桜島を眺める東郷平八郎の墓をお参りして、鹿児島の郷土料理を味わう

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

鹿児島が誇る名軍人

鹿児島市内北側の多賀山を目指す

桜島でサイクリングや散策などを終えて暗がりの時間帯を迎えましたが、鹿児島市内には色んな史跡が残されているのでまだまだ散策は続けます。先程までは桜島フェリー乗り場から石橋記念公園を訪れて、江戸時代に肥後の石大工達によって築かれた石橋や宙に浮くザビエル像などを見てから、近くにある多賀山という小高い山に向かいます。

 

夜の鹿児島市内にて

鹿児島市内北側の多賀山に入る暗い道

この多賀山には鹿児島出身の偉大なる軍人のお墓と像が設置されているという。勿論全く知名度の無い人ではなくて、日本近世の歴史を少し知っている人であれば、必ず名前を知っているという程の有名人である。そしてそんなお墓が設置されている所へ抜ける階段があったので進むと、ここでも真っ暗な階段を歩む事になる。

だんだん真っ暗な所を進むのが、楽しくなってきた頃合いです!

東郷どん
東郷どん

もし反対側から人がやって来たら、その人が驚いてしまうでごわす!

 

 

多賀山公園にて

鹿児島市内北側の多賀山に入る暗い道を進む

ここ多賀山公園へと登る階段は昨日の城山遊歩道に比べると、暗闇になっているエリアは比較的短かった。まあでもここの道幅はあまり広くなかったので、確かに人とすれ違う時に多少緊張感を持ってすれ違わないといけなそうな道だった。

 

鹿児島市内北側の多賀山に入る暗い道を進む-1

そこから先は幅が広い階段がこのように広がっていて、さっきまでの暗闇の小道が嘘だったようにも思える景色となっていた。恐らくさっき通った道はショートカット用の小道で、メインの出入り口は別の所にあったのかもしれない。

 

多賀山公園に到着

そして上の方に登っていくと、このようにちょっと高台になっている広場があり、展望台のようにもなっていた。ちなみに中央奥に見えている小高い山が、昨日の夜に頂上まで登った城山である。

 

公園内にある東郷平八郎の墓

多賀山公園に到着-1

そんな展望景色の素晴らしい場所には、ある有名人のお墓が設置されている。こちらにお墓がある人物は、この薩摩藩の藩士であり、その後は海軍軍人として最高位:元帥海軍大将まで上り詰めた東郷平八郎のお墓である。ロシアと戦った日露戦争では、ロシア皇帝だったピョートル大帝時代に結成されたバルト海沿岸の艦隊(バルチック艦隊)と日本海沖で戦う事になったが、東郷平八郎率いる日本海軍の圧倒的勝利に終わった。

 

 

 

 

 

 

多賀山公園にある東郷平八郎の墓

当時は大国としてロシア皇帝は恐れられる存在であったが、この日露戦争での敗北により大国ロシア帝国の威信は地に落ちて、植民地の支配力を失い、挙句の果てにはロマノフ王朝として約300年続いた帝政時代もロシア革命により幕を閉じる事になる。ピョートル大帝時代にバルト海沿岸の制海権を握り大国にのし上がったロシア帝国は、皮肉ながらもその時代から続いたバルト海艦隊によって終焉を迎える事になる。

 

多賀山公園にある看板

この海軍元帥まで上り詰めた東郷平八郎は、20歳代に約7年間イギリスに留学した。この際にイギリスで船や国際法などについて勉強した事が後の戦いに生かされた可能性が高い。ちなみにこの時代にイギリス留学したのは、先程記念碑や砲台跡などを見た1863年に起きた薩英戦争の影響があった。この薩摩藩とイギリスとの戦いで最終的にはお互いにそれぞれの実力を認めて和睦する事になり、その後は武器などの仕入れや人材交流で友好を育んだ。

そういった戦いが無かったら、東郷平八郎はイギリス留学できてなかったのかもね・・・

東郷どん
東郷どん

平八郎は最初(大久保)利通に留学を断られて、おいどんの所に懇願しにきたでごわす!

 

 

多賀山公園にある東郷平八郎の墓の写真

そんな薩摩の歴史を大きく変えていく事になる薩英戦争に、15歳で参加していた東郷平八郎。その戦いで時代の先端を行くイギリスの実力を間近に見た東郷平八郎。幕末~明治初期にヨーロッパを視察・留学した人間程に、後の日本に大きく影響を及ぼす人物が多かったので、それだけヨーロッパの産業技術や学問が優れていたのもあると思うけど、海を渡っていった人達に「日本を変える!」という強い志があったからだと感じる。

東郷どん
東郷どん

おいどんもあの時、ヨーロッパへ行ってれば・・・

 

多賀山公園にある東郷平八郎の記念碑

今は簡単に海外留学などが出来る時代だけど、当時は江戸幕府による鎖国が解けた頃で、勿論今みたいに1日でヨーロッパに移動できる飛行機などまだ存在しなかった時代。海路で何ヶ月も掛けて海を渡り、見果てぬ言葉や文化が全く異なる異国に出かけていった訳である。

凄い勇気と信念を持っていないと、当時は留学すら出来なかった時代ですね!

東郷どん
東郷どん

ただおいどんは目の前の事に忙しくて、海外に渡る余裕すらなか!

 

多賀山公園にある東郷平八郎の記念碑-1

なお東郷平八郎はイギリスに長期間留学していた事もあって、海外でも名の知られた存在になっていった。そしてそれまで無敵とも言われていたバルチック艦隊を撃破した功績もあって、“東洋のネルソン(イギリス提督)”などとも呼ばれて、日本人で初めて「タイム誌(TIME)」の表紙になった人物でもある。

 

 

多賀山公園から見える鹿児島市内の夜景

そんな東郷平八郎の墓が安置されている多賀山の公園内からは、このように高台にあるだけあって鹿児島市内の夜景を見渡せるスポットでもある。昨日の夜に登った城山程の知名度が無い為に、この多賀山公園からの夜景は穴場スポットである。

 

多賀山公園から見える鹿児島市内の夜景-1

こちらは多賀山公園から南側の鹿児島市内の夜景で、正面には鹿児島港周辺が見えている。下側の公園は先程通ってきた石橋記念公園や祇園之洲公園などがある。ただし右側に煌々とライトが光っているゴルフ打ちっ放しセンターが、この鹿児島市内の景観を損なっていたのが少々残念であったが・・・。

 

多賀山公園から見える桜島の夜景

そしてこの東郷平八郎の墓と像が設置されている正面には、このように雄大な鹿児島の象徴である桜島が見える。ただ桜島が見える場所という訳でもなく、東郷自身が参加した薩英戦争に使われた砲台跡や錦江湾などの近くもあって、この場所に設置されているという。

桜島火さん
桜島火さん

ワシは常に鹿児島人に見られる運命にあるド~~ン!

 

 

夜の西田御門の景観

そんな東郷平八郎の墓と、鹿児島市内や桜島の夜景を見終わって満足げに多賀山を下りて、再び石橋記念公園の西田橋御門を渡る。しかしここで大事な物を撮影するのを忘れていた事に気付く。。

というのもさっきの多賀山公園内には東郷平八郎の墓だけではなく、像まで設置されていたハズだったけど、探すのを忘れていたのであった。一応今日の朝に多賀山公園内に像が設置されているのを調べて認識していたけど、すっかり忘れていた。

ただこの時は気持ちが帰りモードになっていたので、最終日にまた多賀山公園にリベンジする事にしました・・

 

夜の西田橋の景観

そして再び西田橋にやってくる。このような石橋も”単なる石橋”と思って渡るのではなく、江戸時代に肥後の山奥で代々石橋建造の技術を受け継いでいった石大工達が苦労して造った橋だと思って渡るだけで、感激してしまう。

そう思うとこれからもより一層日本の歴史について、興味が出てくるのである!

東郷どん
東郷どん

おいどんについて書かれている文章が少ないから、おいどんの勉強もするでごわす!

 

夜の桜島フェリーの景観

そしてホテルまでの帰り道途中に、再びフェリーターミナルへと寄り道する。もうすっかり暗くなってしまった鹿児島市内だけど、このフェリーだけは煌々として明るかった。24時間運航するフェリーというのも珍しい。それだけ桜島に住む人達にとっては、重要な足替わりの存在なのであろう。

 

夜の水族館の景観

そしてフェリーターミナル周辺に来たついでに、今日の朝にお会いした自称ホームレスオジサンの様子を見に行く事にした。しかしこの周辺にコンビニが見当たらなくて、おじさんは酒好きと言っていたけど手ぶらで向かうしかなかった。

 

夜のウォーターフロント周辺の景観

すると20時前だったけど周辺はこのように真っ暗だったので、自称ホームレスおじさんは就寝していた。けどちょっと起きてきた感じだったので話かけたら「おう、朝会ったお兄さんやね!」と覚えてくれていた。そしてアルコール好きオジサンだったので、この鹿児島市内でのオススメ居酒屋情報を教えてもらう。

 

天文館にあった「丹下ウメ」の像

「今流行りの千ベロとかも良いよ!」とか教えてもらったけど、結局自分で今晩入るお店を探す事にする。そしてまたホテル近くにある鹿児島市内一番の繁華街である天文館周辺にやってくる。すると商店街のアーケード通り脇に、こちらの胸像を発見する。

「丹下ウメ博士」という人物の名前が入っているけど、全然聞いた事がない・・・。

 

天文館にあった「丹下ウメ」像の説明文

この丹下ウメさんは1873年に鹿児島で生まれて、幼い頃に片目を失明したがそんな障害にも負けずに熱心に勉強して、やがて後の東京大学の前身にあたる帝国大学に女性として初めて入学し卒業した人物。そして48歳で渡米してアメリカの大学で博士号と取得し、当時としては日本と海外の両方で学位を取得した稀有な存在となったという。

 

 

 

天文館のとある居酒屋にて晩御飯を

夜の鹿児島市内繫華街で見かけた居酒屋

さて今日の晩御飯に選んだのは、昨日も店の前を通った「竹よし」という居酒屋さん。創業から46年間鹿児島市内で地元の人達から愛されているお店だとか。

 

居酒屋【竹よし 本店】

 

住所:鹿児島県鹿児島市東千石町6−17 T.Pビル1階

 

 

 

天文館の居酒屋のメニュー

このように竹よしの看板メニュー表には、鹿児島の郷土料理ばかりが並んでいる。調子に乗ってアレコレと頼むと結構いい値段になるので、個人的には「竹よしカレー」とビールだけでもいいのだけど。。

黒ブタ子
黒ブタ子

やっぱり地方に来たら、そこでしか食べれない郷土料理を食べなさいブヒ!

 

天文館の居酒屋「竹よし」の付きだし

まず出てきたのは日本の居酒屋などでは”暗黙の了解”として自動的に出される「お通し」。こちらは勿論無料ではなく、このお店では400円でした。日本に来た外国人からすると、頼んでもいないものが出てくる変なシステムと思われているそうだ。この「お通し」というシステムは、お店側が注文を受けて「通した」という意味合いで出されるようになったという説がある。また注文を受けてから料理が出てくるまでに、「お通し」はすぐ口に出来て待ち時間短縮の意味合いもあるという。

 

なお関西では「突き出し」と呼ぶけど、これはお客の注文関係なしに出す為にこう呼ばれているという。席料代わり(チャージ料)なのか、それとも大阪商人らしく注文前から売りつけるという商売の名残なのかもしれない。。

黒ブタ子
黒ブタ子

この「お通し」でそのお店のレベルが感じれるブヒ!

 

天文館の居酒屋「竹よし」の生ビール

そして今日はだいぶ疲れたこの体へのご褒美で、生ビールのジョッキを頼む。なお明日もかなり体力を消耗するハズの行動を予定しているので、まず今の時点ではとりあえず今日へのご褒美だけを考えてビールを飲むのである。

東郷どん
東郷どん

酒飲みには、一番のご褒美が酒でごわす!

黒ブタ子
黒ブタ子

私はやっぱり食べ物の方がいいブヒ!

 

天文館の居酒屋「竹よし」の店内

安い飲み放題のメニューなどもある為に、そこそこ団体グループが入って、それなりに賑わっていた店内。しかしこのカウンター席を見れば分かるように、コロナ禍の2020年だけあって席を間引きして営業していた。カウンター席には透明のアクリル板などは設置されていなかったけど、隣の席とは離れていたし、隣に座った客同士でお喋りもしなかったので特に問題は感じなかった。

 

 

天文館の居酒屋「竹よし」の鳥刺身

まず出てきたのは薩摩地鶏の炙り刺身である。この「薩摩地鶏」は比内鶏(秋田)や名古屋コーチンと並ぶ”日本三大地鶏”の1つとも呼ばれている、かごしまブランドに指定されている鹿児島の名産品である。

 

 

天文館の居酒屋「竹よし」の鳥刺身を食べる

この鳥刺しは鹿児島では、皮付きのまま表面を炙ったタタキとして生の鶏肉を提供している。なお、昔得意先の新人3人と一緒に居酒屋に行った時に生の鳥の刺身を一緒に食べたら、こっち側のメンバーは問題なかったけど、その得意先の新人3人は全員後日その時の鳥が当たったのかで高熱を出して会社を休む事になったのを思い出す。

御存じの方もいると思うけど、生の鶏肉には菌が付いている可能性があるので鶏肉を生で食べる事はあまりオススメはされていない(この得意先の新人達には食べる前に「万が一当たっても、それは自己責任やで!」と警告はしましたが・・)。

 

だが鹿児島ではこういった食べ方が昔から行われているので、『生食用食鳥肉の衛生基準』という鹿児島県独自の基準を設けて販売・調理がされているという。

黒ブタ子
黒ブタ子

最近の若い子達は無菌状態で育っているので、ちょっとした菌でお腹を壊す子が多いブヒ!

東郷どん
東郷どん

最近の日本人は、たるんでいるでごわす!

 

天文館の居酒屋「竹よし」の薩摩揚げ

そして次に出てきたのは「薩摩揚げ」である。「さつま揚げ」という文字だったらあまり気にならなかったけど、「薩摩」という漢字を見るとこの鹿児島に由来する食べ物だという事が分かる。魚肉のすり身を油で揚げた料理で、かまぼこを揚げたような食べ物。中国地方から薩摩に伝わった話や島津斉彬の時代に鹿児島の気候に合わせて油で揚げるようになったとか、色んな説がある。

でも普段食べるさつま揚げよりも、大きな塊でしたね!

黒ブタ子
黒ブタ子

大きな塊の方が、食べ甲斐があるブヒ!

 

天文館の居酒屋「竹よし」の豚串

そしてシメには黒豚の串焼きを注文。1人だしあまり夜にお腹いっぱい食べたいとも思わないので、これぐらいの量がちょうどいい感じなのである。

黒ブタ子
黒ブタ子

やっぱり黒豚が一番美味しく見えるブヒ!

 

天文館のゴンザ通りにて

夜の天文館通り

そんな風に鹿児島市内の居酒屋で郷土料理を味わってホロ酔い気分になってからも、近くに行ってみたかった場所があった。それが天文館近くにある、この「ゴンザ通り」である。

 

 

夜の天文館通りの「ゴンザ通り」

このゴンザとは1728年に薩摩から大阪へ商品を乗せていく船頭の息子として、一緒に大阪へ向けて乗船した。しかしその途中に船が難破して、そこから約半年後にロシア領のカムチャッカ半島に漂着する事になる。だがそこで待ち受けていたのはコサック隊で、彼らにより生き残った人間は殆ど殺されて、このゴンザ(当時11歳)と商人だったソウザ(当時35歳)だけが生き残った。

 

 

その後は約2年間に渡る重労働をさせられ、更にサンクトペテルブルクへと連行される。しかし当時は珍しかった日本人が近くにいると聞きつけた当時の女帝アンナは、そんなゴンザとソウザと謁見してその流暢なロシア語の発音に驚いたとされる。それ以降は手厚い待遇がなされて、ゴンザは女帝によって開かれた日本語学校の教師となる。それ以降にゴンザは新スラブ語と日本語(※薩摩弁)の日露辞典などを作成した。そのゴンザが覚えたスラブ語は、10,000語以上とも言われている。そしてその漂着から約10年後の寒波がロシアを襲った年に、ゴンザは21歳という短い人生を閉じたのであった。

 

夜の天文館通りの「照国参道」

そしてこちらの通りは「照国表参道」との文字が見える。鹿児島人にとっては神様という存在になってしまった島津斉彬だけに、あまりその態勢などが批判されているものが見当たらない。島津斉彬について書かれている書籍などを見ると、彼の父親であり先代薩摩藩主であった島津斉興がいかにも悪者のような存在で書かれているものが多い。

 

夜の天文館通りの「照国参道」-1

しかし島津斉彬が色んな西洋の先進技術などを導入して鹿児島の地で大々的に実験が行えたのは、この島津斉興が藩主時代に調所笑左衛門と必死で取り組んだ財政改革のお蔭でもある。そしてその際に薩摩藩内に対して、不正や転売などを徹底的に監視して禁止にした為に庶民や商人達から疎まれていたのもあって、島津斉興が悪者的に扱われて島津斉彬が名君として扱われる要因にもなったとも言われている。

 

本日の入手したもの

という事で今日一日もたっぷり桜島や鹿児島市内の歴史などについて勉強できて、大満足な一日であった。だが明日は朝6時前にはホテルを出て、また今日以上に鹿児島を満喫する予定なので、今日は早めに就寝する事にするのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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