小倉城の天守閣から小倉の街や、巌流島の決戦の像を眺める!

九州縦断旅:北九州編

 旅行期間:2020年8月中旬

 

虎が関連する小倉城

小倉城内にある、お城のミニチュア

ここは福岡県北九州市にある小倉城の城内。入場料350円(大人)を払って、有料の城内へと進んでいます。なお城内は写真撮影が不可な物もあるので、全てを自由に写真撮影できる訳ではないので注意が必要です。よく無神経な人やそんな事に気付かずに写真NGゾーンでもパシャパシャと撮影する人を見かけますが、撮りたい気持ちはあるものの一応ルールを守るのが旅人の基本であると思う。

 

小倉城

住所:福岡県北九州市小倉北区城内2−1 
tel:093-561-1210
【営業時間】 ※年中無休
4月~10月—9:00~18:00
11月~3月—9:00~17:00
※最終入場・・閉館の30分前
【入場料】
大人350円  中高生200円 小学生100円

 

 

 

  小倉城の城内を見学

小倉城内にある、虎の絵-1

小倉城の2階部分にも1階で見たような、大きな虎の絵が飾られています。こちらは『送り虎』というタイトルで同じ作者の佐藤高越氏が、同時代に一対の作品として作成したもの。先程1階で見た『迎え虎』はオスの虎で、こちらの『送り虎』はメスの虎だそうだ。

 

小倉城内の階段を登る

さっきの『送り虎』の絵は、ちょうど2階から上に登るこの階段の手前に飾られており、文字通りにこの絵を見てから送られるように階段を登って行くのである。小倉城は第二次世界大戦後の1959年に再建されたものなので、このように城内の階段も幅が広くて登り易い。

 

小倉城2階部分の窓

そして小倉城3階部分に到着する。この辺りはまだ見晴らしがそんなに良くはなく、かつ窓にはこのように格子と言うか、銃眼のようになっているのでまだ周囲を見晴らすには上に登る必要がありそうだ。

 

小倉城2階部分の窓から外を見る

1600年頃に小倉城が建築された時には、この城から見たら他には周囲に高い建物が無かったのだろうが、21世紀にはこのように周りには小倉城よりも高い建物だらけ。街の中心部に残っているお城に行くと、そこから見渡す風景がこのように味気ないのが現代の残念なとこでもある。ヨーロッパでは城のある所は旧市街地として昔ながらの景観を敢えて残しているが、日本では経済発展を優先した為に昔ながらの雰囲気は捨て去るしかなかったのだろう。

 

 

小倉城3階の「巌流島の決戦の間」

小倉城2階に飾られている、小次郎と武蔵の武器のレプリカ

3階に登ると今までのような小倉城の資料などはなくなり、急に「巌流島の決戦」で有名な宮本武蔵と佐々木小次郎のゾーンになった。目の前に見えるのは佐々木小次郎が使ったとされる剣のレプリカと、宮本武蔵が使ったという木刀のレプリカだそうだ。小次郎の剣は1メートルを超える長い剣だったようだ。

 

小倉城2階に飾られている、小次郎と武蔵の武器のレプリカの説明板

小倉城が改築された後の1612年(慶長17年)の4月13日に、「巌流島の決戦」は行われたとされている。結果は宮本武蔵の勝利に終わったが実は1対1の決闘ではなく、武蔵は弟子を4人引き連れて現れて小次郎をリンチして撲殺したという説が有力なんだとか。小倉藩の剣術師範だったという佐々木小次郎はその年齢なども不明になっていて、謎の多い人物のようだ。

 

小倉城2階に飾られている、小次郎と武蔵の武器のレプリカ-1

こうやって剣と木刀を見ると、剣を持っている方が圧倒的有利に思えるけど実際にはそうではなかったようだ。実際に剣を戦場で振り回した事のない現代人には分からないが、実は剣には刃こぼれしたり折れたりとトラブルが付き物だったようだ。その為に昔の侍は数本の太刀を持ち歩いていたし、長い剣は小回りが利かないので闘いづらかったようだ。

 

ここは小倉城3階部分だけど、まだまだ近くに出来たリバーウォーク沿いのショッピングモールの方が大きい。

 

小倉城2階に飾られている、小次郎と武蔵の闘いの説明

ここには巌流島の決戦や武蔵&小次郎の歴史が、このように壁に描かれていた。それぞれに武芸達者だった両者は、必然と戦わざるを得ない状況になっていったのかもしれない。なお巌流島として有名な島はその当時は「舟島」と呼ばれていて、小さな島だったがその後に埋め立てられて少し広くなったという。巌流島という名前は、佐々木小次郎のその剣術の流派である「巌流(岩流)」から付けられたそうだ。

 

小倉城2階にある、宮本武蔵の像

腕力の強かった武蔵の木刀の一撃を喰らえば、相手はそれでノックアウトだったようだ。木刀でも充分に相手の骨を砕く破壊力があるのだ。そして決闘と言えば負けた方が死ぬイメージがあるけど、実際に行われていた決闘では必ずしも敗者は死者となったのではなく、死なずに生き延びて、代わりに武術の道は放棄して生き続けたという事もあったようだ。

 

小倉城2階にある、宮本武蔵の像-1

人の真似をせずにその身に応じて、武器は自分の使い易いものでなければならぬ!

by   宮本武蔵

 

宮本武蔵は扱いづらい剣よりも、徐々に木刀を主流の武器にするようになっていく。武蔵の生涯で約60回以上の決闘が行われて、その全ての闘いに勝利したがその後半は主に木刀を愛用していたという。この巌流島の決戦で使った木刀も宮本武蔵が船の櫂(かい:オールの事)を削って作ったものだそうだ。

 

小倉城2階にある、宮本武蔵の像-2

このブースには巌流島の決戦の記念写真が撮れるようにと、このように宮本武蔵の像だけが置かれていた。「勝てば官軍」との言葉にもあるように、卑怯と思われる手を使っても勝ち残った者が英雄化される。勝つか負けるかの勝負の醍醐味よりも、必勝と闘いの勝利にだけ拘った男の生き様が今現代にこのような像として残っているのかもしれない。

 

小倉城2階にある、宮本武蔵の像と記念写真

この巌流島の決戦はその時代の決闘としての注目度は全然無かったが、その後の時代に舞台演劇などで取り上げられた為に武蔵が遅れて巌流島に現れたとか色んなエピソードがあるが、実際にどうだったかはその決闘が行われた時に居合わせないと真相は分からないだろう。

 

小倉城2階にある、宮本武蔵の像と記念写真-1

ただこうやって見ても分かるのが、巌流島の決戦での勝者である。そう思うと”勝ち”というものの重要性が、闘いから約400年経ってもこのように表れているのである。歴史的にかつ生物的に見れば、潔く死ぬよりも這いつくばってでも生き抜く事の方が重要なのかもしれない。

 

小倉城3階に登る

という事で巌流島の決戦の資料などがメインであった3階フロアを抜けて、階段を登り4階にやって来た。

 

小倉城3階にあった絵の展示

この小倉城4階部分には歴史的な資料などの展示が無い代わりに、現代のアートなどの作品などが飾られているギャラリーだった。なおこの階だけは下の階と違って、自由に写真を撮っても構わないとの表示があった。

 

小倉城3階にあった絵の展示-1

日本の美術館などではだいたい館内写真撮影禁止で、そこに展示されている作品をカメラに収める事が出来ない。でもここに展示されている作品はそんなプロが描いた重要な作品ではないような感じだったので、撮影フリーだったのかもしれない。

 

小倉城3階にあった絵の展示-2

個人的には複雑な見解が必要になる作品よりも、こんな肩の力を抜いて鑑賞できる作品の方が好き。そして単に作品を眺めるだけでなく、解説を見ながらその作品の意図とかを知りながら見た方が、よりその作品を楽しめると思う。

 

小倉城内の階段を登って4階の天守閣へと向かう

そして先程小倉城の小さな模型を見ても分かる通りに天守閣下のこの4階部分はあまり広くないので、すぐに上に登る階段にぶつかった。さてこの階段を登ると5階になり、そこが小倉城の天守閣である。

さてどんな光景が待ち受けているのか、楽しみにして階段を登ります!

 

 

小倉城の天守閣にて

小倉城4階の天守閣に到着

さてやっと城見学のメインである天守閣へとやって来ました。なぜ人間ってのはこうやって高い所へ登って、周囲の景色を眺めるのが好きなんだろう? 高い場所からの方が沢山の景色を眺める事が出来て、かつ地球の広さと自分の小ささを感じれる場所だからだろうか? それとも高い所へと登ったという自己満足からだろうか?

 

小倉城4階の天守閣からの眺め

こちらは小倉城天守閣から南側の景色、緑の中に見える近代的な建物がある場所には元々小倉城の二の丸跡があったが、今では「北九州市立中央図書館」となっている。

 

2012年には岡田准一主演の映画『図書館戦争』の撮影が、この場所で行われたそうだ。

 

小倉城4階の天守閣からの眺め-1

小倉城の南側には、この写真では緑に邪魔されて見えていないが松本清張記念がすぐ近くにある。有名な作家の松本清張はこの小倉の街で生まれたとされているが、実際には出生届を提出したのがこの小倉の街で、生まれたのは広島だと当人の証言があるという。確かに「あなたはどこ生まれ??」ってよく聞かれるけど、実際に生まれた場所か出生届を出した場所かまでは自分の出生に関してあまり気にした事はなかった。

 

小倉城4階の天守閣内の景色

小倉城の天守閣内は至って綺麗で、このように特に何かの展示物とかは置いてなくて、基本的には天守閣から見える景観をただ楽しむだけの場所になっている。この時は真夏だったので暑かったけど、高い場所にある天守閣だけに窓から入って来る風が何とも心地よく感じた。

 

天守閣からの眺め 動画

 

小倉城4階の天守閣からの眺め-2

こちらは小倉城天守閣から北側を眺めた方向で、リバーウォークと呼ばれる再開発エリアで、ショッピングモールや北九州市立美術館分館が建っている。これらの建物がある為にJR小倉駅などからは、この小倉城が見えなくなっている。

 

小倉城4階の天守閣からの眺め-3

そして東側に見えているのは「小倉城庭園」で、こちらは有料ゾーン。なお、小倉城との共通入場券もあって、両方ともに見学したい人には共通入場券だとコストメリットがあるようだ。ただボクはそこまで日本庭園やそこの建物には興味が無かったのでパス。

 

 

小倉城を出て周辺を散策

小倉城近くにあった石碑

天守閣まで登り、そこから見える景色を楽しんだ後はそのまま小倉城を出て、周辺を散策する事に。するとお城の敷地内に『誠心真道』と大きな文字が彫られた石碑を発見します。二刀流を用いる”二天一流兵法”の開祖である宮本武蔵に関連するものみたいだ。

 

小倉城近くにあった石碑の説明

宮本武蔵にとってもこの小倉の街は長期で滞在した特別な場所だったようだ。ただこの説明書きを見ると、『誠心真道』ではなく『誠心直道』となっている。さっきの石碑の大きな文字では直と見えなかったけども。。この言葉の意味合いと言うと「自分の道をしっかり真っ直ぐ進みなさい!」という内容なので、敢えてこの真とも直とも取れる曖昧な文字を石碑に彫っていたのかもしれない。

 

小倉城近くにあった佐々木小次郎と宮本武蔵の像

そんな宮本武蔵の言葉の石碑の隣には、このように巌流島の決戦を彷彿とさせる一対の銅像が設置されている。像の下に取り付けられている名前のプレートを見なくても、風貌だけでどちらか小次郎で武蔵なのかが何となく分かる。逆にそれだけ絵本や漫画などでの彼らのイメージが強いのかもしれない。

 

小倉城近くにあった佐々木小次郎の像

こちらの佐々木小次郎は、何故かロングヘアーのイメージが出来上がっているようだ。しかも武蔵に比べるとイケメンの面持ちで。ただし実際にはこの巌流島の決戦時には小次郎は結構なオッサンの年齢だったという説もあり、本当には全然違う禿げ頭のお腹がぷっくらと出たオジサンだったかもしれない。。

 

小倉城近くにあった佐々木小次郎の像-1

佐々木小次郎はこの巌流島の決戦で負けて、逆に名を売った人物なのかもしれない。佐々木小次郎自体、名前も全国区ではなく、出生年数も分からない程の人物だったようだ。巌流島(当時は舟島)に渡る際に、武蔵の軍勢(弟子4人を引き連れた)の様子を見ていた近くの住民に「1人で島に乗り込むのは、負けに行くようだからお止めなさい」と止められたが、「敵前逃亡しては武士としての恥。それ位なら死んだ方がマシだ!」と言ったとか。

 

小倉城近くにあった宮本武蔵の像

そして宮本武蔵とその弟子達に破れた小次郎の事を哀れんだ地元の住民達が、佐々木小次郎の流派である「巌流」の名前をその舟島に付け替えて「巌流島」となったそうだ。もし小次郎がここで破れなかったら、この巌流島と名付けられる事もなかったし、小次郎自体の知名度もここまで無かったのかもしれない。

 

小倉城近くにあった宮本武蔵の像-1

なおこの巌流島は元々小さい島だったがその後に埋め立てられ、日本軍の要塞としても使われた。戦後になってから住民も少なかったけど島に住み着いたそうだが、今は完全に無人となって巌流島の決戦跡地としての観光地となっている。今では下関側からフェリーも出ていて巌流島の観光もできるらしいが、島にはこのような銅像しかないそうだ。

 

ちなみにこの巌流島で1987年に日本のプロレス界の伝説の試合となる、「アントニオ猪木VSマサ斎藤:巌流島の闘い」が行われている。この時の試合はかつてそこで行われた宮本武蔵と佐々木小次郎の闘いをイメージして、無観客で行われた。そういった意味では武蔵の勝利がというよりかは、小次郎の敗北がこの歴史を今日まで残して来たといっても過言ではないかもしれない。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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