激動の幕末へ向けて礎を築いた薩摩藩主の島津斉彬は、才能豊かな人物

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

傑出した才能の数々

鹿児島市内の照国神社にある資料館

今回9日間で訪れた九州旅行で遂に迎えた最終日。今の日本にも繋がる江戸幕府を討幕する明治維新において、中心的存在となっていた薩摩藩について勉強していきます。

 

照国神社内の資料館にて、島津斉彬について勉強

薩英戦争の様子を描いた絵

こちらは島津斉彬が死去した後にイギリス軍艦と薩摩藩が単独で戦った、「薩英戦争」(1863年)の様子を描いた絵である。1853年にペリーが来航して翌年にアメリカとの間で日米和親条約が結ばれたのを機に、諸外国と次々に和親条約を締結していく日本幕府。そんな鎖国状態だった日本は、遂に約250年振りに鎖国が解除される。そこで舵を切ったように国内に入ってくる外国人たちであったが、彼らは日本の流儀をまだ理解する時間が足りていなかった。

この薩英戦争の発端となったのが、薩摩藩の実権を握っていた島津久光(第12代薩摩藩主:島津忠義の父)が江戸から京都へ戻る帰路の途中に、大名行列を無視して馬上から降りないイギリス人に手下が斬りかかって2名を殺傷した「生麦事件」(1862年)である。江戸時代には大名行列とぶつかった際には、それを邪魔せず道の脇に避けて、馬からは降りて見守らないといけなかった。

この島津久光が江戸へ向かう途中にも、実は同じような無礼な外国人と出会っていたそうです。ただその時は我慢して見過ごし、江戸幕府にその苦情を伝えた帰りだったようです。

 

大名行列のイメージ写真

ただこれは日本だけの習慣というよりもヨーロッパでも城に入る際は馬を降りて入城したり、王様の前では馬を降りるという暗黙の了解があった。だから単にこの殺傷されたイギリス人達は日本流の礼儀を知らなかったから殺されたのではなく、そういうマナーを持ち合わせていなかった無礼者か、もしくは初めて見る大名行列に夢中となってしまって我も忘れて見惚れていただけかもしれない。

そしてそんな同胞が殺された知らせを聞いたイギリスは、直ちに幕府へ薩摩藩の厳しい処置と賠償金を求めた。しかし幕府から薩摩藩へはお咎めが無かったので、それに業を煮やしたイギリスは薩摩藩に直接賠償金を求めた。だがそんな支払いは薩摩藩に断固拒否された為に、イギリスは当時世界を席巻していた海軍の軍艦5隻を薩摩藩に向かわせて交戦する事になる。

 

薩英戦争の時の砲弾

当時の薩摩藩は琉球王国を通じて他の大名よりも諸外国を警戒しており、1851年に念願の薩摩藩主となった島津斉彬は早急に富国強兵を推進していった。しかし江戸時代当時に日本国内で最先端の技術を取り入れていた薩摩藩であったが、この薩英戦争時に使われた砲弾を見ると、まるで大人と子供の差であった。イギリス軍の大砲は砲弾をピストルの弾のように溝を刻む事によって、回転させて遠距離まで飛ばす技術を持っていた。しかし薩摩藩の大砲はまるでパチンコ玉を飛ばすだけのものであった。射程距離もイギリス軍の大砲は薩摩藩の大砲に比べて、倍の4,000mを飛ばす事が出来たという。

東郷どん
東郷どん

ただし斉彬公が戦を想定して訓練させていた為に、薩摩藩の砲弾はイギリス軍艦全てに命中しているでごわす!

 

国宝の刀「国宗」の写真

こちらに写真が飾られている太刀は「国宗」という、鎌倉時代中期の刀鍛冶(備前国:今の岡山)が造ったものである。この太刀はこの照国神社蔵であるが、現物は近くにある鹿児島県歴史資料センターとなっている「黎明館」にて保管されている。

 

 

国宝の刀「国宗」の説明

こちらの説明パネルに書かれている内容では、国宗が造ったこの太刀は室町幕府:第6代将軍の足利義教から元々は島津家の家臣に送られたもの。それが時代を経て島津家へと献上されて、昭和2年(1927年)に島津家から照国神社へと奉納されて国宝に指定された。しかし第二次世界大戦終戦後にやって来たアメリカ進駐軍によってこの太刀は持ち去られてしまい、行方不明になってしまった。その後、アメリカ人の日本刀コレクターの手に偶然渡り、その人物の厚意によりこの太刀が昭和38年(1963年)に照国神社へ返還される事となった。

 

 

資料館に収められている太刀

その横に現物の太刀が飾られていて、こちらは銘「正國63代孫:波平住大和守平朝臣行安」という人物によって造られた太刀。こちらは波平宗家:行安という刀職人によって、幕末の1865年に造られたものである。この太刀は五摂家と呼ばれる藤原氏を源流とした公家の中でも、頂点に君臨する5家の1つであった近衛家の為に造られたものである。その近衛家と遠縁関係にあった島津家に、その後贈られた品である。

 

資料館に収められている太刀の説明1

そしてこの太刀も実は長い紛失期間を経て、照国神社に返還されたものである。この太刀が紛失したのは明治10年(1877年)にこの地で起きた西南戦争の時で、それから100年以上も行方不明だった。それが平成22年(2010年)に警視庁から「照国神社の札が付いた太刀が発見された」という連絡があり、その太刀を鑑定した結果、昔に失われた太刀という事が判明し、平成23年に正式に照国神社に返還されて今に至るという。

 

資料館に収められている太刀1

近衛家に献上する為に造られた太刀だけあって、鞘や持ち手付近には”近衛牡丹”の家紋マークが入れられているのが分かる。この時代に造られていたこのような立派な太刀は従来の用途である戦で使う為ではなく、その家の威信を示す為の調度品代わりとなっていたようだ。

東郷どん
東郷どん

この時代の名工が造る刀は芸術品過ぎて、戦で使うには勿体ないでごわす!

 

資料館に収められている太刀の説明

この鞘は「金梨子地近衛牡丹紋散糸巻太刀」という長~~い名前が付けられていて、飾り用となる太刀だけあって豪勢な装飾が施されている。

 

薩摩藩からヨーロッパに送られた若者たち

そして「昨日の敵は今日の友」という言葉にもあるように、薩英戦争で時代の最先端を行くイギリスの国力をまざまざと見せつけられた薩摩藩。その薩英戦争時にイギリス海軍に捕虜として囚われていた伍代友厚が、ヨーロッパの視察と留学生を送り出す案を上申し、それが薩摩藩に認められて1865年に伍代友厚や寺島宗則含む視察員3人、留学生15人(薩摩藩第一次英国留学生)と通訳を含めた総勢19人で「薩摩藩遣英使節団」として、当時はまだ幕府に海外への渡航が認められていなかったので、長崎で商売をしていたグラバーに協力を仰ぎ、イギリスを目指して密航したのである。

東郷どん
東郷どん

当時世界をリードしていたイギリスは、想像にもできないような体験ばかりだったそうでごわす!

 

 

集成館の昔の写真

島津斉彬の時代に西洋から取り寄せた紡績糸を見て、その品質の良さに驚愕したという。それ以来島津斉彬は紡績産業にも力を入れて、紡績工場を造って本格的な生産に乗り出す。そして薩英戦争を経て協力関係となったイギリスより技師を呼び寄せて、1867年に鹿児島の地に”日本初”の西洋式紡績工場「鹿児島紡績所」が開設された。

 

 

集成館の昔の写真1

島津斉彬の藩主時代に急いだかのように欧米諸国の技術を実験して活用しようとした”集成館事業”は、その島津斉彬の死を持って規模が大きく縮小されてしまう。そこには隠居の身だった斉彬の父:島津斉興が、集成館事業が息子の無駄遣いにしか見えなかった事業だったからである。しかし日本国内で他藩に先駆けて外国と開戦した薩摩藩は、その強大さを肌で実感した為に薩摩藩第12代藩主:島津忠義が頓挫していた集成館事業の再興を命じたのである。

東郷どん
東郷どん

国内にしか目が行かなかった斉興殿と、世界を見ていた斉彬公との差でごわす!

 

薩摩藩が造った勲章

1867年にパリで開催された『第2回パリ万博』に、日本は初めて参加した。その際に江戸幕府と共に薩摩藩と佐賀藩はそれぞれにブースを展開し、日本が誇る技能を見せつけた。なお半年に渡って開催されたパリ万博では、累計入場者数(有料入場者)が900万人を超えて大成功に終わったという。なおここで薩摩藩は”日本薩摩琉球国太守政府”という名前を掲げて、まるで独立国と表明したような態度で参加した。これに対して江戸幕府は薩摩藩に抗議したが、それは聞き入れられなかった。こういった件を顧みると、この時点で既に江戸幕府には昔のような絶対的な権力が無かったのが顕著に表れてきていたようだ。

東郷どん
東郷どん

それだけ薩摩隼人が、優位に立っていた証拠でごわす!

 

ナポレオン3世(Napoléon Ⅲ)の肖像画

ナポレオン3世(Napoléon Ⅲ)の肖像画

そしてここに写真が飾られている勲章は”日本初の勲章”「薩摩琉球国勲章」で、当時のフランス皇帝ナポレオン3世などに贈られたものである。なお現存する勲章は尚古集成館に保管されているという。

 

島津斉彬の歴史

島津斉彬の胸像

こちらにはこの神社で、神様として祀られている島津斉彬の胸像が飾られていた。島津斉彬の逸話として残っているものを見ると、斉彬公はかなりの知性を持った人物で、かつ強靭な体格をしていて、更に思慮深くて学問にも精通していたという。

東郷どん
東郷どん

斉彬公はまさしくお天道様のように、光り輝く存在だったでごわす!

 

島津斉彬という一国の藩主がここまで評価されているのは、単に薩摩藩の事だけを考えて活動していた訳ではなく、当時の世界情勢を把握していて日本国一丸となり公武合体して外国勢と対抗しないといけないと考えていた所であろう。そういった考えの元で次々と西洋文明を取り入れて、当時国内では最先端の技術がどんどんと薩摩藩にもたらされたのである。

 

島津斉彬の胸像1

勿論その富国強兵の裏には、それを可能にするだけの巨額の資金が必要であった。その為に農民の年貢の量は増やされ、更には江戸幕府に内密で裏金造りも行ったが、一番の資金源は島津斉興の藩主時代に調所笑左衛門が行った財政改革がもたらした富であった。ただ皮肉にも父:島津斉興との家督を争った島津斉彬からの差し金で、薩摩藩の琉球王国への出兵数誤魔化しが江戸幕府にバレる。そしてその責任が君主:島津斉興には行かないようにと、調所笑左衛門は「自分が指示したもので、斉興殿は一切関係がない」と遺書を書き残して服毒自殺したのである。

からし蓮君
からし蓮君

今の政治の世界も、昔とはあまり違いがないばい!

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフ

そんな胸像の後ろには、島津斉彬の年表が大きく掲げられている。斉彬公は照国神社の神様として祀られているので、この照国神の年表といってもいいかもしれない。

 

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフ1

島津斉彬は1809年9月28日に、江戸の芝藩邸で薩摩藩第10代藩主:島津斉興の長男として生まれる。そして3年後に江戸幕府に対して正式に「世子」(跡継ぎ)として届けられる。そして同年には御三卿の一橋徳川家:第3代当主の徳川斉敦の娘「英姫(ふさひめ)」との婚約を、幕府に届けて受理される。なおこの一橋徳川家は”御三卿”の中で唯一江戸幕府の将軍を輩出しており、斉彬公の曾祖父:島津重豪時代から一橋徳川家とは懇意にしていた為に結ばれた婚姻でもあった。

開聞茸
開聞茸

島津家はこのような外交政策で、徳川家とは近い存在であったタケ!

東郷どん
東郷どん

英姫は第11代将軍:徳川家斉の姪にあたる人物でごわす!

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフ2

この江戸時代には生まれてまだ年少の頃から、既に将来が決められていた時代。自分の結婚したい相手ではなくて親が決めた相手と結婚し、長男以外は他の大名家に養子として出される運命にあった。しかし当時は正室は1人だけど、それ以外に側室を何人も抱えており10~20人の子供を作る大名が普通だった時代。勿論そんな子供も成人する割合が半分以下だった時代であり、かつ大名の息子や娘として嫁ぐには大金が掛かる金食い虫でもあった。なので当時子供を沢山作れた大名は絶倫だった事は勿論、それだけの資本力も兼ね備えていなければならなかったようだ。。

東郷どん
東郷どん

だからおいどんは、あまり子供を作れなかったでごわす・・・モチロン金が無くて!(笑)

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフを眺める2

そして江戸生まれ江戸育ちの島津斉彬にとって、成人するまで国の薩摩には一度も訪れた事が無かった。江戸時代の情勢など今まで何も知らなくて、当主の跡継ぎなどは十二分に国の事情に精通しているだろうと思っていたけど、斉彬公が薩摩の国を始めて訪問したのはなんと26歳の時である。

この頃はまだ薩摩藩が膨大な借金を抱えている時代で、世子であろうと国元へ帰る際には大名行列で行かないといけなかったが、そんな1回数十億円とも考えられる費用すら捻出できなかったのがその裏事情でもあったようだ。

 

ちなみに大名や隠居した元大名、そして世子などは勝手に国に戻る事は出来ずに、必ず江戸幕府の許可を必要としていた。

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフ3

そんな借金事情もあって島津斉彬は、資金的な制約の下で活動をせざるを得なかった。そして30歳代になった島津斉彬の元にアヘン戦争の事情が書かれた書物が届く。そしてその内容を見て、ヨーロッパ勢がアジア地方を植民地化していく動きを知り、日本国としての将来に危機感を強く抱いていくのである。

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフを眺める

そして世子としては当時珍しく40歳を過ぎていた島津斉彬。当時として大体20~30歳前半までに家督が譲られるのが常であったが、先代:島津斉興は祖父が作った大借金の返済に頭を悩ませつつ財政改革に取り組み続けたので、家督を譲るのが遅れていた。

 

資料館にある島津斉興の肖像画1

そして島津斉興は息子である斉彬の考えに、祖父:重豪のような西洋文明に憧れて色んな物に手を出して浪費するという思想を感じ取った。島津斉興としては調所笑左衛門と二人三脚で、到底無理だと思われていた約500万両(約5,000億円ともいわれる)を命懸けで返済し終わって、更には貯蓄もそこそこに出来だしていた頃だったので、そんな苦労を台無しにされる危険性を感じて家督を譲らなかったと言われている。

 

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフを眺める1

しかし島津斉彬は江戸幕府の老中筆頭:阿部正弘に気に入られており、最終的に島津斉彬が薩摩藩主となるのを周囲からも待望されていた。その後ろ盾もあって江戸幕府より、島津斉興に隠居命令が下り、島津斉彬は41歳になってやっと薩摩藩主となるのであった。そしてそれから7年後に急死するまで、生き急ぐかのように西洋技術を積極的に取り入れて富国強兵に尽力したのである。それは藩主になかなか成れなかった反動ではなく、それだけ外国勢の脅威が目の前に迫っており、急を要した為である。

開聞茸
開聞茸

この時は江戸将軍から茶器を下賜されたんだけど、それは「引退せよ!」という暗示が込められていたタケ!

 

 

斉彬公のお墓の写真

島津斉彬が没した同年に、幼い頃に婚約してその後婚姻した正室:英姫も没した。その2人は死ぬまで仲睦まじく暮らしたそうで、そのお墓は福昌寺(鹿児島市内)にこのように並んで埋葬されている。

後程、この福昌寺まで斉彬公のお墓参りに向かいます!

 

島津斉彬の評判

この島津斉彬の母親である「弥姫」は、鳥取藩:第6代藩主の池田治道の娘。嫁入り道具には漢語などの書物を多数持ち込み、通常であれば乳母など他人に教育を任せるのが普通であった時代に、自ら息子の世話を全て1人で行った。勿論教育にも熱心で5歳から習字などもさせて、英才教育が行われたのである。だから斉彬公も単に秀才というよりかは、熱心な教育の賜物であったのかもしれない。

東郷どん
東郷どん

斉彬公は天才ではなく、努力に努力を重ねた末の才能だったでごわす!

 

島津斉彬の評判1

そんな人々から慕われる程の才能に溢れていた島津斉彬は、江戸時代後期の名君と呼ばれる人物達とも懇意にしていた。なお”幕末の四賢侯”とも称される、福井藩第14代藩主:松平春嶽土佐藩第15代藩主:山内容堂宇和島藩第8代藩主:伊達宗城とは特に親密な関係にあり、彼らとのやり取りを記録した書物が沢山残されている。

東郷どん
東郷どん

”幕末の四賢侯”の残り1人は、勿論斉彬公でごわす!

 

島津家に送られた天皇からの書簡

こちらの和歌は

「武士も心あはして秋津すの国は うこかすともにおさめむ」

  by  第121代天皇:孝明天皇 (在位期間:1846~1867年)

と明治天皇の父親である孝明天皇によって、書かれている書である。孝明天皇から島津斉興/斉彬親子に贈られたものだという。

 

島津家に送られた天皇からの書簡2

こちらはそんな孝明天皇の書状に添えられていた、右大臣だった近衛忠煕の添え状である。この近衛忠煕の家柄である近衛家は五摂家の1つであるが、昔から島津家と遠縁関係にあった。またNHK大河ドラマでも有名になった「篤姫」は将軍と嫁入りする為に、一旦島津斉彬の養女となった後に、更に近衛家の近衛忠煕の養女となり、将軍家に嫁いでいったのでもある。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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