鹿児島市で西郷隆盛像と、神様として祀られる島津斉彬公の像を眺める

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

薩摩藩の偉人たちの銅像

鹿児島市内の西郷隆盛像前を眺める

さて今回の九州旅は最後の県である鹿児島までやって来ました。先程熊本から到着したばかりで一旦近くのホテルにチェックインして荷物を置いた後は、鹿児島県民が愛すべき人物であり、鹿児島の象徴でもある西郷隆盛像を見に来ました。

 

【西郷隆盛の銅像】

 

住所:鹿児島県鹿児島市城山町4−36

 

 

鹿児島市内にて

鹿児島市内の西郷隆盛像前の歩道橋

この西郷隆盛像を正面から撮影できるスポットの「西郷隆盛像撮影広場」がある鹿児島市中央公民館側からは横断歩道がないので、このように「山下歩道橋」という歩道橋がわざわざ設置されています。

最近はわざわざ歩道橋を登るのが好きになったんで、勿論ここでもこの歩道橋を登ります!

 

鹿児島市内の西郷隆盛像前の歩道橋から見る美術館

そして歩道橋の上まで行くと、西郷隆盛像の横にある大きな建物が目に入る。こちらは鹿児島市立美術館という、島津家の居城であった鶴丸城跡地の一角に1985年に完成した建物がある。ちょうどこの時の展示は、ポーランドのクラクフ出身の画家であるモイズ・キスリング(Moïse Kisling:1891~1953年没)関連をしていた。

 

 

鹿児島市内の西郷隆盛像前の歩道橋から見た道路状況

そしてこの西郷隆盛像がある前の道路は、「磯街道」とも呼ばれる国道10号線で北九州から鹿児島の間を繋ぐ道で、通勤時間帯にはとても混雑するという。この時は18時過ぎで、このように北側に向かう車線には早くも渋滞する様子が見えていた。

 

西郷隆盛像を眺める

鹿児島市内の西郷隆盛像の写真-

歩道橋を渡って反対側に渡ると、目の前には西郷隆盛像がだいぶ上の方に鎮座している。この西郷隆盛像は昭和12年(1937年)に造られたもので、この銅像の作者は安藤照という大正~昭和初期に活躍した鹿児島市出身の彫刻家である。この西郷隆盛像が造られた経緯は、鹿児島出身の海軍元帥であった東郷平八郎が、鹿児島が生んだ英雄の像を安藤照に依頼したのであった。

 

鹿児島市内の西郷隆盛像の写真

この銅像を造った安藤照は、昭和3年(1928年)にこの銅像製作の依頼を受けてから、西郷隆盛について体形などの身体的特徴について徹底的に調査した。そして国内にある銅像などについても研究し、その後はヨーロッパまで行って銅像の研究を行った。そして9年後の1937年に西郷隆盛像が完成した訳であるが、その前に安藤照は1934年に東京渋谷駅前にある初代忠犬ハチ公像を造っている。なお現在渋谷駅前に立っている忠犬ハチ公像は戦後に再建された2代目で、1945年5月の東京大空襲で亡くなった安藤照の息子である安藤士によって製作されたものである。

東郷どん
東郷どん

この像は初代ハチ公像の作者が造った像ばい!

 

鹿児島市内の西郷隆盛像に設置されているレリーフ

こちらにはこの西郷隆盛像設置の依頼者であった東郷平八郎が、書いた文字のレリーフが飾られている。現在の鹿児島市出身であった東郷平八郎は20歳代に7年間イギリス留学していたが、その間に鹿児島の英雄である西郷隆盛が西南戦争で敗北し、この近くにある城山の洞穴で自害した。またその際に東郷平八郎の実兄も西南戦争に参加していて、時を同じくして自害している。なおこの西郷隆盛像が出来上がる3年前の1934年に東郷平八郎は亡くなってしまったので、この出来上がった銅像を見る事は叶わなかったのである。

 

鹿児島市内の西郷隆盛像近くの池

この西郷隆盛像がある周辺はこのように池となっていて、鯉などが泳いでいる姿も見られる。明治維新の立役者でもある西郷隆盛は新政府軍に反乱を起こした反逆者とも捉えられているが、鹿児島人にとってはいつまでも英雄であり続ける人物なのである。ちなみにそれとは対照的に同じく鹿児島出身の大久保利通は、西郷隆盛を裏切ったというイメージが鹿児島人の間で根強くあったので、大久保利通の像が造られたのは彼が亡くなってから100年後の事であった。

東郷どん
東郷どん

それだけ西郷どんと利通には、鹿児島人からしたら差があるたい!

 

鹿児島市内の西郷隆盛像近くの自動販売機

この西郷隆盛像がある西側の建物には、このように1階には西郷隆盛や桜島の写真がデザインされた自動販売機が設置されていた。そんなゴミ箱の投入口は大胆にも西郷隆盛の胸元に設置されていて、「こんな所にゴミを入れるなんて、恐れ多い・・・」と鹿児島人が思うだろうと考えていたけども、残念ながら21世紀の市民は何とも思っていないのか、ゴミ投入口から見える程にいっぱいペットボトルが入れられていた。。

 

鹿児島県立博物館の景色

こちらの古そうな建物は、西郷隆盛像から西の方に行った交差点近くにあった昭和6年(1931年)に建てられた鹿児島県教育会館である。鉄筋コンクリート造りの3階建てで、建物が完成した当時は”鹿児島市内4大ビル”と呼ばれていたという。

 

 

 

 

島津斉彬公を祀る照国神社にて

鹿児島市内の照国神社の鳥居

さて国道10号線にある「照国神社前交差点」から北西の方角に進むと、大きな鳥居が見えてきます。「巨大な鳥居は、貢献の象徴」と後程出てくる看板で見ますが、それだけ薩摩藩にとって一番重要な人物が祀られている神社の鳥居。

 

鹿児島市内の照国神社の石碑

こちらの神社は「別格官幣社 照国神社」で、薩摩藩11代藩主:島津斉彬を主祭神の照国大明神として祀っている場所である。島津斉彬が50歳で急死した後の1862年に創建された神社である。

 

別格官幣社【照國神社】

 

住所:鹿児島県鹿児島市照国町19−35

 

 

鹿児島市内の照国神社の境内

去年鹿児島を訪れた時に初めて知った、薩摩藩の当主だった島津斉彬という人物。帰ってからその人物について調べてみると、”幕末の四賢侯”とも呼ばれていたり、「島津にバカ殿なし」と言われた薩摩藩主の中でも鹿児島人の英雄でもある西郷隆盛がこの島津斉彬を神様のように崇めていたという。

 

そんな事を知って、前回訪れなかったこの照国神社やお墓参りをしたかったのです!

 

鹿児島市内の照国神社の説明文

そんな照国神社の境内を入ってすぐの場所にはこのように照国神社の由縁が書かれていて、「御祭神 照国大明神(島津斉彬)」となっている。この島津斉彬という人物が全国的な知名度があまり無い理由として、江戸時代としては藩主になったのが43歳と遅く、かつ50歳で急死した為に表舞台に立つ時間が短かったからである。というのも島津斉彬の曾祖父であった島津重豪(天文館を造った人物)の時代に膨大な出費をして薩摩藩には多額の借金が残った。それの対応含めて家督相続が遅れたのであった。

東郷どん
東郷どん

膨大な借金の年利(12%)だけで、その一年間の収入に匹敵していたとも言われとるたい!

 

鹿児島市内の照国神社にあった島津斉彬公の説明

その後、1787年に江戸幕府10代将軍:徳川家治が亡くなり、11代将軍に徳川家斉が就任する。この徳川家斉は将軍になる予定の遥か前(婚約当初は一橋徳川家の世子だった)の3歳の時に島津重豪の娘と婚約していた為に、島津重豪は江戸幕府将軍の姑(しゅうと)となってしまった。この時代は外様大名の娘が将軍家の嫁となる事が考えられなかった時代で、反発は起こったものの何とかその後に結婚に辿り着くが、外様大名として”将軍の姑”ともなっては周囲との関係が崩れる事も考慮してか、島津重豪はその年に自ら隠居の道を選ぶ事になる。

 

蘭癖とも言われた薩摩藩8代藩主:島津重豪

蘭癖とも言われた薩摩藩8代藩主:島津重豪の肖像画

ちなみに島津家の娘が徳川幕府の将軍の嫁となった由縁の起源は、この島津重豪の義理の祖母(薩摩藩第5代藩主:島津継豊の継室)であった浄岸院(竹姫)にまで遡る。この浄岸院の叔母(父親の妹)が5代将軍:徳川綱吉の側室だったが子宝に恵まれなかった為に、浄岸院を養女にした。その後、会津松平家藩主や皇族と婚姻するものの結婚前にそれぞれ不運にも亡くなってしまった。そして8代将軍吉宗の養子ともなった浄岸院の婿探しを方々にしたが、2度も婚約者を亡くしている事もあって、どの大名や公家にも断られた。

 

薩摩藩8代藩主:島津重豪の経歴

しかし当時から財政難に喘いでいた島津家は、色んなしがらみもあって断り切れずに島津継豊との縁談話がまとまった。この婚姻時に取引していた影響もあって、江戸での広い領地や高い官位を島津家は獲得し、更には将軍家とのパイプが出来たのであった。そして浄岸院は義理の孫である島津重豪の正室に、一橋徳川家当主の娘:保姫を迎えさせた。そんな関係もあって島津重豪の側室の娘であった広大院(篤姫・茂姫)を遺言で、一橋徳川家の世子であった後の11代将軍徳川家斉と婚姻させたのである。

なお、この結婚には周囲の反発もあったけども徳川綱吉の養女:浄岸院の遺言であると島津重豪が主張して、それが認められたのであった。そしてこのような関係を更に強化させる目的もあって、島津斉彬は第11代将軍:徳川家斉の弟である一橋徳川家第3代当主:徳川斉敦の三女:英姫を正室に迎えている。

 

 

島津斉彬の養女であった篤姫

こういった経緯もあって島津家と将軍徳川家には繋がりが出来て、後に島津斉彬の養女となった天璋院(篤姫)が13代将軍徳川家定に迎えられている。NHKの大河ドラマ「篤姫」のモデルともなった大奥がこの天璋院(篤姫)で、その「篤姫」という名前は島津重豪の娘で将軍家に嫁いだ広大院(篤姫)の名前にあやかったとされているという。

 

 

薩摩藩の財政改革

そのような経緯もあって島津家と将軍家の関係は近いものがあり、島津重豪⇒島津斉宣⇒島津斉興(薩摩藩10代藩主)の時代には膨大な借金に困窮し、調所笑左衛門広郷という御用人に藩財政を改善させる藩改革を託した(1878年12月)。この時点で薩摩藩の借金は500万両に達していたらしく、仮に当時の1両を現在の価値で約10万円とした場合、500万両=5,000億円という試算になる。。

当初は膨れ上がった借金の踏み倒しをしたけど、その後の運営資金が無かったので、更に金利が高い借金を続けた。それが複利となって返済できない状態が続いて、どんどんと雪だるま式に借金が増えて借金地獄と化していったようだ。

東郷どん
東郷どん

この調所笑左衛門に藩改革が託された1878年12月に、西郷隆盛が生を受けたたい!

 

調所笑左衛門広郷の肖像画

薩摩藩の財政改革を任された、調所笑左衛門広郷の肖像画

更に1830年には島津重豪から調所笑左衛門に対して、これからの10年間で500万両(約5,000億円)の借金を返済する事と共に、更に下記の3点を新たに命じたという。

<追加①> これからの10年間で50万両(約500億円)の貯蓄をする事
<追加②> 藩の非常手当である軍用金の貯蓄(約50万両)も別に蓄える事
<追加③> 借金した借用書を商人から取り戻す事

 

 

なお、この調所笑左衛門広郷は茶坊主というお茶だけを入れる役目から、最終的には薩摩藩の家老まで昇進し73歳まで働き続けた苦労人でもある。ただ最終的には父:斉興がなかなか家督を譲らない事に反発した島津斉彬からの計略で、密貿易が発覚した責任を取って自害する事になる。それは君主:島津斉興に責任が及ばないという配慮をした自害であり、調所の死後は島津斉彬によって屋敷や敷地は没収されてしまうのであった。

島津藩の為に全身全霊を捧げて、しかも約5,000億円の借金を返して黒字回復した立役者なのに、その結末はこのように虚しい自害だったのだ。。

 

 

島津斉興(薩摩藩10代藩主)

調所笑左衛門と共に財政改革に取り組んだ、薩摩藩10代藩主:島津斉興の肖像画

薩摩藩10代藩主:島津斉興は、大借金時代に家督を継いだ。ただ薩摩藩の実権は世間的に隠居していた祖父:島津重豪(薩摩藩8代藩主)が最後まで握り続けていたが、財政改革には調所笑左衛門と共に一生懸命に取り組んだ。常に膨大に膨らんだ借金をどう返そうかと悩んでいるような、口をヘの字に曲げた苦悩姿という珍しい肖像画が残っている島津斉興であった。

 

【調所笑左衛門が主に取り組んだ財政改革】

①商人達に借りていた借金を250年かけて無利子で返す(実質借金の金利を踏み倒し)
②商人たちの借用書を「書換えするという口実」で一旦引き取り、それを燃やして新たな内容で発行(実質借金の踏み倒し)
 ※大阪の商人たちの間で暴動レベルの反発があったが、幕府へ上納金10万両を献上して揉み消してもらう
③薩摩藩の秘密の場所で贋金造りに着手(幕府に内緒で偽造硬貨の作成)
④配下の琉球王国を通じて、中国産品の流通拡大(幕府からは海外との密貿易は禁じられていた)
 ※海外との密貿易は禁止されており長崎で販売できる品目が限定されていたので、販売品種を増やすよう幕府に陳情
⑤建物工事の手続きなどを簡略化し、材料を直接買えるようにした。(工事費の経費削減)
⑥経費削減して浮いた金で肥後の石工:岩永三五郎などを招聘し、鹿児島で数十個もの石橋や堤防などを造らせた(インフラ事業を整えた)
 ※インフラを整える事で商品や参勤時の輸送/移動コストなどを削減
⑦たばこ/椎茸/硫黄/鰹節/捕鯨/塩/明礬などの名産品の品種改良/品質向上を行った(品質向上により販売価格UP)
⑧奄美三島(奄美大島/喜界島/徳之島)からの黒糖専売制で、年貢の代わりに黒糖を納めさせ(これは以前より)、合わせて品種改良もさせ品質を向上させて、更に余った黒糖を自由に転売する事を徹底的に禁止にした
 ※今までも砂糖専売制であったが、島を知り尽くした役人を送り込み、個人で転売したものは死刑などの極刑にした。それまでの稲作を中止させて黒糖作りをさせていた為に、不作に陥ると食糧が無くなり、多数の餓死者を出した。奄美三島からすれば「黒糖地獄」とも呼ばれ、搾取され続ける暗黒の時代でもあったという。
⑨薩摩藩内の流通部署で中抜き(賄賂や横領など)が頻繁に行われていたのを監視して、徹底的に禁止にした

 ※薩摩藩内で不正を働いた者は切腹や島流しにして、徹底的に行った

こうして本当に10年間で500万両(約5,000億円)の借金を帳消しにして、更に50万両以上の備蓄もしたというので凄い!

東郷どん
東郷どん

その代わりに陰で大勢の人が泣いたばい! でもそのおかげで幕末にリードする薩摩藩となったばい!調所さん、ありがとさげもした!

 

鹿児島市内の照国神社内に設置されていた「日の丸」の石碑

そんな風に調所笑左衛門と藩主:島津斉興との二人三脚で備蓄まで出来た薩摩藩で、幼い頃から曾祖父である島津重豪に可愛がられて大いに影響を受けた薩摩藩11代藩主となる島津斉彬に、曾祖父:島津重豪のように散財する片鱗を感じた島津斉興はなかなか家督を譲らなかった。

しかし日本の将来を見据えての集成館事業に多額の資金を注ぎ込んだ島津斉彬の考えは間違ってなく、西洋国からの侵略に備えて当時は幕府によって建造中止となっていた洋式軍艦を造るなどして、日本の近代化に大きく貢献した島津斉彬であった。

 

鹿児島市内の照国神社内に設置されていた「日の丸」の説明

島津斉彬が幕府に許可を貰って建造した、日本初めての洋式軍艦「昇平丸」には外国船と間違われないようにと、当時はまだ決まりの無かった国旗となる”日の丸”が入った旗を掲げたのである。

 

黒い国旗

江戸幕府が用意していた、今の日の丸とは違う黒い横線の日本国旗案

この時に島津斉彬が船に付けた、今の日本で見られる国旗である”日の丸”以外に、江戸幕府側ではこんな白と黒の国旗案が用意されていた。しかし島津斉彬と親交の深かった徳川斉昭(常陸水戸藩主で徳川慶喜の実父)や有力大名などがこの日の丸案に賛同した為に、それが認められる運びになる。

東郷どん
東郷どん

島津斉彬公がいなかったら、見慣れた日の丸デザインがこんな味気ないものになってでごわす・・・

 

鹿児島市内の照国神社内にある、大きな松の木

そんな照国神社境内を進んで行くと、階段を登った上には大きな鳥が翼を広げたような恰好に整えられている木が見えてくる。こちらの木は「斉鶴(さいかく)」という一般公募で決められた名前が付いており、照国大明神となっている島津斉彬公が生きていた時代(1809~1858年)に日置郡郡山町(現:鹿児島市郡山町)で植えられた木がここに移されてきたという。

 

 

鹿児島市内の照国神社内にある、大きな松の木の説明

この木は「イヌマキ」というマキ科の常緑針葉樹で、樹齢は約180年程のようだ。木の高さは2~5m程の物もあれば、20m程まで成長するものもあるという。刈り込みに強いので、このように樹形を整えて観賞用庭木として利用される事が多く、他にも生け垣や防風林にも利用されているそうだ。

 

 

鹿児島市内の照国神社内にある、大きな松の木の石碑

この「鶴斉」という木は昭和37年(1962年)に、中塚製菓という会社から寄進されたもののようだ。鹿児島市民から今も寵愛を受け続ける島津斉彬公、そしてそれを祀る照国神社の景色を担う木となっている。

 

鹿児島市内の照国神社内にあった資料館

なおそんな鶴の形をした木の隣にあった建物は「照国文庫資料館」で、祭神として祀られている島津斉彬公に関する資料が沢山展示されている場所なんだけど、ここを訪れた時には18時を過ぎていたので残念ながら閉館していた。。

なおこの資料館はナント無料で見学が出来るので、是非照国神社を訪れる際に見学してみてください!

東郷どん
東郷どん

斉彬公に関する資料館は、照国神社に来た人は必ず見学するよう義務にするたい!

 

鹿児島市内の照国神社内の社殿に進む

そんな鶴の形をした木を見ながら進んで行くと、階段を登った先には照国神社の社殿が見えてくる。この時は殆ど人が居なかったけど、それでも見かけた人は真面目にお参りしていた。

 

鹿児島市内の照国神社内の社殿に進む-1

さて1年前に訪れた時は全然知らない人だった島津斉彬だけど、ちょっと歴史を勉強しただけで、江戸時代後期にヨーロッパ勢の侵攻の危機を感じ取り、日本国内では他に先んじて改革を進めた偉人である。今回鹿児島を訪れたのもそんな島津斉彬について、もっと勉強したかった為でもあった。

たった1年でこれほど自分の考えが変わるとは、昔の自分では想像できませんでしたね・・・

 

鹿児島市内の照国神社内の社殿に到着

更に奥に進むと本殿が見えてくる。照国神社と言っても島津家を祀る神社でもあるので、そこかしらに「丸に十字」が入った島津家の家紋マークが見えている。

 

鹿児島市内の照国神社内の社殿を眺める

本殿ではこのように賽銭箱からそこら中に島津家の家紋が入れられているのが見える。幕末から明治維新にかけて閣僚には薩摩藩出身が多かったという事実から見ても、その前の時代の薩摩藩主に先見の明があったという証拠だろう。先を見た人材育成をしていなければ、1人ならまだしも多くの優秀な人間は生まれて来ないのである。

 

鹿児島市内の照国神社内にある島津斉彬公の銅像

そして今回の鹿児島訪問で一番楽しみにしていた、照国神社の本殿横に設置されている島津斉彬公の銅像である。さっきからチラチラと見えていたのだけど、一応本殿を見学してから見るという事にして我慢していたのであった。

 

鹿児島市内の照国神社内にある島津斉彬公の銅像の手前が工事中

しかしなんとここを訪れた時に、この島津斉彬公の銅像が設置されている場所の前にある階段の補修工事中だったので、銅像の近くまでは立ち入りが禁止となっていたのであった。。

なんでこんなタイミングで・・・ガックシ・・・orz

東郷どん
東郷どん

この先月に九州地方で降った大雨で、地盤が崩れてしまった所も多かったたい!

 

鹿児島市内の照国神社内にある島津斉彬公の銅像を眺める

前回鹿児島を訪れてから、この島津斉彬公の銅像に会うのを楽しみにしていただけにとても残念だった。それでも諦めきれなかったので、近寄れる所まで寄ってみて銅像の写真を撮るのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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