぜ海外でも評判が良くて、今後の海外との貿易品として使える芸術品を作るのを辞めてしまったのか。それはその後を継いだ島津忠義政権の実権を握っていたのが、このような集成館事業を単なる”海外かぶれの浪費”としか思ってなくて、日本国内しか視野になかった先代:島津斉興だったからでもある。
芸術品というのはその開発には莫大な費用が掛かるし、その当時にはその出資額に対しての評価がなされない事が多い。しかし時代が過ぎていく毎に、その芸術品の評価は高くなっていくのである。だから芸術品への投資というのは、先見性がとても大事だし、それと共に余裕と勇気が必要である。
だから斉彬公が亡くなってから薩摩切子と薩摩焼という、薩摩名産工芸品の2大看板となる予定だったものが大成しなかったのも終身、大借金を返済する事に悩み続けて目先のお金ばかりを見てきて、先の未来のお金を見る事が出来なかった島津斉興の失策だったのかもしれない。
人の生き様によって色んな価値観が違うので、一概に人を悪く言うのはイカンでごわす!
そして薩摩切子は島津斉彬の死と、その後に鹿児島で起こる西南戦争でほぼ途絶えてしまうのであるが、集成館事業で従事したガラス職人たちは江戸や大阪に出ていき、それぞれの場所で新たなガラス細工作品を作り上げていく。だから途絶えた薩摩切子ではなく、新たに形を変えていった薩摩切子だったのであろう。
「萩文香合」という、今でいう化粧ポーチのような入れ物。なおこの江戸後期には島津斉彬だけではなく、他の佐賀藩なども海外からの脅威を感じており、積極的に西洋の進んだ技術を取り入れていた藩である。1867年に行われる「パリ万国博覧会」では江戸幕府代表団だけではなく、薩摩藩と共にこの佐賀藩の2藩だけが別にブースを出展した。それだけ薩摩藩と佐賀藩はこの当時に日本国内をリードする技術を持っていた藩であるが、その後の明治維新をリードする人材の差でその後の藩の知名度が大きく変わっているようだ。
何気なく目の前にある工芸品なんかもそれぞれに歴史がある。だから何も考えずにただ眺めているのではなく、その物の裏側にあるルーツなどを想像してみるだけでも、意外と楽しめるのである。
日本の歴史は古くは奈良時代から幕末の近代的国家が形成されてくる間でも、後半の方が書籍や残されている物が多い為に、より詳しい歴史が理解できるのでその資料などの量に比例して幕末などの歴史の方が人気があるようだ。個人的には昔ゲームから入った影響で戦国時代には興味があったけど、この2020年に国内を旅行してみるとやっぱり江戸時代~明治時代までの期間の歴史に、とても興味が出てきた。
だから島津家と言えばこれまでは戦国時代の島津貴久や島津家久や島津義弘が浮かんでいたが、江戸時代に興味が出てきた今となっては島津斉彬が真っ先に浮かんできて後には島津重豪が浮かんで来る。
こういう現状もただ単に歳を取って考え方が変わったからだろうか? それとも歴史に興味が出てきた一環なのかな?!
そして約1時間滞在して満喫できた「照国文庫資料館」を後にする。照国神社内にこんな素晴らしくて、しかも無料で見学できる資料館の存在はまさしく神がかり的な僥倖のように思える存在であった。
照国神社境内にて
そんな風にしてタップリと島津斉彬公について勉強した後に見る日の丸は、今まで見てきた日の丸とちょっと違うような心境になっていた。今まで約40年間、日本で生きてきて日の丸の旗デザインになった経緯など、考えようとした事すらなかった。それが実際にはここで神様として祀られている島津斉彬が、この日の丸が国旗となる由縁に関わっていようなど思いもよらなかった。
斉彬公が居なければ、全く違う日本になってたでごわす!
という事で照国神社の社殿も違うように見えるかもしれないので、再び訪れる事にする。暑い8月の平日だったので、全然人影は見えない。ただ鹿児島の人達からすると尊敬する西郷隆盛という人物が、更に尊敬していたという島津斉彬公であるから、多くの人達が神様のように思っている人物である。
明治時代に行われた廃藩置県で鹿児島は島津家が支配する土地では無くなってしまったけど、島津氏は島津忠久を初代として未だに第32代当主:島津修久氏が島津興業の会長として、またこの照国神社の宮司として先祖から続く歴史を守り続けている。
長い歴史は紐解いて勉強すればするほどに、更に興味が出てきてしまう。今回の訪問では島津斉彬公の勉強だけであったが、その背景にある江戸時代後期~幕末にかけての歴史や人物達にも興味が凄く出てきてしまった。
今回も行けてない所とかあったので、まだ鹿児島に行きたくなってしまいました・・・
次も鹿児島に来たら、桜島までやって来いド~~ン!
ボクは基本的に神様の存在という物は信じないけど、こういった照国神社の様子を見ていると、それだけ人々に慕われていた島津斉彬の人なりが少し理解できるような気がした。
そして境内ではこのように車のお祓いが行われているのが見えた。個人的にはこのように紙屑をばら撒いて、神官を自称する人が紙を束ねた物でシャカシャカとやってお祓い的な事をするより、車を運転するドライバー側がゆとりのある運転を日常から心掛ければ、交通事故は減らせると思うのだが。。
神様に敬意を示さないお主は、将来地獄行き確定け!
さて朝一番に鹿児島市内にある照国神社にやって来て、島津斉彬公の資料館を約1時間ほどず~~っと見学していたけど、興味があり過ぎてとても楽しかったので全然疲れる事なく楽しめた。そして今日は帰りの飛行機の時間までに、色々と訪れる予定にしているので、次を急ぎます。
そして次の目的地は照国神社から近い、鶴丸城跡地の「鹿児島県歴史資料センター:黎明館」へと向かいます。鹿児島に到着した初日には訪れた時間が遅かったので、門が閉まっていて入れなかったのでこれまた楽しみな見学となりそうです。
こんな旅はまた次回に続きます!
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