九州縦断旅:福岡編
旅行期間:2020年8月中旬
あっさりとした久留米ラーメン
ここは福岡県久留米市内で、駅から東側の通りを歩いています。道路脇にある「医大通り」という名前は、この縦に続く道路の先にある久留米大学医学部と久留米大学病院がある事からこの名前が付けられているようです。
久留米市を散策
そんな医大通りにあった、こちらの建物は久留米市立城南中学校。門脇にあるボコボコとした岩に学校名が彫られている看板もどきは、普通に彫られているものより雰囲気があっていい感じに見える。
もう少し歩いて行くと道端に「旧久留米城外郭」と書かれた石碑が置かれているのを見つける。今は市街地となってしまっているが、この久留米城外郭(四ノ丸)跡は城があった当時から家臣団の屋敷や役所などが設置されていた所だったそうだ。
ふと周囲を見回すと、こちらには人権啓発推進協議会が設置した標語の看板が掲げられていた。近くにある篠山小学校の子供が作ったものだが、最後の「ぼくはいや」という語句は「ぼく」という言葉はあまり平仮名で書かれる事が少なくて、読み手に「僕」と認識されにくいので、「ボク」もしくは漢字の「僕」にしといた方が良かったのかもと思ってしまう。。
そしてこの久留米市中心部で口コミのいい、久留米ラーメンの名店を探してウロウロ歩き回っていると、ちょっとモダンな外観をしている大きな校舎が見えてきた。
こちらも手前に設置されている岩に学校名が彫られている。こちらは「篠山小学校」で、先程の標語を作った子供が在籍している(もしくは在籍していた)小学校である。
そんな大きな篠山小学校の校舎の傍らに、何やら昔に造られたような日本的な家屋が見られる。普通はこんなもんの奥に家があるハズだけど、今では裏には大きな校舎があるし、ちょっと疑問を感じてしまう建物である。
そうやって疑問に思って見ていると、近くにこのような案内板があって「旧三島家長屋門」という江戸時代末期の1840年に建てられた長屋門だという。梶村家という家の長屋門であったものが明治時代に三島家の所有物となっているので、このような名前になっているそうだ。ちなみにこの長屋門は最初は別の場所にあったのだが、1917年頃に道路の敷設の邪魔になるので移動されて、今回は老朽化や見学に不向きな場所にあった為に2002年に久留米市に寄付されると共にこの場所に移転されたそうだ。
その移転作業時に解体していると、1840年に三牧市左衛門という大工によって建設されたという墨書きが出てきたという。そしてその移転作業時にこの長屋門を解体してみると、白蟻に喰われていた部分などもあって、出来る限り当時の材料を残したまま新しく再現されて、今ではこの場所に鎮座しているようだ。
久留米ラーメンの名店「沖食堂」にて
ラーメン屋を探しているうちに少し迷った為に、そんな歴史的な長屋門を見れた後はやっと目の前に念願の久留米ラーメンのお店を発見する。ラーメンという食べ物にはあまりこだわりを持ってないボクだけど、新しいお店よりおじいちゃんがやっているような年季が入ってる店の方が好きなので、ちょうど良さげな外観のラーメン屋さんである。
店内は新しいラーメン屋さんには創り出せない、このように年季の入った歴史を感じさせる雰囲気となっていた。このお店「沖食堂」は1955年に創業してから約65年営業を続けているという。そしてこの訪問時は普通に営業していたけど、なんと今現在は閉店となっており、37年前に店を引き継いだ大将が引退し、その甥が店を新たに引き継ぐ為に2021年6月頃に近くの駐車場の場所でリニューアル・オープン予定なんだとか。
こちらがその大将で御年65歳、店を先代から引き継いだのは37年前だという。それ以来、休みの日曜日以外は毎日早朝に起きて豚骨スープの仕込みを行っていたという。新しく出来る店は甥に託すそうだが、当分は厨房で腕をふるう予定なんだとか。
長い間、本当にお疲れさまでした! たった1回しか行けなかったけど、閉まる前に行けて幸せです!
毎日10時~15時までしか営業していないラーメン屋だけど、昼時には人気店らしく席が埋まっていて、5~10分程席が空くまで待った。まあ基本はラーメンなんでお客さんの回転が速いので、そんなに待たなくてもすぐに座る事が出来た。こちらはトッピング用のゆで卵。
こちらのショーケースにはおにぎりが入っており、ラーメンと一緒に注文する人が多かった。しかしラーメンと麺のセットだと炭水化物の取り過ぎになるので、ここは大人しくラーメンのみを頼む。一応牛丼やうどんといったメニューもあるみたいだけど、ほぼ訪れるお客さんはラーメンのみを注文していた。
こちらがその沖食堂でのラーメンである。ラーメンは普通サイズと大サイズの2種類があって、普通サイズは500円という安さ。今では凝ったラーメンで単価が高いラーメン店がいくらでも存在する中、昔ながらの味と値段を守り続けてきたお店なんだろう。
こんな湯気だらけで夏場はとても暑いだろうけど、30年以上も真面目にお客さんの笑顔を求めて働き続けてきた大将には頭が下がる思いである。こんな湯気が上がっている景色を見ると、大分の別府で見た温泉地獄を思い出す光景でもある。そして古いお店らしく、写真中央右側にある小さな木製の引き出しをレジ代わりに使っていて、レトロ感も醸し出していた。
会社員時代の博多出身の後輩たちは毎回”バリ麺”を注文するのが当然みたいだったけど、ここでは普通の固さの麺が出てきた。そして豚骨スープもよくその辺で食べると豚骨臭さがあるけど、ここのラーメンは全然豚骨臭さが感じられなくてアッサリした豚骨ラーメンのように感じた。
地元民やラーメン好きに愛されるお店は、2020年11月を一旦休業となってしまった。今年2020年の6月頃には新しくなった3代目沖食堂として、これからまた長く地元民などに愛されるお店になっていって欲しいと思う。
そんな沖食堂の北側の方には、このように「沖食堂専用駐車場」が完備されていて、外から見るとボロ食堂に見えるようなお店ながらも10数台停めれる駐車場を備えている事に少々驚く。なお、2021年に新しくオープンする沖食堂は、この駐車場の敷地に造られるらしい。
豚骨臭さが無い豚骨ラーメンで食欲を充分に満たして、満足げに久留米城跡がある北側に向かって歩いて行くと、足元に「久留米城三ノ丸濠跡」という石碑を見つける。先程の辺りは外郭(四ノ丸)辺りだったので、段々と城跡に近づいているという実感を感じる。
そして先程の医大通りに戻ると、反対側に大きな建物が目に飛び込んできた。こちらの「久留米大学病院」は1928年に開設された大学病院で、1000病床を超える大型の病院である。
久留米城跡に到着
そして案内板を参考に進んで行くと、やっとお城があった跡らしく大きな石垣と堀跡が見えてきた。ただこの久留米城は明治時代になって廃藩置県により廃城となり、その後建物は解体されてしまっており、それらは復元されていないので基本的にはお城跡という建物が無い状態になっている。
明治時代に入り、廃藩置県となって藩主は城を出ざるを得なくなり、その後に城は陸軍所管となる。そしてそのうちの多くの城跡は払い下げられて、建物は解体されて城跡地は公共施設や学校などが多く造られる事になった。なのでこの明治時代に起こった廃城の波を逃れていまだに昔の城が現存するのは、僅かに数える程しか無いのである。
そんな久留米城跡地も今では篠山神社や久留米藩主だった有馬家の記念館などになっていて、城があった痕跡は今では石垣跡しか残っていない。そして久留米城東側部分は久留米大学病院の敷地となっており、今では広いグラウンドとなっている。
まあ歴史好きや城好きな人間からすると、そんな明治時代の廃城という出来事が凄く歴史的にも価値のある建物を解体した訳だから勿体なく感じるけど、結局世の流れで城の活用価値が無くなった為に廃城とされた訳である。日本国が討幕の大政奉還で争った時代はあったものの、戦国時代のような戦乱にはならなかった為にこのような廃城された跡というのは平和な国の象徴とも言えよう。
そしてそんな城跡の入口付近にひっそりとたたずんでいるのが、こちらの「久留米城本丸跡」の石碑である。この明治時代を生きた人からすると、全国のどこにでも城が在り過ぎたので当時としてはその希少価値が無かったのだろう。それに城という建物は他の業種が活用するに使いづらかった建造物だったのであろう。
こちらの石碑には「龍捜索第56連隊慰霊碑」と彫られていて、久留米市で編成された「捜索第56連隊」の記念碑のようだ。日本でいう「大東亜戦争」の直前に編成されて、終戦時をタイで迎えたという部隊。
さてそんな記念碑などを見ながら、久留米城本丸跡地へと進んで行きます。なおこの訪問時はこの久留米城跡の知識というのはこれっぽっちも無くて、城跡が残っているか、残っていないかも知らない状態でした。城に興味がある城マニアじゃなければ、全国にある現存する(再現されているも含めて)城がどれだけあるかって、まず知らないと思う。
久留米城の歴史自体は1500年代の室町時代に起源があり、その後豊臣秀吉が日本全土を制圧した後に小早川(毛利)秀包がこの地へ送り込まれて、久留米城の基礎築城を行った。しかし豊臣秀吉が亡くなった後の関ヶ原の戦いで、この小早川秀包が西軍に付いた為に勝者となった徳川家康により左遷されて、関ヶ原の戦いで石田三成を捕まえた田中吉政が代わりに柳川城を居城として迎え入れられた。この時にここ久留米城に二男を城主に据えて、柳川と久留米に繋がる街道などを整備した。
しかしそんな柳川田中家は田中吉政の後を継いだ2代目が男子を残さず亡くなった為に田中家は改易とされて、代わりに福知山城主の有馬氏がこの久留米に転封された。そんな有馬家は代々続き、今ではこの久留米城跡地の一角に「有馬家記念館」という有馬家の歴史博物館的な建物が造られているのである。
こちらには「太鼓櫓跡」と彫られていて、本丸の防御用に造られていた建物の跡地である。ただこの久留米城跡にはその当時の建物が復元されていないので、あくまで想像力が必要となる場所である。
こういう時に色んな知識を身に付けておけば、よりリアルな想像が出来るんよ!
そしてこちらにはまた違う石碑があって、ちょっと見にくいけども「西海忠士之碑」と文字が彫られている。この「西海忠士」とは有栖川熾仁親王から賜った言葉らしく、先程水天宮に設置されていた銅像もあった真木保臣などの日本をよりいい国に変えようと強い志を抱いて、志半ばで倒れていった人物に送られたものである。
この石碑自体は明治25年(1892年)に造られたもので、今見られる石碑は平成27年(2015年)に復元されたものである。時代は変われど、己の信じる輝く未来の為に家柄や自己犠牲を厭わずに活動した人達の偉業は、新しい時代の人が見ても感化されるであろうという内容で、初代久留米市長である内藤新吾氏の言葉が彫られている。
そして城跡へと続く道を進んで登っていくと、石垣の上にも他の石碑などが沢山見られた。ただ全部の石碑を見て回るつもりはなかったので、反対を向いている石碑はそっとしておく事にした。
こちらは久留米城の南側から西側の景色を眺めたもの。どこのお城でも見られるように高く積まれた石垣と、その周りに彫られた堀には水が溜まっているのが見られる。
そして現代の久留米市を代表する会社として誰もが知っている世界的な企業が、なんと久留米市のこの久留米城跡近くで生まれて、今なおこの場所で大きな工場が稼働中なのである。
そんな世界的な会社というのは、現在世界のタイヤシェア第一位となっている「ブリヂストン」である。このブリヂストン社は1930年に日本足袋株式会社という会社のタイヤ部門として生まれ、この久留米工場で純日本産の第1号自動車用タイヤが産みだされた。そして社名の由来にもなっている創業者の石橋正二郎氏は、この久留米市出身である。
丹波国から移ってきた有馬家だけあって、この久留米城跡に造られている神社の名前は「篠山神社」となっていた。なお久留米城と一般的に呼ばれているけども、ここでは「篠山城」とも呼ばれていたそうだ。江戸の将軍による命令で愛した地元の丹波国を去らざるを得なかった有馬家だけども、名残惜しいように久留米のこの地でも「篠山」という名前を使っていたようだ。
だから「篠山」という名前を聞くと、関西人のボクは丹波地方をイメージしてしまうけど、それもあながち間違いではなかったようだ。
そしてそんな久留米城(篠山城)の本丸があった場所と思われる所には、今ではこのように篠山神社の本堂が建てられている。明治10年(1877年)に廃城となっていた本丸跡に、この神社が造られたという。
そんな神社の横には芝生が綺麗に生えた空き地が広がっていて、その一角にこのように「本末御殿跡」と文字が入った記念碑が置かれていた。今ではそんなカケラも残っていない場所なので、ここに本丸が建てられていた時の光景を想像するには、かなりの想像力が求められるのであるが。。
久留米駅に辿り着いた時に本当はただ単に久留米ラーメンを食べてみたいだけだったけど、電車を降りて久留米城に寄り道して、ここに転封(今でいう転勤)になった有馬家の存在なども勉強出来て良かった。個人的には戦国時代には興味が元々あったけど、江戸時代から近代については争いがなくて豪快な武将などの存在感が無かったから全然興味が無かった。しかし去年(2019年)の秋に鹿児島へ行き、薩摩藩の歴史に興味が出てからは明治維新前後の歴史にも興味が出てきた頃合いだった。
そしてこの2020年はコロナ禍で海外旅行に途中から行けなくなった為に、代わりに国内を色々と回ったので国内の江戸時代から近代にかけての歴史について勉強できる、とてもいい時期となった。
やっぱり歴史ってのはちゃんと調べてみると、とても興味深い事柄が多く、今に繋がる歴史に辿り着けた瞬間にとても嬉しく思えますね!
おう、その調子で頑張って歴史を勉強せえよ!
こんな旅はまた次回に続きます!
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