照国神社内の照国文庫資料館で、タダで島津斉彬公の功績を勉強する日

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

鹿児島の神様になった人物

南州館の朝食

さて今回の九州旅でこの朝が実に9日目となり、長かったこの旅も今日が最終日となります。帰りの手段は飛行機でフライト時間は19時なので、まだまだ最後の最後まで鹿児島を満喫していきます。という事で3連泊でお世話になった「HOTEL&RESIDENCE 南洲館」さんで、ラストとなる美味しい黒豚しゃぶが付いた朝食を食べます。これだけ美味しい朝食が付いて1泊辺り3,000円を切るという”GO TO キャンペーン”のおかげもあったけど、やっぱり値段は安くても評価の高いホテルはサービス度合いが違う。

また鹿児島に来たなら、泊まりたくなるホテルでした!

 

 

南州館の朝食会場の様子

ここは朝食会場であまり広くはなかったので、1人客は相席、家族連れはテーブル席。ただ1人客は相席と言ってもこのように曇りガラスが置かれていたので、向かいや横に座った人は全然気にならないし、狭いながらにアイデアを出して有効活用していた。この2020年は”GO TO キャンペーン”のおかげで10回ほど国内旅行をしたけど、このように曇りガラスでテーブルを仕切っている所はここだけであった。恐らくこのホテルは食事会場が狭いからこそ、こういった上手に物を使うアイデアが出たのだろう。

 

南州館の朝食会場にあるガラス

このように向かいや横に座っている人が、全然見えない程度に曇っているガラス。そして下側にはわざわざ調味料が取り出せるようにと、カットされているというなかなかのアイデア。こういった細かい事にまで配慮出来ている点など、建物自体は古いけどホテル側の姿勢が顕著に出ているように感じる。

 

南州館の朝食会場にある爪楊枝

そしてこの爪楊枝入れの容器は、フィンランドのメーカーである『Marimekko(マリメッコ)』。2019年12月に行ったバルト三国の帰りにフィンランドからフィンエアーに乗る時に、同じ飛行機に乗る日本人留学生の女と出会った。その時に出会った女の子がお母さん宛にプレゼントするカバンを持っていて、それがマリメッコ製だったのでそれ以来憶えたのである。

フィンランドに行ったものの、その女の子との絡みが無ければマリメッコなど未だに知らなかっただろう・・・

東郷どん
東郷どん

肩触れあうような出会いも、後々どうなるか分からんでごわす!

 

 

照国神社へ向かう!

鹿児島市内の照国神社を目指す

今日でホテルはチェックアウトだったので荷物はとりあえずホテルに預けて、まずはホテルから歩いて5分ほどの距離にある照国神社へと向かう。この照国神社へは3日前鹿児島に到着した時にやって来たけど、その時は神社内にある資料館が閉まっていたので、今日はそのリベンジも兼ねている。

 

 

鹿児島市内の照国神社に到着

こちらは鶴丸城があった旧二ノ丸内に造られた「照国神社」の境内。神社中央には鶴の形をした木が植えられているが、これは島津家の居城だった鹿児島城が”通称:鶴丸城”と呼ばれていて、鶴が羽を伸ばしたような形の城下町を形成していたから。なのでそれに関連して、この木は鶴の形に刈り込まれている。

 

鹿児島市内の照国神社横に見える城山

そしてこちらも3日前に来た時に、夜になりつつある時に登山道を登ったので途中真っ暗だった城山。明治10年(1877年)に勃発した西南戦争で薩摩軍が陣を敷いていた城山は、その激戦地にもなった場所。その薩摩軍の総大将だった西郷隆盛は、西南戦争の終盤に敗北を悟り、この城山の反対側の洞窟で自決するのであった。

 

鹿児島市内の照国神社脇にある島津斉彬公の像1

照国神社とそんな城山の間には、島津家の江戸時代後半~明治時代にかけて活躍した偉大な人物の像が3体置かれている。その中でもボクが今回鹿児島を再訪する動機となった、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬の像がこちらである。

 

鹿児島市内の照国神社脇にある島津斉彬公の像

去年(2019年)に鹿児島を始めて訪れた時に島津斉彬の存在すら知らないままに、世界遺産となっている仙厳園を訪れた。そしてその時に初めて島津斉彬という藩主の存在を知り、近代日本に進むキッカケを作ったとされている歴史などをかじった。その後に鹿児島編の旅行記を作成する毎に島津斉彬について興味が出てきて、今回は島津斉彬の事をもっと知る旅にしようと思ったのである。

 

 

鹿児島市内の照国神社脇にある島津斉彬公の像のアップ

だから前回鹿児島を訪れた時はこの照国神社には来なくて、ここに島津斉彬の像があるという事も知らなかった。だから今回はこの鹿児島に着いてすぐにこの照国神社を訪れた訳だが、この像の手前にある階段が工事中だったので、この像の目の前までは近寄れなくて、遠目に撮った写真。

 

鹿児島市内の照国神社の様子

3日前に訪れた時は「なんでこんな鶴の形に、木が刈り込まれているのだろう??」と思ったけど、鶴丸城とも呼ばれていた鹿児島城に由縁があったのだ。なんでも歴史を知れば知る程に楽しく感じる。

黒ブタ子
黒ブタ子

まるでスルメを食べている気分やね、アレ食べると止まらんブヒ!

 

 

照国神社内の照国文庫資料館にて

鹿児島市内の照国神社にある資料館

こちらの建物は照国神社の敷地内にある「照国文庫資料館」。普通神社内にはあまり資料館なんて見ないので、こんな立派な資料館があるなんて、全然知らなかった。もし3日前に訪れた時に閉館していたこの資料館を見ていなかったら、この時も素通りしていたかもしれない。

 

 

鹿児島市内の照国神社内の資料館へ

そしてこの資料館が凄い所はこの照国神社に祀られている祭神:島津斉彬公に関わる資料などが盛り沢山で、しかもそれらがナント無料で見れるのである。普通なら200円程入場料を徴収しそうな資料館なのに無料で入れて、それで年中無休(12月31日のみ休館日)で、9時~16時まで開館しているのだ。

 

鹿児島市内の照国神社内の資料館への入口

まずは入口を入るとそこにモニターがあり、約5分程の島津家系譜を簡単に紹介する動画が流れる。この動画も簡易なものではなく、一応名は知らないけど若手俳優のようなお兄ちゃんを起用して、それなりの動画に仕上がっている。

 

鹿児島市内の照国神社内の資料館への入口1

島津家は元々源頼朝の落とし子という説もある島津忠久が12世紀後半から、脈々と九州南部で続いてきた藩主の家柄。昔から武勲に優れた人物を輩出してきた地域であり、また関ヶ原の戦いでは敗北した西軍に所属しながらも、徳川家康と上手く和睦して領地の取り上げを巧みに交わした。そして江戸時代となり初代薩摩藩主:島津忠恒(家久)から最後の藩主となる第12代藩主までの時代の中でも、当時のお金で約5,000億円とも言われる大借金を抱える事となる第8代藩主:島津重豪の存在が、その後の島津家に大きな影響を与えた。

東郷どん
東郷どん

島津重豪公の存在無くして、島津斉彬公は無かったでごわす!

 

照国神社内資料館にある、島津斉彬公の肖像画

そしてこちらがよく見える、島津斉彬公の代表的な肖像画である。なおこの資料館内に展示されている肖像画や書物などの大半は複製品だが、島津斉彬公を勉強する施設としてはここが一番揃っているのではなかろうか。

東郷どん
東郷どん

おいどんもここに行きたか~~!

 

照国神社内資料館の内観

今の現代人にとってはあまり重要なものでなくなった家系図だけど、昔は家柄が何よりも大事にされていた時代。今みたいな皆に苗字がある訳ではなく、農民などには苗字すらなかった時代。そして島津家は全国の大名に比べて、その家柄で勝っていた点がある。というのも将軍の嫁(正室)を2度も輩出している事である。その将軍家と縁者になっただけで他の大名達から縁談が次々へと申し込まれたという。

 

照国神社内資料館の内観1

今回は島津斉彬公にスポットを当てて勉強しようと思っていただけに、この「照国文庫資料館」はまさに祭神として祀っている島津斉彬公に焦点を当てた資料館だったので、入るだけで思わずワクワクしてしまう。朝イチに訪れたので他には誰もいなかったけど、ここで約1時間滞在している間にやって来たお客さんはたった2組のみ。せっかくこれだけの資料が綺麗に展示されている場所に、全然人が来ないのが勿体ない。

せっかくこんな偉人達の歴史を勉強できる場所が、無料だというのに・・・

東郷どん
東郷どん

おいどんの資料館とかいらんたい、代わりに斉彬公の資料館に変えるでごわす!

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図

しかもこの暑い真夏だったけど、館内はキチンと冷房が効いていて涼しかった。では早速、そんな素晴らしい資料が展示されている照国文庫資料館を、じっくりと時間を掛けて見ていく事にします。

 

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図1

幕末の明治維新をリードしたと言っても過言ではない薩摩藩。そんな後期の薩摩藩を勉強する上で欠かせないのが、第8代藩主:島津重豪~~第12代藩主:島津忠義までの間。その期間の家系図が壁に描かれているが、これは全員分ではなく、その中でも一部である。島津重豪は87歳まで生きるという当時では大往生な人生だったが、それまでに実に25人もの実子をもうけている。ただ島津斉彬も11人の実子(男:6 女:5)をもうけたが、その男子6人は全て5歳までに亡くなっている。当時は現代とは違って成人まで生きれる割合がとても低かったのである。

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図の重豪

江戸時代中~後期の島津家の巨人だった、第8代藩主:島津重豪。87歳まで生きただけあって、精力も絶倫だったらしい。生涯で25人の実子をもうけたが、最後の子供が生まれたのは重豪が72歳の時である。なおその時には曾孫である島津斉彬は既に13歳の頃だという。そして島津重豪の娘である茂姫(のちに広大院)は幼い頃に婚約していた事もあって、第11代将軍:徳川家斉の正室となる。

だが外様大名が現役将軍の”義理の父”という当時としては前代未聞な事態に、権力構造の乱れなどの世間体を考えて島津重豪は自ら隠居を願い出る。しかし隠居はしたものの、この後も藩政は島津重豪が亡くなるまで、裏で実権を握り続けたのであるが・・・。

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図の斉宣

その島津重豪が隠居した後に藩主に就任したのは、島津重豪の長男である第9代藩主:島津斉宣。元々苦しかった薩摩藩の財政は、島津重豪が藩主の時代に色んな物に手を出した結果、右肩上がりで増えていった。そして藩主となった島津斉宣に圧し掛かった赤字財政の解消であったが、色んな策に手を付けたが最終的に父である島津重豪が行った方針を取りやめにする事を決意する。

するとそんな自分の政策に反対を表明された島津重豪の逆鱗に触れて、その反対政策に関わった人物を処刑(処刑者だけで100人を超えていたと言われる)や島流しにして、島津斉宣を隠居に追い込むのであった(文化朋党事件)。なおこの第9代藩主:島津斉宣の時代から、その後に続く島津斉興・島津斉彬と3人続けて「斉」の名前が付く事になる。これは今みたいに親の名前の一部を引き継いだ訳ではなく、時の将軍:徳川家斉の名前の一部を貰って付けた為である。

 

【「近思録崩れ」や「文化朋党事件」とも言われる島津斉宣が隠居に追い込まれる事件で、斉宣が江戸幕府に願い出ようとしていた案件】
・①江戸幕府から15万両(約150億円)を借り入れる
・②参勤交代を15年間免除してもらう
・③琉球王国を通じての中国貿易の制限を外して拡大してもらう

江戸時代にはどの藩も財政的に苦しんでいた時代で、薩摩藩だけ特例としてこれらの請願がまず認められる見込みがなかった。特に「②参勤交代を15年間免除してもらう」は参勤交代が諸藩の蓄えを無くす事が目的で行われていた施策であり、他の大名達も苦しいながらも行っている訳で、それを薩摩藩だけ特例で免除せよと江戸幕府に申し立てても笑い者にしかならない可能性が大であった。

東郷どん
東郷どん

斉宣殿はこんな苦肉の策を申し出ないといけない位に、困窮していたでごわす!

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図の斉興

そして1809年に島津斉宣の長男(嫡男)である島津斉興が第10代薩摩藩主として就任する事になるのであるが、薩摩藩の実権はまだ島津重豪が握っていた。そしてこの島津斉興の時代は当主の斉興と、隠居した重豪と斉宣の3人が江戸のそれぞれ別宅に住んでいた事もあって、藩財政は更に逼迫していく。島津重豪が藩主になる前から島津家には借金があったが、その頃で約30万両(約300億円)だったものが、この島津斉興が当主になった時代にはその借金が約100万両(約1,000億円)まで増えて来ていた。

斉興公も藩主になったものの、借金地獄の日々で喜ぶ事も出来なかっただろう。。

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図の斉彬

そしてどうしても必要な軍用金などは高利貸しなどから無理やり借りた影響もあって、借金は複利が付いて雪だるま式にドンドンと増えていく。そうして島津斉興が当主になってから約20年後には、その借金は約500万両(約5,000億円)にまで膨らむのである。だからその状態で家督が島津斉彬にもし渡っていたとしたら、今歴史上に残る日本近代化へと近づける集成館事業など全く出来なかった訳である。

東郷どん
東郷どん

しかしこんな500万両もの膨大な借金を1代で完済するなんて、どんな魔術を使ったでごわすか?!

 

照国神社内資料館にある、島津家の系譜図の篤姫

そしてこちらはNHKの大河ドラマ『篤姫』でも有名である、島津斉彬の娘「篤姫(のち天璋院)」である。しかし正確には島津斉彬の娘ではなくて、実は今和泉島津家の当主:島津忠剛(島津斉宣の7男)の長女として生まれている。島津重豪の娘:茂姫が将軍:徳川家斉に嫁ぎ、その家斉は長生きして更に子沢山(総勢55人も子供を作ったという)だった。将軍家側でそれに願をかけて正室を失った第13代将軍:徳川家定の正室を、島津家から迎えようとしたという。

そんな誘いがあった島津斉彬は半分以上が亡くなった実子ではなく、体が幼い頃から健康だった従妹の篤姫を推薦した。しかし将軍家に送るにはまず当主の子供でないとまずいので、一旦島津斉彬の養女となる。そして次は将軍家の正室となるには大名の娘でもダメで、五摂家(藤原氏流の公家柄:近衛家/九条家/二条家/一条家/鷹司家)宮家(皇族)の娘でないといけなかった。なので親戚にあたる近衛家の養女になった後、将軍家へと嫁いだのである。

東郷どん
東郷どん

当時はまだ家柄が重要視されていた時代でごわす!

 

 

照国神社内資料館にある、島津家の重豪の肖像

左:島津重豪と右:島津斉宣の肖像画。実の親子でありながら島津重豪は息子である斉宣が行おうとした失策に激怒して、藩主の座から引きずり落とすのである。その後隠居の身となった島津斉宣は幕府に薩摩国への帰国を上申するものの、1回も認められる事は無く江戸の屋敷で一生を終えるのであった。そしてその裏では将軍家へ嫁いだ島津重豪の娘である茂姫が、斉宣が薩摩国へ帰るとまた「近思録」の考えの者と結託して反乱を起こすのを危惧した為とも言われているそうだ。

 

照国神社内資料館にある、島津家の斉興の肖像

こちらは左:島津斉興と右:島津斉彬の肖像画。この親子もあまり関係が良くなかったようで、島津斉興からすると何とか奇策で莫大な借金を帳消しになる程に返済し苦労をしただけに、祖父:島津重豪のような西洋かぶれの考えをして浪費家の匂いがしていた斉彬を好ましく思っていなかったようだ。島津斉興は当主としては当時高齢にも関わらず家督を斉彬に譲らなかったが(のちに家督に譲ったのは60歳の時)、江戸幕府を通じて無理やり隠居させられる事になる。

東郷どん
東郷どん

我が主:斉彬公は、この斉興に毒殺されたという説もあるでごわす!

 

照国神社内資料館にある、島津家系譜

島津家は昔から武勲に優れていた家系だけど、この第17代目当主:島津義弘は特に猛将として有名である。関ヶ原では西軍についたものの、天下を取った徳川家康に対しては自分が隠居して嫡男に家督を譲り、臣下の姿勢を見えて領地は安堵された。ちなみにその時に島津義弘が隠居して暫くの間引き篭もり状態をしていた家が、一昨日訪れた桜島に残っている。

 

 

照国神社内資料館にある、島津家の品々

島津斉彬が祭神として祀られている照国神社の資料館の始まりは、やっぱり偉大な曾祖父の島津重豪コーナーから始まる。それだけ偉大な人物だったのもあるが、この島津重豪が小さい頃に教育を受けたという義理の祖母「竹姫」の影響が大きかったとされている。この竹姫は第5代将軍:徳川綱吉の養女(のちに第8代将軍:徳川吉宗の養女ともなる)だった江戸文化・教育を知っている人物だった。だから島津斉彬は幼い頃から島津重豪に可愛がられて寵愛を受けて育ったが、そのルーツはこの竹姫からの教育が影響していたという。

 

照国神社内資料館にある、島津家の品々1

なおこの竹姫は嫁いだ先で2人も主人を失い、挙句の果ては吉宗が手を出していたと噂されていて、更に36歳という年齢もあって断られ続けて、さすがに引き取り手がなかったという。そんな中、近衛家と婚姻関係にある島津家に無理やり頼み込み、第5藩主:島津継豊の継室に収まる事になった。

そんな竹姫の影響もあって薩摩の田舎の教育ではなく、先進の江戸教育を学んだ島津重豪は薩摩弁を田舎っぽいと嫌ったと言われている。そして吉宗の時代になって許された蘭学書物などの虜となって、西洋文化に没頭していくのである。

 

島津重豪の肖像画

こちらは島津重豪の肖像画(複製)。こういった歴史を見ていくと教育というものの大事さが分かる。現代のように好きな学校を自分で選べる時代ではなくて、当時は結婚相手すら幼い頃に決められていて、無論教育など選ぶ余地もない程に叩き付けられていた時代。このように島津斉彬に注目すると、その思想に影響を与えた人物(島津重豪)、そして更にはその人物に影響を与えた人物(竹姫)と興味が広がっていくのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ

↓↓↓↓九州縦断旅行記:初回↓↓

【九州縦断旅行記】小倉から始まり、別府~熊本~鹿児島~桜島と巡る!
2020年8月の炎天下の時期に訪れた九州。まずは小倉で以前バルト三国旅行で知り合った”エロ坊主オジサン”と再会し、門司港へと連れて行ってもらいます!
タイトルとURLをコピーしました