島津斉彬の歴史を勉強できる照国文庫資料館は、斉彬公ファン垂涎の場

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

斉彬公が遺した品

島津斉彬の歴史について書かれていたレリーフ

さて鹿児島市内の照国神社内に設置されている、この神社に祭神として祀られている島津斉彬についての資料が沢山展示されている「照国文庫資料館」内の見学はまだまだ続いて行きます。ここを訪れる約1年前(2019年秋)に鹿児島を訪れた時は名前も知らなかった島津斉彬だけど、いざその存在を知ってからは虜となって、この資料館で約1時間程滞在してしまいました。

 

「照国文庫資料館」にて

島津斉彬の胸像

この神社に祀られているのは、薩摩藩第11代藩主:島津斉彬。こちらにはその斉彬公の胸像も置かれている。この人物は江戸や幕末の歴史好きな人なら当然知っている人物だけど、藩主となってから亡くなるまで約7年間しかトップとして表舞台に立たなかったので、意外と一般人からには殆ど知名度がない。

東郷どん
東郷どん

おいどんの業績全ては斉彬公のおかげじゃが、何故かあまり世間では知られてのうごわす!

 

斉彬公の残した作品

斉彬公自筆の絵画

そして次のゾーンには島津斉彬が自筆で描いた絵も残されている。こちらは鷹が他の鳥を襲うシーンが描かれているが、なんともプロ級の腕前である。当時の藩主たちは世子時代から英才教育を受けていたので、多才な能力を持ち合わせていたようだけど、それにしても直筆の筆跡も綺麗だし、このような絵も殿様が描いたとは思えない位に綿密に描かれている。

 

斉彬公自筆の絵画

こちらは「蘭」が描かれている、島津斉彬の作品。上の鷹の絵程にこちらは繊細なタッチではないので恐らくまだ若かりし頃に描いた作品だと思う。けど、そんな絵よりも左に書かれている「源惟敬書」という名前に目が行ってしまう。斉彬公は「邦丸」という幼名が付けられ、元服後は「又三郎忠方」と改める。そしてすぐに当時将軍だった徳川家斉から「斉」の文字を貰い、「斉彬」と名前を変えていく。またそれとは別に「惟敬」「惟馨」などとも号を名乗っていた。

 


 

大阪市内にある住吉大社

大阪市内にある住吉大社

その苗字として書かれていた署名にあるのは「源」で、そうあの源頼朝などの源家の名前である。では何故九州の南側に根付く島津家の人物が源家の名前を名乗るかと言うと、そのヒントがここ大阪市内にある住吉神社内に残されている。大阪の初詣では一番人気の住吉大社に、その源家と島津家に関わる物があるというのに2021年の正月に初めて知ったのである。

住吉大社内にある島津家家紋は入った提灯

住吉大社内にある、島津家家紋が入った提灯

普段は初詣など基本的にしないボクだったけど、ブログ製作ばかりで家に籠りっきりだったので、定期的に散歩して体を動かす事をするようにしていた。ただ同じルートばかり散歩していると直ぐに飽きてしまうので、たまにルート変更しながら今回は元旦という事もあって住吉大社を訪れた。すると住吉大社名物の「太鼓橋」付近に、見かけた事のある家紋マークが入った提灯を発見したのである。

 

 

住吉大社内にある「島津忠久の誕生石」の看板

住吉大社内にある「島津忠久の誕生石」の看板

するとその提灯の脇に、このような「誕生石:薩摩藩祖 島津忠久公誕生䖏」と書かれている看板を発見する。島津氏は現在も続いており、今では第32代当主となっている。そんな島津氏の初代がここに名前が書かれている「島津忠久」で、その生い立ちは源頼朝の妾の落とし子とも言われている(諸説あり)。

住吉大社内にある「島津忠久の誕生石」

住吉大社内にある「島津忠久の誕生石」

そういった言い伝えを代々繋いできた島津家では、「自分達は源家の子孫である!」という自負を持っていたようだ。だから島津斉彬の書に「源」という名前が記されていたという訳である。

 


 

斉彬公自筆の文字

こちらもそんな風に「源」という文字が入っている、島津斉彬が12歳の時に書いた書である。5歳の時から母親に習字などを教わって英才教育が施された斉彬。

 

斉彬公自筆の絵画3

こちらは「牡丹」の花が描かれた、島津斉彬自筆の絵である。当主になるには今の時代と違って厳しい英才教育が行われていた時代で、今の時代のように1代での成り上がり者のボンボン息子とは比べようにならなかった大名の息子である世子。昔は大名家には世話人がいたので、今のボンボン息子みたいにほったらかしにされずに、勿論自由も無く教育されていたのだろう。

 

斉彬公の残した本

こちらは島津斉彬の母で、先代藩主:島津斉興の正室であった弥姫(賢章院)が斉彬公の教育に用いた「三十六歌仙蛬物語」。鳥取藩主:池田治道の娘として島津家に嫁いできた弥姫は、和歌や漢文などの書籍も多数持ち込んだ。それらを使い、長男の斉彬や二男:斉敏(のち備前岡山藩7代藩主)などに英才教育を施した。

 

斉彬公の残した墨

こちらはそんな書道熱心だった島津斉彬に贈られた墨だろうか?! ただこの墨は贈り物として墨の表面に鶴の絵が描かれているので、実際に書道で使う墨ではなかったのであろう。

 

斉彬公の残した手袋

こちらは島津家の家紋マークである「十字に丸」が入れられた手袋である。何かの動物の皮で造られているように見える手袋である。ここに置かれているという事は斉彬公が使っていたものかもしれないけど、特に説明書きは無かった。

 

 

斉彬公の母が残した歌

こちらは斉彬公の母である弥姫(賢章院)が、読んだ和歌が書かれているもの。聡明だったとされる母の厳しい教育の元で、斉彬公も同じように聡明な人物に育っていったのであろう。

 

集成館跡の模型

そして次はどこかのミニチュア模型が飾られていた。こちらは鶴丸城ではなく、41歳で藩主となってようやく薩摩藩を自由に動かせる立場になった斉彬公が急いで立ち上げた集成館事業の本拠地である。今では世界遺産となっている「仙厳園」の中にある尚古集成館として建物が遺されている。

 

なお去年(2019年)に鹿児島を訪れた時はそんな場所の事は全然知らなかったので、尚古集成館の方は全く見向きもせずに綺麗に管理されている庭園の方だけを見学してしまった。。

 

集成館跡の模型1

この島津斉彬時代に西洋文明で発達していた先端技術の開発に着手した集成館は、元々は江戸時代になってから桜島が見える景観のいい場所として島津家の日本庭園として造られた場所にある。斉彬公の先代:島津斉興もお気に入りだった落ち着いた日本庭園横に、このような大規模な実験設備ばかりがドンドン造られた。

隠居の身だった島津斉興が隠居になってから初めて薩摩国に戻った時に、この様変わりした仙厳園の景色を見て、息子:斉彬が祖父:島津重豪のように西洋の真似事をして無駄な浪費をしていると思ったのだろう。そう感じたかもしれない島津斉興によって斉彬が毒殺されたという噂話が、根強く残っているという。

 

集成館跡の模型のボタン

この模型にはランプが付いていて、このボタンを押すとその設備が光って分かるようになっていた。それにしても斉彬公はこのような新しい西洋の技術を急ピッチで導入した。その背景には勿論41歳という当時としては遅い時期に家督を譲られたので、人生の残り時間が少ないと感じていたのもあるかもしれないが、それよりも大きかったと思われるのは西洋列強国からの侵略を何よりも脅威に感じていたからであろう。

 

集成館跡の模型2

中国はアヘン戦争で敗れて香港がイギリスの植民地となってしまい、その矛先が日本にやって来るのも時間の問題と思っていた。しかし小さな日本だけで西洋諸国には太刀打ちが出来ないので、斉彬公はアジア諸国と連携して西洋諸国に立ち向かうとまで構想を練っていた可能性があるようだ。だからこれだけ急ピッチで色んな設備を立てて、実験を急がせたのではないだろうか。

先代:島津斉興時代に大借金を返済してやっと蓄えが出来てきた頃合いだったけど、西洋諸国に植民地にされてしまえばそんな貯金など没収されてしまう。その為に無我夢中で西洋技術を取り入れるのに惜しげもなく資本を投入した島津斉彬と、自分の人生での大命題だった大借金を返済してお金の動きには人一倍に敏感になっていた先代:島津斉興との考えの差だったのだろう。

 

照国資料館のVTR

そして館内には動画コーナーも設置されていて、集成館事業などについての内容などが勉強できるようになっている。

 

 

資料館にある「令和」も文字

照国資料館に置かれていた令和の文字

そしてこの資料館に何故かこのように「令和」と書かれた書が置かれていた。茂住 菁邨(もずみ せいそん)という人物が書いたもので、この照国神社に奉納されたもののようだ。

 

 

照国資料館に置かれていた令和の文字の作者について2

その横には説明書きが置かれてあってこの「茂住 菁邨」という人物が、菅義偉官房長官(当時)が2019年4月1日の新元号発表の際に掲げた『令和』の文字を書いた人物だという。岐阜で育ち内閣府に入った茂住 菁邨(本名ではなく号)は、これまでに国民栄誉賞や内閣総理大臣表彰の賞状などを書いてきた人物のようだ。

 

照国資料館に置かれていた令和の文字の作者について

こちらは茂住 菁邨氏が書いた『万葉集』に出てくる「梅花の歌三十二首」の序文だそうだ。昔は筆しか文字を書く物が無かったので、皆何か文章で伝える場合はこのように直筆で書状などを書いていたのでみんな文字がそれなりに上手かったとは思う。けども文字だけの綺麗さだけではなくて、その用紙に対してのバランスや文字の間隔など、そういった面でも個性が出ていたのだろう。

東郷どん
東郷どん

おいどんは意外と書状が綺麗だと言われていたでごわす!

 

照国資料館に置かれていた令和の文字の作者について1

茂住菁邨氏のプロフィールなども書かれていて、本名は茂住修身というらしい。総理大臣などが送ったりする書状も全部印刷しているのかと思っていたけど、やっぱり重要な書状は未だに手書きされているようだ。

 

斉彬公と篤姫についてのパネル

こちらには島津斉彬と、その養女となる篤姫についての説明パネルがある。自分の実の娘ではない篤姫であるが、やっぱり将軍の正室を送り出すとなると大きな影響力を持てたようだ。将軍家といえども当の将軍よりも”母ちゃん”である正室が”大奥”として強大な権力や発言権を持っていた。

この篤姫が将軍家に嫁ぐ事になったのは、一橋徳川家と縁が深かったからである!

 

元々は江戸幕府第5代将軍:徳川綱吉の養女(後に徳川吉宗の養女にもなる)「竹姫(浄岸院)」と、薩摩藩5代藩主である島津継豊が婚姻した事を契機とする。ただこの竹姫は先に嫁いだ家で夫が2回も死別して年齢も30代半ばを過ぎていたので、引き取り手が全然見つからなかった。そこで近衛家と親戚関係にあった島津家に、竹姫を強引に押し付ける形で何とか婚姻させる。しかし島津家もそれに対して色々と条件を出して、その中には既に島津継豊には世子が誕生していたので、「もし竹姫との間に子供が生まれても世子にはしない」という決め事もあった。それもあってか結局子供が出来る事が無かった竹姫だが、薩摩藩8代藩主:島津重豪が生まれた際にその日に重豪の母親が死去してしまった事もあって、竹姫が母親代わりに育てる事になる。

東郷どん
東郷どん

この竹姫殿の存在が、その後に将軍家との縁を深くしていくのでごわす!

 

そして竹姫の影響もあって島津重豪の正室には、一橋徳川家初代当主:徳川宗尹の娘である保姫(8代将軍:徳川吉宗の孫にあたる)と婚姻を結ぶ。本来なら将軍家に近い血筋の保姫は外様大名とは婚姻しないので、その婚姻に反対する声が上がったが、徳川綱吉と徳川吉宗の養女である竹姫の推しで江戸幕府に婚姻が認められる事になる。そして保姫は島津重豪との間に1女をもうけるが残念ながらその子供は1歳で死去し、保姫は他に子供をもうける前に死去してしまう。竹姫は島津重豪と保姫の間の子を一橋徳川家と婚姻させたかったがそれが叶わなくなったので、島津重豪の側室との子供である茂姫「広大院」(篤姫とも)を一橋徳川家:2代目当主の徳川治済の長男である徳川家斉と幼き頃に婚姻を設立させて、この世を去る。

開聞茸
開聞茸

将軍の養女というだけで、かなりの発言権があったようタケ!

 

 

しかしその後に大きな動きがあり、島津重豪の側室との子供である茂姫が婚姻していた相手(徳川家斉)は第10代将軍:徳川家治の世子が死去して他に候補が居なくなってしまい、ナント徳川家治の養子となって第11代将軍に就任する事になってしまった。御三家の一橋徳川家の当主にはなる予定だったがまさか将軍になるとは思われていなくて、かつ徳川家斉が将軍になった時にはまだ婚姻が行われていなかったので、ここでその婚姻が大問題となるのである。

黒ブタ子
黒ブタ子

人間の結婚って、ややこしいブヒ!

 

将軍家の正室は皇室か公家のトップグループからしか嫁げないというルールがあったのだが、島津重豪が「徳川吉宗様ならびに綱吉様の養女である、竹姫(浄岸院)様の遺言でござりまする!」と主張し、反対意見を封じ込めて強引に認めさせる事に成功する。そして一応ルールに乗っ取って、島津家とは血縁関係になる五摂家のトップであった近衛家へ一旦養女と茂姫を出し、それで晴れて将軍の正室となったのである。

この時の近衛家養女の道筋が、のちの篤姫の時も使われる訳です!

 

斉彬公と篤姫についてのパネル1

そして更に一橋徳川家と懇意な関係を築く為に、島津重豪は曾孫の島津斉彬の正室に徳川家斉の代わりに一橋徳川家3代目当主となった徳川斉敦の娘を小さい頃に婚約させる事に成功する。なのでこの大河ドラマの主人公にまでなった「篤姫(広大院)」へと続く流れは、だいぶ遡って竹姫から派生してきた一連の将軍家との結び付きの結果でもある。

そして篤姫が嫁いだ(継室)江戸幕府第13代将軍:徳川家定は元々病弱で、体も一部不自由があったとも伝えられており、篤姫とは子供が出来ずに先に亡くなってしまう。それでも篤姫は将軍家の大奥を支配して、後に討幕に繋がる重要な存在として裏で将軍家を操るのであった。

 

照国神社資料館にある、蒸気機関船についてのパネル

この資料館には残念ながら船の模型は置かれていなかったけど、このように”日本初の国産蒸気船”として有名な「雲行丸」の説明が書かれている。この雲行丸は元々はアメリカから帰国したジョン万次郎から指南を受けた薩摩藩の藩士が造船した「越通船」(小型木造帆船)である。そしてその後に国内で数年がかりで開発してきた蒸気機関を、この越通船である雲行丸に取り付けたのである。

 

照国神社資料館にある、蒸気機関船についてのパネル1

この蒸気機関船は日本人は殆ど見た事が無かったのでとても驚いたが、オランダ海軍の将校からは「蒸気機関をうまく活用できておらず20~30%の力しか利用出来てない」と酷評であった。しかしそのオランダ将校が驚いたのは、その日本国内で作った蒸気機関は外人などの技師からの指南は一切なく、簡単なこのような図面だけを見て開発された事であった。本来であれば技師無しでもその蒸気機関の仕組みなどについての記述などを確認しながら進める所を、全く手探り無しの簡単な図面だけでここまで造り上げたという所で驚愕したと言われている。周りからしたら無理に思えるような開発をやってのけた薩摩藩の原動力になっていたのは、これを「必ず出来る!」と信じて指示した島津斉彬の存在だったのだろう。

東郷どん
東郷どん

この当時が薩摩藩で一番楽しかった頃でごわす!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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