九州縦断旅:福岡編
旅行期間:2020年8月中旬
新旧の久留米のシンボル
九州旅で一旦福岡県を出て、大分県~熊本県と南下したにも関わらず、再び福岡県でも南部に位置する久留米市にやって来ました。そして福岡県でも第三番目に人口が多い街の久留米市で、昔のシンボルとして約300年程に渡って街の中心に君臨していた久留米城跡に来ています。
福岡県久留米市にて
明治時代になってから廃藩置県などの影響もあって、久留米城の本丸やそれ以外の建物などは全部解体されて運び出されてしまった為に、本丸周辺には城があった時代の名残を残している当時の建物は殆ど見られない。その代わりに何も無くなった本丸跡地周辺には、明治時代以降に新しい石碑などが沢山設置されていた。こちらにある聖徳太子の銅像もそんな明治時代以降に造られたもののようだ。
『以和爲貴』 (わをもってたっとしとなす)
by 聖徳太子-憲法十七条の一説より
これの意味は現代訳にすると「和を何よりも大切なものとしなさい」という内容になっている。狩猟民族だった人類は海が近い所では貝などを食べて生き抜いていた訳だけど、この聖徳太子がいた奈良時代頃に中国大陸からやって来た稲作が全国的に普及していった時代。
その稲作が中心となると、より多くの人出が必要となり、人が集まって近くに住むために各地に次々と村が出来ていった。そうなってくると現代でも同じような事が起こっているけど、人が集まれば集まるほどに諍い事が絶えない。この聖徳太子がいた頃も同じ問題があったのであるが、物事の核心を突いて庶民に語りかけた言葉であろう。
久留米城跡を散策
このように久留米城跡の地面には「月見櫓」とか、昔はあった為の面影を感じて欲しいのか、石碑が置かれているけど、当時の写真とかは全然見当たらないので全然面影を想像できないのである。。
久留米城本丸跡はどこの城にでも見られるように、ここもちょっと高台の上に造られている。そんな本丸跡の石垣の上からは、遠くを見渡せる光景が広がっているが、こちら久留米市の東側には大きな建物などが並んでおり、思った以上にいい景観は残念ながら見る事が出来なかった。
久留米城が機能していた頃は色んな建物などがあって賑やかだったと思われる城の東側は、今では久留米大学病院の敷地となっていて、このように大きなグラウンドが広がっている。ただ最近は運動中の熱中症が問題になっているので、こんな8月中旬の晴天の中で運動している人の姿を見る事は出来なかったけど。。
沖縄の城(グスク)は廃城となった後に石垣などが持ち出されて、住居などに再利用されたみたいだけど、本土の城跡の石垣はそのまま過去の歴史を残すかのように現存している所が多いようだ。
そして久留米城本丸跡の一角にはこちらの石碑にもあるように、「東郷平八郎の旧書斎跡」が篠山神社の中に残されているという。東郷平八郎といえば幕末~昭和初期における海軍大将で、日露戦争で連合艦隊司令長官として当時無敵を誇ったロシアのバルチック艦隊を撃破した英雄でもある。
こちらがそんな「東郷平八郎の旧書斎跡」で、久留米市出身の実業家であった小倉敬止翁という人物が、東郷平八郎の熱狂的信仰者だったので彼に頼んでこの書斎を譲り受けたそうだ。そしてその書斎をここに設置して、主に教育施設として使っていたという場所。
この久留米城本丸跡には稲荷神社も造られていて、そんな鳥居のスポンサーは勿論この久留米市を代表する企業の「ブリヂストン社」である。今では世界的な大企業となっているブリヂストン社が創業したのが、ここ久留米市なのである。元々は足袋メーカーがそこに付けるゴムを改良して、当時増えだした車のタイヤを純国産品として造り出したのが始まりのようだ。
そして久留米城本丸の西側には、阿蘇の源流から熊本県~大分県~福岡県と跨って生命を育む河川となっている筑後川が見られる。この筑後川沿いにはベンチが数台設置されていて、ここから筑後川を眺めながら休憩できるようになっていた。
なおこの場所は数年前まで自生していた孟宗竹の影響で、この筑後川などの景観が全然見られなかったそうだ。そこで平成29年(2017年)に「城跡西側の景観回復事業」として、この乱立した竹を撤去して整備した為に今ではこのような景観を見る事が出来るようになっている。
草木は放置していると乱雑に生えてしまうので、定期的な管理が必要なんですね。
そんな筑後川をゆっくりと眺めれる場所には、このように昔の歌人が読んだような句が刻まれた石碑が置かれていた。武田厳雄と名前が入っているが、こちらは幕末~明治時代に活躍した武士であり、神職でもあった人物。ここ久留米出身で幕末に上京して和歌や国学などを学び、明治18年(1885年)にここ篠山神社の神官となった人が残した句である。
この久留米城跡を訪れていた時には、このように城跡から見える西側の景色は当然前から見られていたと思っていたけど、長年放置された竹林の影響で数年前までは見られなかったという事実に、後で知ってビックリである。そしてそういった整備にも多額の費用が掛かり、お城跡の維持なども常に費用が掛かって大変な事を実感するのであった。。
久留米城西側から見える景色 動画
そんな久留米城本丸跡の西側には、こちらの「三木一雄文学碑」という石碑も置かれていた。久留米出身の三木一雄氏は文学の功労者であり、晩年は難病を抱えていた為にそれを慰めるのに仲間たちが文学碑を建てたそうな。
こちらは「乾櫓跡」だけど、ご覧のように何も残ってはおらず、ただ木が生え茂っているのみ。撤去された城跡を復元して造り直している所もあるけど、それには多額の建設費用と毎年の管理費用が発生する。そしてそれに見合う観光客が落とすお金が入ればいいけど、よほど特徴のある城でなければそれらの費用をペイ出来る程の収入は無い。なので何でもカンでも城跡を復元すればいいものでもないようだ。
こちらは足元に「大井戸」の跡という石碑が埋め込まれている。遠目からこの石碑は分かりづらい。ただこの井戸は地中に造られているものなので、遺構が残っているかもしれない。
ただこのような井戸跡を見ても全然興味が湧かない・・・。それは興味が湧かない側の問題かもしれないけど、井戸なんてどこにでもあるし・・・。ただ城に籠って籠城戦をする際には、食糧と水が必ず必要になる。食糧はともかくこのように城内に井戸があるか無いかは、城の守りを含めた点ではとても重要な要素だったようだ。
こちらには先程の大井戸ではなくて「井戸」跡があるようだ。大井戸と普通の井戸との違いは、どんな所に基準があるのか。
元々は久留米城に3つあったという井戸だけど、今ではさっきの大井戸とこの井戸しか残っていないそうだ。江戸時代に造られた城では殆ど攻城戦が行われなかったので、培ってきた防御システムは活用される機会が少なかったようだ。
そして久留米城本丸跡にある篠山神社の一角に建てられている、こちらの「有馬記念館」。2021年には福知山城主だった有馬氏が久留米にやって来て、入城400年になるという。そんな久留米藩主を続けてきた有馬家の歴史などを展示している記念館だけど、一般210円の入館料が必要だったのでパスする。。
そして目的の久留米ラーメンを食べて久留米城跡も散策したので、再び久留米駅の方に戻る事にする。そんな途中の道端で、雑草の中に建てられている「久留米城二ノ丸跡」の石碑を発見する。昔は本丸を中心として、その周囲に家臣などの屋敷が立ち並び、更にその外周に城下町が拡がっていた。本丸周辺は昔のまま残されているけど、その周囲は当時の名残の景色などは一切見れない程に豹変している。
こちらが天下のブリヂストン社の久留米工場である。1934年に完成したこちらの工場で、日本で国産のタイヤが量産されていった歴史的な場所でもある。
コロナ禍の影響で今も実施しているかは分からないけども、このブリヂストン社の久留米工場は一般の工場見学も出来るようだ。興味のある方は一度行ってみられてはどうでしょうか。
久留米駅の方に向かって歩いていると、「猿田彦神社」という神社を見つける。この神社は猿田彦大神とその子孫の大田命を祭神とする神社で、この猿田彦神社は全国に2000箇所程設置されているという。ちなみにそんな猿田彦神社の総本山とされているのは、鈴鹿市の椿大神社となっているそうだ。
久留米駅前から久留米城跡へ繋がる、南北に通る道はご当地世界的企業の名前が付けられた「ブリヂストン通り」である。勿論世界的な会社なので、こちらの会社から多額の寄付などで恩恵を受ける久留米市のようだ。ただ久留米市生まれの世界的な企業の本社は元々この久留米市にあったけど、1937年に東京へ移転となっている。
久留米駅周辺にて
そして久留米駅に戻ってくる。こちらは駅の東側で最初に久留米駅から出た時は反対側の西側だったので、こちらの東側は初見である。見た感じは久留米城跡もブリヂストンも東側にあるので、こちら東側が久留米市の中心部のようである。
そんなブリヂストン社が看板な久留米市だけあって、駅前ロータリーにはこのように世界最大級のタイヤが飾られていた。こちらのデカいタイヤは建設車両用のタイヤで、360トンの荷物を積載できるダンプカーに使われるそうだ。1998年に生産が開始されて、こちらに展示されているタイヤはオブジェではなく、本物のタイヤらしい。
元々は足袋の裏に張ったゴムから始まり、今日では世界のタイヤ業界でシェアNo1を占める世界的な企業のブリヂストン。そんな世界的な企業に久留米市はおんぶに抱っこ状態なんだろうけども。。
そして久留米駅東口の正面には、大きなカラクリ時計のようなものが設置されているのが見える。この高さ6m直径2.6mの巨大なカラクリ時計は実際に一定の時間になると今でも動くようだけど、この時はここでゆっくりする時間が無かったので取り急ぎパスするのであったが。。
よ~~くカラクリ時計を見てみると、内側に「からくり儀右衛門」と名前が入っているが、これは幼名:儀右衛門と呼ばれた久留米市出身の天才カラクリ人形技師の田中久重氏、生誕200周年を記念して造られたものらしい。江戸時代後期~明治時代初期における発明家で”東洋のエジソン”とも呼ばれ、田中久重が興した電信機関係の田中製造所が今ある東芝の礎となったそうだ。
そんなオブジェ以外にはロータリー周辺の壁に、このような絵が埋め込まれていた。勿論この絵も久留米市出身の画家による作品である。
上の絵は「海の幸」というタイトルで1904年(明治37年)に、この久留米市出身の画家:青木繫氏によって描かれたもの。この「海の幸」という作品は彼の代表作となっていて、重要文化財に指定されており、東京都中央区にある「アーティゾン美術館」(旧ブリヂストン美術館)に本物が保管されている。
こちらの馬が三匹景色の中で描かれている作品は、先程の青木繫とは違って、こちらも久留米市出身の画家:坂本繫二郎氏によって描かれた作品のコピーが展示されていた。
こちらの馬の絵は「放牧三馬」というタイトルになっており、1932年(昭和7年)に描かれた作品。上記の青木繫とは年齢が近く、同じ久留米市出身だったのでライバル視していたと思われる。こちらの坂本繫二郎代表作である「放牧三馬」の本物は、同じく「アーティゾン美術館」に保管されているそうだ。
さてこれから電車で熊本駅まで向かう前に、クソ暑い真夏の炎天下の中を黙々と歩き続けてきたので、この辺で水分補給を行う。
アルコールを飲まない人には理解できないかもしれないけど、酒飲みからするとビールも重要な水分なのである!
久留米から熊本駅へ移動
さて久留米駅から電車で、今日ホテルを予約している熊本駅まで向かう事にする。久留米駅は九州新幹線が通っている駅なので、新幹線に乗れば熊本駅までは20~30分程で到着する。しかし無職の貧乏人はそんな贅沢というか出費は極力抑えないといけないので、新幹線に比べると運賃が半額だけど乗車時間が1時間30分程もかかるJR鹿児島本線の普通車両に乗り込む。
運賃は削っても、ビールは飲むんやな(笑)
という事で久留米から熊本駅まで向かう1時間半の、電車での旅を楽しむ事にする。しかし熊本駅まで向かうには普通の電車があるけど、熊本駅から目的の鹿児島中心部まで向かうには電車移動だと九州新幹線以外の移動手段が出てこなかった。他には高速バスもあったけど、結構な時間が掛かるみたいなので、熊本駅から鹿児島中央駅までは新幹線を使わないといけなそうであった・・・。
のどかな田園と大きな工場のような景色が交互に見えたりする、JR鹿児島本線を南に下っていく時に車窓から見えた景色である。今日の朝は阿蘇近くの熊本県に居た訳だけど、これからまた熊本県にわざわざ行くのである。この九州旅行を計画した時点では、熊本市内の観光は考えていなかったけど、
熊本城は見といた方がいいよ!
との助言を聞いて、熊本市内に立ち寄るのである。
そして14時20分頃に熊本駅に到着する。まだまだ明るいので、この看板にもあるように熊本県を代表する熊本城へと、とりあえず向かうとするのであった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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