照国神社資料館で島津斉彬の曾祖父:重豪から斉興に及ぶ財政改革も学ぶ

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

大借金を返済する方法

鹿児島市内の照国神社にある資料館

今回の九州旅も何だかんだで最終日である9日目に突入しました。そんな最終日は幕末から明治維新に繋がる時代に主導として動いた人物を多く輩出した薩摩藩の歴史を勉強しに、鹿児島市内の照国神社へとやって来ています。

 

照国神社内「照国文庫資料館」にて

照国神社内資料館の内観1

この照国神社内の資料館は、祭神として祀られている島津藩第11代藩主:島津斉彬公についての資料などがメインに置かれています。そして年末(12月31日)以外は毎日開いていて、なおかつ入館料が無料という素晴らしい資料館です。館内もまだ比較的新しそうで、掃除も行き届いて綺麗です。

やって来る人が少ないので、じっくりと見学できます!

 

蘭癖だった、斉彬の曾祖父:島津重豪

島津重豪の肖像画

こちらは島津斉彬公の曾祖父にあたる島津藩第8代藩主:島津重豪の肖像画。明治維新に大きな影響を与えた幕末の薩摩藩の礎を築く要因になった人物である。父親の先代薩摩藩主:島津重年が早逝した為に若干9歳で島津家の家督を引き継ぐ。そして41歳の時に家督を長男(嫡男)の斉宣に譲るが、87歳で大往生するまでは藩の実権を握り続けた。

 

資料館にある島津重豪が造らせた日中辞書

島津重豪の母親は彼を産んだ日に死去してしまうという悲劇に見舞われている。そんな島津重豪の教育の面倒を見たのは、血の繋がっていない義理の祖母だった竹姫である。この竹姫は将軍徳川綱吉の養女で、他家に嫁いだ先でその当主らが2回も早逝した為に、再婚先として強引に島津家に押し付けられる形でやって来た人物である。それまでは南国の田舎であった薩摩藩出身の人物達が教育に当たっていたが、島津重豪はこの江戸の将軍家で教育を受けた竹姫に英才教育を受ける。

 

和歌山城近くにある江戸幕府第8代将軍:徳川吉宗の像

和歌山城近くにある、江戸幕府第8代将軍:徳川吉宗の像

この竹姫は嫁いだ先で相手が死去した事により再び将軍家に戻ってきて、その時の将軍であった”暴れん坊将軍”としても有名な江戸幕府第8代将軍:徳川吉宗の養女になる(つまり第5代将軍:徳川綱吉の養女でもあり、その後は徳川吉宗の養女ともなって非常にややこしい経歴である)。そんな時の将軍であった徳川吉宗時代に、それまで一部の貿易のみして認めていなかった海外貿易で、禁止されていたキリスト教以外の書物海外馬先進技術などが積極的に取り入れられる事になる。

開聞茸
開聞茸

この当時はオランダ文化がメインだったので「蘭学」で、後に海外の門戸が開かれたので今では「洋学」と呼ばれているタケ!

 

資料館にある島津重豪が造らせた絵画

そんな影響を受けて島津重豪は代々伝わる薩摩の伝統よりも、先進的な異国の文化に心を惹かれていくのである。そして積極的に中国や蘭(オランダ)などの書物を取り入れて、また学問の重要性を認識し藩内で造士館などの教育施設を開設していくのである。

 

 

資料館にある島津重豪が造らせた本の説明

しかし島津重豪が家督を引き継いだ時点で、薩摩藩は既に赤字経営状態だった。その時点で約70万両程の借金が薩摩藩にあり、これは現在の貨幣価値に換算すると約700億円とも言われる膨大な金額である。だから島津重豪の一生はそんな大借金をどう返済していくかという、難題を抱え続けた人生でもあった。

 

資料館にある島津重豪が造らせた本

元々は中国の属国であった琉球王国は、江戸時代初期に徳川家康の許可を得た島津家に攻め込まれて属国にさせられてしまう。ここに展示されていた本は島津重豪が所蔵していたもので、本土ではお目に掛かれない珍しい生態系の植物や鳥などを記した書物を作らせた。

 

資料館にある島津重豪が造らせた本1

こういった書物を見ると、島津重豪が未知の世界に如何に興味を持っていたかという事が伺い知れる。87歳という当時では珍しい高齢まで生きた事もあって、生前中は精力的に活動していたとされる。ただワンマン経営者によくある問題として、経営者が動き過ぎて全ての選択を自分が決めてしまうので、部下が育たないという欠点があったようだ。なので87歳まで働いたと言えば聞こえはいいが、逆に部下が全然育たなかったという事でもある。その為に島津重豪に仕えた腹心も目立った人物はおらず、色んな部署の責任者も次々に変わっていき、安定していなかった藩政でもあった。

東郷どん
東郷どん

その点、斉彬公は部下を信頼して全権を任してくれたでごわす!

 

資料館にある島津重豪が書いたローマ字

こちらの文書は鎖国していた江戸時代の真っ盛りに、島津重豪が西洋文化から入ってきたローマ字を記したものである。当時の蘭学者とかならまだ分かるけど、1国の大名がこのようにローマ字を書いていたというのだから驚く。それだけ海外の文明に興味を持ち、その文化の先にある西洋の文明が進んでいる事に気付いた上で積極的に導入しようとしていたのだろう。

東郷どん
東郷どん

おいどんにはこんな難しい西洋の言葉は、書けんかったでごわす!

 

資料館にある島津重豪が謁見したシーボルト

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)はドイツ生まれだが、オランダに渡り医学者及び博物学者として当時有名だった。東洋文明に興味を抱いていたシーボルトは東アジアを経由して長崎の出島内にあった蘭館の医者として、1823年に来日する。

その後1826年に江戸参府をした際に大森(神奈川県)のオランダ使節定宿で待ち受けていた島津重豪、重豪の2男である前中津藩主:奥平昌高、当時16歳だった島津斉彬と謁見した。その会談の際には島津重豪や奥平昌高がたまにオランダ語で喋りかけてきたという。また奥平昌高は「藩主だと外国人に会ってはいけない」という当時のルールがあった為に、わざわざシーボルトに面会したい為に隠居した程の蘭癖だったと言われている。

 

資料館にある島津重豪が書いた書

こちらは島津重豪直筆の書で「無為」と書かれている。この無為という言葉は「自然のままに任せ、手を加えない事」という意味があるが、薩摩藩が背負っていた大借金を前にしては「にっちもさっちも(二進も三進)も、何をしてもうまく行かなかった・・・」という内容が暗示されているのかもしれない。

 

 

資料館にある島津重豪が造らせた本2

このような書物を見ると、現代では何気なく当然の如く世界中の鳥類や植物の名前が判明しているけど、それに辿り着く前には過去に大勢の人達によってこのようにまとめられた資料などの積み重ねによって今があるのだ。今の時代とは技術が天と地ほど違う江戸時代であるが、人間の本質自体はそんなに変わっていないのだろう。

 

資料館にある島津重豪の資料

島津重豪の時代には先述したように学問の重要性を認識していたので、藩士用の学校を設立して庶民に学問を学ばせた。そして当時はまだ家柄が重視されていた時代であったが、有能な人材は積極的に重宝して徴用した。といっても徴用しても気に喰わないと島津重豪がクビにして、また新たな人材を探さないといけなかったから身分などに構う必要が無かっただけなのかもしれない。

 

資料館にある薩摩藩財政改革の説明

そして薩摩藩に大打撃を与えた「宝暦治水事件」と呼ばれる、1754年頃に行われた岐阜の木曽三川(木曽川/長良川/揖斐川)の普請工事であった。この江戸時代には参勤交代と共に各大名の反乱の芽を摘む為に、このような土木工事を幕府負担ではなく各藩の負担で行わせて、藩財政の蓄えを吐き出させていた。

 

資料館にある木曽川普請のパネル

そしてこの木曽三川は工事中の氾濫によって途中で決壊したり、江戸幕府のお目付け役による嫌がらせ行為などがあり、幕府への抗議という形で自決した者を含めて、約400億円という工事費と共に80人程の島津藩犠牲者も出た。

 

なお、その工事の際に出た犠牲者を弔う慰霊碑「薩摩藩士碑」が、城山登山道入り口に設置されている。

 

”薩摩版:天保の改革”について

資料館にある島津斉興の肖像画

こちらは島津重豪の孫にあたる、薩摩藩第10代藩主:島津斉興の肖像画である。祖父:島津重豪時代にドンドンと借金が膨れ上がってきて、島津斉興当主時代には約100万両(約1,000億円)という赤字が、更に約500万両(約5,000億円)までも膨れ上がってしまう。ただ島津斉興は島津重豪の逆鱗に触れて隠居させられてしまった父:島津斉宣を間近で見ていたので、島津重豪に表立って反対する姿勢は取らなかった。

 

資料館にある島津斉興の肖像画1

この島津斉興の肖像画は当主としては珍しく、苦虫を嚙み潰したように「へ」の形の口をしている。だいたい肖像画ってのはその当主が自分の良いイメージを世間に残す為に、自分を良く見せて描かせたものだけど、この島津斉興は常に大借金をどう返済しようかと悩んでばかりいたイメージが良く出ている。そしてなかなか息子の島津斉彬に家督を譲らなかった事もあって、島津斉彬関係の書物ではあまり良い事は書かれていない。しかし結果的には家老まで上り詰める調所笑左衛門と二人三脚で、たった1代で約5,000億円とも言われる膨大な借金を返済して、更には100億円以上の蓄えを備えるまでになるのだ。

東郷どん
東郷どん

おいどん達には、斉興公は斉彬公の邪魔をする人物というイメージだったでごわす!

 

資料館にある財政改革のパネル

そんな薩摩藩の大借金を島津斉興と共に、財政改革を断行した調所笑左衛門。島津重豪の茶坊主から出発した調所笑左衛門は次第に出世していき、次第に重要な薩摩藩の財政改革を命じられる。そこで行われたのが”薩摩版:天保の改革”であった。それまでどんな施策を打っても業績改善に繋がらなかったが、調所笑左衛門に命じると意外な程に成果が表れだした。

 

というのも旧来の家老達は昔からの家柄もあってそこそこ贅沢な生活を辞めれず、世間に荒波を立てて自分の名前を汚してまでも薩摩藩の為に尽力するという事はしなかった。つまり今まで藩政改革を指示してきた人間たちは保身が1番であって、任された命令を遂行するという事は二の次であった。しかし一番下のお茶を入れるだけの係”茶坊主”から登用された調所笑左衛門は庶民の子で、彼には失う物がなかったのである。

開聞茸
開聞茸

どの時代にも輝く成果を残した人は、自分の事など顧みずに命を懸けて使命に取り組んだ人タケ!

 

 

資料館にある調所笑左衛門の肖像画

財政改革を一任された調所笑左衛門は、当座の軍資金集めに江戸や大阪の金貸しの元へ向かう。しかし当時は大借金を抱えていながら返済もせずに更に「金を貸してくれ!」という内容に、殆どの商人から罵声を浴びせかけられた調所笑左衛門。しかし手ぶらのままでは帰れないので毎日のように色んな金貸し問屋を巡ったが、全く相手にされない日々が続いた。しかし何度も通う内に薩摩藩の侍とあろう人物が町商人に頭を下げながら回っている姿を見て、調所笑左衛門に金を貸そうという大阪商人が現れるようになった。

桜島火さん
桜島火さん

ワシは溶岩を垂れ流す事はあっても、アタマは下げんド~~ン!

 

そして調所笑左衛門はそんな商人達に薩摩藩の財政再建の為の案を募り、薩摩藩の人間からの見方ではなく、現場の大阪商人達の目線から提案された問題点を解決していく事にあたる。借金に苦しむ全国の大名の中でも、薩摩藩は実は大きな金脈的な”金の成る木”を生かせずにいた。 それは江戸時代初期に属国として迎え入れた琉球王国(沖縄)である。

当時の日本国内で砂糖は貴重品であり、主に中国から輸入していた。それを琉球王国(奄美大島なども含まれる)で栽培されていた黒糖を既に専売(薩摩藩一手が買上げ、薩摩藩のみが全国に売れる制度)していたのであるが、薩摩藩の管理体制が甘くて、本来得られる利益を大きく損ないながら取引をしていた。そこに着眼した調所笑左衛門は黒糖の転売を一切禁止にして、違反したものは処刑するなどして厳罰化した。合わせて給料が滞っていた薩摩藩の役人達が、産品を転売する時に中抜き(マージン)を隠して受け取っていたのであるが、それも一切禁止にした。

東郷どん
東郷どん

薩摩藩としては大きく財政を潤す事になる琉球王国じゃけど、琉球の人々からしたら更に搾取される”砂糖地獄”とも呼ばれてたでごわす!

 

そういう調所笑左衛門が行った施策のおかげで、今まではあまり陽が当たらずに成長しなかった“金の成る木(黒糖)”が大きく成長していき、莫大な利益が薩摩藩に転がり込んでくるようになる。そして合わせて高利貸しから借りた借金は複利で膨れ上がった借金を踏み倒すのではなく、無利子で250年月賦にして返済すると打ち出した。島津斉興が藩主時代に約1,000億円だった借金が約5,000億円にまで膨れ上がったのは、借金の複利が雪だるま式にドンドンと増えていった為であった。これにより借金の増加を抑制し、世間には借金を踏み倒しはせずに”返却する意思がある”という事を伝えたのである。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

この当時はどこの藩も借金だらけで、その借金を踏み倒す事など珍しくは無かったそうだ。だから余計に金貸しからは足元を見られたけ!

 

それと共に調所笑左衛門は琉球王国を通じて中国との貿易を行っていたが、その中国貿易品は江戸幕府が指定した少ない品目だけで、しかもそれは長崎の奉行所に収めて、長崎の役人たちが売りさばいていた。だがいつの時代も同じように当時の長崎の役人達もあまり仕事熱心ではなく、中国から得た貿易品はあまり売れなかった。調所笑左衛門はそこで江戸幕府の老中に接近し、中国貿易品を薩摩藩が代理で販売してその手数料を奉行所に収める事、そして中国貿易品の販売品目を増やす事を依頼して許可される。これらの調所笑左衛門が行った”薩摩版:天保の改革”で、大赤字であった薩摩藩の燃えていた財政は沈静化し、更には多額の貯蓄を持つにまでなるのである。

東郷どん
東郷どん

調所笑左衛門殿がいなければ、おいどんも無給で働かされていたかもでごわす!

 

資料館にある斉彬の思想のパネル

そんな曾祖父:島津重豪や父:島津斉興が、必死で財政改革に取り組み姿を間近で見ながら育った島津斉彬。財政難もあって江戸で生まれてから27歳頃までは、1回も薩摩国を訪れた事が無かったのである(1回の参勤交代費用は約50億円掛かったとみられる)。なので薩摩藩の世子といっても、江戸生まれ江戸育ちの都会人であったのだ。島津斉彬は薩摩藩の世子としての時代が長かったが、多忙な父:島津斉興の代役として江戸城へ出向いての会合は島津斉彬が毎回欠かさずに訪問していた。それもあって当時の老中:阿部正弘に気に入られて、腹心のように扱われる。そんな折に西洋列強国がどんどんとアジア地方に進出し出してきたのであった。

 

資料館にある斉彬が所持していた地球儀の複製

こちらはそんな島津斉彬が愛用していたとされる地球儀の複製。曾祖父:島津重豪の影響もあって蘭学にも精通していた島津斉彬は、学問と共に国内にもたらされた当時のヨーロッパ情勢までにも精通していた。だからこそ他の大名達に比べていち早くその警戒感を持っており、いずれ戦いになっても最終的には開国さざるを得ないというヨーロッパ勢との力差も認識していたとみられる。

 

資料館にある斉彬が所持していた地球儀の複製2

15世紀に始まった大航海時代から約400年が経つと、もうこの時代には大まかな世界地図が把握されていたようだ。日本国内の正確な測量図は、伊能忠敬によって1821年『大日本沿海輿地全図』が仕上げられた。

 

 

資料館にある斉彬が所持していた地球儀の複製1

正確な測量をして日本国内の精密な地図作成だけでも凄いと思うけど、外国の他の地域でもこの時点で大まかな世界地図が完成している事にも驚く。そして昔はこのように地球儀などを見回したが、現在ではGoogleマップやGoogleアースなどで、世界中の好きな場所を好きな時に見れる事が出来る時代になっているのだ。

黒ブタ子
黒ブタ子

人類文明の進化ほどに、恐ろしいモンはないブヒ!

 

 

資料館にある斉彬が所持していた地球儀の複製3

この時代の地球儀ではまだアラスカはロシアの領土であった。その後アラスカは寒いだけで生活するには不向きな場所として、アメリカに売却する事になるのであるが、アメリカは単なる地上だけの価値を見ていた訳ではなくて”地中までの価値”を見て購入したのである。

マトちゃん
マトちゃん

このアラスカ売却は、”ロシア史上最低の取引”とも言われているノヨ!

 

資料館にある、西洋からの侵略の歴史

江戸時代にキリスト教の弾圧を兼ねた鎖国政策の影響により、日本は海外の目まぐるしく移り変わっていく激動の中で1国だけ静かに長い時間を過ごした。大航海時代にポルトガルやスペインが主力だったヨーロッパも、時代の流れと共にそれがオランダに勢力が移り、その後には産業革命が起きたイギリスがヨーロッパの覇者としてアジアに進出してくるのであった。この図を見ればその流れがウイルスのようにどんどんとアジア地方に拡がっていき、日本がその流れに飲み込まれるのは時間の問題であった。

 

資料館にある、西洋からの侵略の歴史1

ただし当時は鎖国中だったので殆どの大名は、そんな海の向こう側の世界など全然眼中になかった。というのも各藩主たちもそれぞれに借金で苦しんでいる藩が多くて、そんな海外に目を向けれずに足元しか見る余地が無かったのである。しかし島津家のように蘭学などを贔屓にしていた”西洋かぶれ”の大名達は、限られた貿易国オランダからそれら情勢の情報を入手し警戒感を抱いていた。

東郷どん
東郷どん

斉彬公もイギリスなどの動きには、常に注視していたでごわす!

 

資料館にある、西洋からの絵

あまり歴史に興味がない人は江戸時代に行われていた鎖国は、「ペリー提督がいきなり浦賀にやって来て、大砲を打ち込んで開国させた!」と思っているかもしれないけど、実はその約20年程前から開国を求めてアメリカの船は日本にやって来ていた。そして開国させたいのはアメリカだけではなく、ヨーロッパ諸国も次々に日本に開国して貿易を行う事を目的として艦隊を送り込んでいた。このように次々と押し寄せる外国船に「開国するのか?それとも追い払うか?」という選択が、江戸幕府内で常に持ち上がっていたのである。

マトちゃん
マトちゃん

実はペリーの艦隊が日本にやって来るという情報は、オランダから約1年前には知らされていたノヨ!

 

資料館にある、西洋からの絵1

琉球王国は元々は中国の属国であったが、江戸時代初期に薩摩藩の侵攻を受けて日本の属国になる。なので2重の属国として中国と日本にそれぞれ貢物を送っていたのである。ただそんな琉球王国を管理していた薩摩藩も、琉球王国の国王が変わる度に江戸参府をしなければいけなかったので、当時は財政的にも苦しむ要因の1つであったようだ。

 

資料館にある、斉彬の書

こちらは琉球王国から島津斉彬への貢ぎ物で、学者であった人物の書である。このように琉球王国(沖縄)の立場からすると、2重に搾取され続ける時代が続き、更に薩摩藩の取締りが強化された後は飢饉の度に餓死者や身売りする者が絶えなかったという暗黒の時代でもあったのだ。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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【九州縦断旅行記】小倉から始まり、別府~熊本~鹿児島~桜島と巡る!
2020年8月の炎天下の時期に訪れた九州。まずは小倉で以前バルト三国旅行で知り合った”エロ坊主オジサン”と再会し、門司港へと連れて行ってもらいます!
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