九州縦断旅:鹿児島編
旅行期間:2020年8月中旬~下旬
鹿児島にやって来た、偉大な人物
今回の九州旅で鹿児島にやって来た1日目は、鹿児島市内にある標高108mの城山に登って鹿児島市内の夜景を一望しました。今回の鹿児島旅は島津家の歴史を勉強する為に来たと言っても過言ではなく、特に偉大な君主であったという島津斉彬公に焦点を当てて見学するつもりだ。
夜の鹿児島市内を散策
この城山の麓に造られている照国神社は、そんな島津斉彬を祭神にしている神社である。その照国神社の脇には島津斉彬公の銅像も設置されているのだが、この時は残念ながら手前の階段が工事中で銅像の真ん前まで立ち寄る事が出来なかった。なのでそのリベンジも兼ねて最終日には、斉彬公の墓地を訪れる予定にした。
城山頂上に造られている展望台から下に降りる道を下っていくと、頭の中で描いていた道よりもちょっと長かったような気がした。自分の中では照国神社のすぐ西にある道を下っているものだと思っていたけど、実際にはもっと西の方へと向かう道を下っていた。
まあひと気のない夜道も慣れたものなので、とりあえず平地に辿り着くまでは道なりに進む事にする。ちょっと遠回りになったというだけで、鹿児島市内から出てしまう訳でもないし。
鹿児島市内の「ザビエル公園」にて
そんな風にちょっと迷子風な歩きをして、やっと天文館方面へと近づいてきたら、なにやら像が置かれている公園が見えてきた。最近の旅行では写真を撮る事がメインになっているので、こういう像を見つけると吸い込まれるかの如く、近づいていってしまうようになっている。。
住所:鹿児島県鹿児島市東千石町4
この九州旅で最初の頃に訪れた山口県下関にも「ザビエル上陸の地」という記念碑が建てられていたけど、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が最初に日本に上陸したのは地理的に考えても南側からやって来た、この鹿児島に初上陸しているのだ。
1541年4月にリスボンを出発したフランシスコ・ザビエルは、インドと中国を経由して1549年8月に鹿児島へとやって来た。それからこの図にもあるように平戸や博多、山口などを経由して京へ上って行った。なので下関で見た石碑も”ザビエル本州初上陸地”でもあったようだ。
ザビエル公園はこの鹿児島市にフランシスコ・ザビエルがもたらしたキリスト教の発祥地という事で、1999年に”ザビエル来日450周年”を記念して建てられたのがこの3つの像である。ちなみに脇を立つ2人は日本人である。
中央に立つ像は勿論フランシスコ・ザビエルのもので、彼は1506年頃スペインのバスク地方の貴族の息子に生まれた。バスク地方には今でもザビエルの生まれた城である「サビエル城(Castillo de Javier)」が保存されている。当時のヨーロッパ内でプロテスタント派の台頭で新規信者の獲得に苦しんでいたカトリックが、大航海時代の到来に便乗して未開拓の地にカトリック教を植え付ける為に送り込まれた宣教師の1人である。
学校で習うレベルの知識であれば「このフランシスコ・ザビエルは日本内だけしか有名ではなかった」と思いがちであるが、彼がキリスト教を普及したのはインドや中国などのアジア地方一円で、世界で最も多くのキリスト教信者を獲得した宣教師とも称賛されている、キリスト教徒からすると偉大な人物なのである。その功績が認められて1622年には列聖されて聖人に認定された程の人物である。
この絵にもあるように1541年にリスボンを出発して、約1年掛けてインドに辿り着き宣教して、その他にアジアを回ったザビエル。その大航海時代に便乗したおかげで世界中で最も多くの信者を抱えるカトリックではあるが、偉大なるキリストが築いた教えのキリスト教は、残念ながら裏ではポルトガルの植民地を造る為に利用されたのでもあった。
こんな横綱の土俵入りのような陣形で立っていた、奥の人物は「ヤジロウ」という日本人男性。この人物は遠藤周作作品で映画化された「沈黙(サイレンス)」の中で出てきた、窪塚洋介演じるキチジローのモデルのような人物で、ザビエルが出会ったのがマレーシアのマラッカという港町であったという。一説にはこのヤジロウが”日本人として最初のキリスト教徒”とも言われているという。
一説にはこのヤジロウは鹿児島出身の人物であったが、殺人を犯して逃げ回っている時にポルトガル船に忍び込み、国外に脱出したという。そしてキリスト教徒となり、懺悔の為にザビエルの元へとやって来たそうだ。そんなヤジロウを通訳としてザビエルは日本への旅路に連れていくのであった。
そしてザビエルの左前に鎮座しているのは、「ベルナルド」という洗礼名が付けられている日本人。このベルナルドという名前以外には記録が残ってないらしく、彼はザビエルが日本に上陸して初めて洗礼した最初の日本人だという。そしてザビエルが日本滞在中は彼に常に同行し、ザビエルが日本を離れる時は一緒に船に乗って中国やインドに向かった。
そしてこのベルナルドは途中でザビエルと別れて、一路ポルトガルへ向かった。この大航海当時は記録に残っている分としては、”初めてヨーロッパに渡った日本人”とされている。そしてポルトガルへ行き、コインブラの修道院で修業し、その後にはローマへ向かった。なので”初めてローマを訪れた日本人”でもあるという。
そんな日本に伝来したキリスト教の発祥地である場所の鹿児島市だけに、その際に関わりのある人物の像がこうやって造られていた訳である。当時は今のようにまだ船で何ヶ月も掛けて、アジア地方とヨーロッパを行き来していた時代。勿論途中で船が遭難する可能性もあるし、必ず生きて辿り着ける保証もなかった時代なので、まさに命懸けの航海であった。そんなリスクを冒してまでも、ザビエルはキリスト教の普及に命を懸けていたのである。
そしてこのザビエル公園の奥へと進むと見えてきたのは、元々この場所に明治時代に建てられていた教会跡の廃材を使用して1961年に造られた「ザビエル滞鹿記念碑」である。中央部分やや上側には、キリスト教のマークでもある「P」と「X」が重なったマークが見える。これはキリスト(メシア:ヘブライ語)をギリシャ語に訳した「Χριστος」という言葉の最初の2文字を使ったマークである。
その廃材を利用したレリーフの奥には、フランシスコ・ザビエルの胸像が見える。「S」は聖人のSanという文字の略であるが、聖フランシスコという人物をヨーロッパに行くと耳にする機会があるが、その聖フランシスコという人物はこのザビエルではなく、その前の時代の人物なので混同しないように注意する必要がある。だからアメリカ合衆国の西海岸にある都市サンフランシスコはまさにこの聖フランシスコの名前を付けた都市であるが、このザビエルの名前ではないのだ。
日本人が頭に描くザビエルという人物の像は、頭がカッパのように禿げあがっているイメージなので、このように髪の毛が生えているザビエル像を見るとどうも違和感を感じる人が多いようだ。
日本人がザビエルに抱くイメージは教科書にも載っている有名なこちらの肖像画の方である。このザビエルの肖像画は大阪府下に住んでいた隠れキリシタンだった家の物置から発見されたもので、絵が書かれたのは1600年代とされていて、重要文化財として神戸市博物館に保管されているもの。なお、ザビエルの河童のような頭頂部は剥げている為ではなく、カトリック司教のスタイルでこのように頭頂部を剃り上げていたものである。
だからこの手入れを怠れば、髪の毛がぼうぼうに生えたザビエルとなるのだ!
だからこのように髪の毛を垂れ流すザビエルの姿も、そう思うと不思議なものではない。ザビエルの肖像画として紹介されるのが上の一番有名な絵ばかりなので、本当のイメージが誤解された姿で日本国民に知れ渡っているザビエルなのだ。
ザビエルさんの布教の影響で、鹿児島にもキリスト教信者が沢山いたでごわす!
カトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会にて
そんなザビエル公園の道を挟んだ向かい側には、キリスト教の教会が見えている。なおキリスト教と一口に言っても、その中で色んな宗派に枝分かれしている。日本国内ではこのザビエルの布教によりカトリック教徒が多いイメージがあるけど、現在約100万人程が居るという国内のキリスト教信者では、意外とプロテスタント信者の方が多いそうだ。
日本国内ではあまり布教しなかったキリスト教のイメージがあるけど、普段自分の街を歩いている時に意識してキリスト教会を探すと、意外と色んな所に教会を発見する事が多い。戦国時代に日本に伝来したキリスト教であるが、その布教の先にヨーロッパ諸国に支配されるという意図を見抜いた秀吉がキリスト教を弾圧し、その後の江戸幕府でも外国勢の侵略を警戒して徹底的にキリスト教を弾圧した。
もしその時代にキリスト教を弾圧しなくて容認していたら、日本も欧米諸国の植民地になっていたかもしれないね。。
おいどんには、キリシタンは似合わんでごわす!
そんなカトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会の掲示板を見てみる。キリスト教の信者にはなるつもりは毛頭ないけど、どんな事を宣伝したりPRしているのかという内容については少々興味がある。中央右には2019年11月に来日した、現役の第266代ローマ教皇フランシスコのポスターが張られている。
新約聖書はその聖書を作った書き手によって、少々内容が異なっている。このマタイというのは、マタイさんが作り上げた新約聖書の中から引用しているという意味である。ただこの内容が本当にキリストが言ったものなのか、それともマタイさんの創作なのかは何とも言えないのであるが。。
コロナ禍に沸いた2020年は、いきなり広がってパンデミックとなった新型コロナウイルスに無防備であり無知であった人類。そして古来より人々が進行してきた宗教の無意味さが、浮き彫りとなった1年でもあったと思う。「困った事があれば神様に祈れば叶えてくれる!」というまやかし的な考えが、全く無意味というのが証明された。逆に神頼みにすがる人達が押し掛けた教会で、クラスターが発生したりという状況も起きた。
神様は手助けしてくれる訳ではなか。生きるヒントをくれるだけで、行動するのはオラ達自身でごわす!
向かいにあるザビエル公園内にもザビエルの立像と胸像があったけど、ここはザビエル教会なので更にザビエルの像を見る事が出来た。それだけ日本にとってはキリスト教というと、ザビエルが特別な存在という裏返しなのであろう。
このザビエルの銅像はどうやらイタリアから贈られたものらしい。なので周辺にザビエル像が溢れているこの場所でも、飾らずにおく訳にはいかなくて、ここに設置されているようだ。
そんなザビエル教会前に設置されているザビエル像は、このように向かいにあるザビエル教会に造られているザビエル像を見ているかのように鎮座している。
そしてヤジロウを通訳として九州を巡り、キリスト教の布教に尽力したザビエル。しかし結果としてはそのキリスト教普及によって信者となった日本人が、後の時代に虐殺される事になるとは皮肉である。世界中に無数に存在している宗教も、その歴史の陰には植民地化にする為の洗脳教育的な感じで使われる事もあったのであろう。
このザビエルが活躍していた時代は、ポルトガルが絶頂だった時代。ヨーロッパ諸国の中でも先駆けてインド航路を開拓し、香辛料や絹などを持ち帰って貿易で莫大な富を築いた。しかしそこで美味しい思いをし過ぎた為に、国力を上げる為に投資せずに豪華な暮らしを貴族が行った為に、徐々に衰退していき、今ではEU圏内でも貧しい国の1つとなってしまっているのである。
宝くじの1等に当たった人ほど、没落しやすいのと似ていますね!
濡れ手に粟のように苦労せず得た金ほどに、残らないものはないでごわす!
ザビエル教会の壁には、このように寺の和尚に向かってキリスト教を説いているような風景のレリーフが設置されていた。勝手な推測だけど、仏教の坊さんがキリスト教の説法を聞いても全く受け入れられなかっただろう。そもそも仏教とキリスト教では、多神教と一神教で根本の考え方が異なっている。その違いが宗教の違いと言っても過言ではない位に、交わらない宗教である。
ザビエル教会では、このように聖母マリア像も飾られていた。聖母マリアはどこの教会でも祀られているもので、下手したらキリストよりも人気がある人物かもしれない。
こちらの有名なザビエルの肖像画は、隠れキリシタンが家に隠していたのを代々住んでいた人が気付かずに後に発見されたものだという。だからもし実家が古い建物だったら、万が一こういう絵などが隠されていないかを探してみるのもいいかもしれない。
偉大なイエスキリストもここ鹿児島では、フランシスコ・ザビエルの存在に負けているかのようだ。鹿児島ではキリストよりもザビエルが中心的な人物だとされているのかもしれない。
という事でザビエルが日本に初上陸した鹿児島市内で、それにまつわる公園や教会を見学してお勉強した後は、今晩何を食べようかと考えながら鹿児島市内の繁華街である天文館へと向かうのであった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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