九州縦断旅:鹿児島編
旅行期間:2020年8月中旬~下旬
日本医学の父と海軍カレーの父
2020年8月という真夏の時期に訪れた鹿児島県。福岡の北九州から始まった今回の旅は九日目を迎えて、今日が最終日です。という事で飛行機の残り時間まで存分に、ここ鹿児島の勉強をまだまだしていきます。
歴史資料センター「黎明館」にて
という事で前回に引き続き、歴史資料センター「黎明館」での勉強を続けます。鹿児島は幕末から明治時代に日本国内でも最先端を走っていた地区なので、その時代に色んな偉人を輩出しており、鹿児島の歴史は非常に勉強し甲斐があります。
近代日本の文明の展示
こちらには船の模型が展示されているが、船の模型がメインではなくて、ここではそんな船が陸に揚がっているのがポイントである。こちらは「小菅修船場跡」という長崎の小菅町にあった、”日本初の西洋式ドック”である。薩英戦争の時にイギリス海軍の捕虜となった五代友厚は、その捕虜となった身から犯罪者のような烙印を押されて、鹿児島の地を追われて長崎へ退避する。そこでグラバー氏と出会い、一緒に仕事の手伝いをする事になる。
そしてグラバー氏と仲良くなり西洋の情報を収集し、西洋技術を取り入れたかった薩摩藩の家老:小松帯刀を引き合わせ、明治元年(1868年)にこの「小菅修船場跡」が造られる事になる。翌年には明治政府が買収して長崎製鉄所の付属施設となり、その後に三菱所有と移り変わり、現在の三菱重工業長崎造船所の基礎となった。今では世界遺産『明治日本の産業革命遺産』の構成施設の1つともなっている。
薩英戦争で捕虜となってしまった五代友厚は、薩摩藩では戦犯的な扱いをされて長崎へ逃げる。しかし長崎でスコットランド出身の商人:トーマス・グラバーとの出会いが、彼の運命を大きく動かす事になる。その後何とか薩摩藩に戻る事が許されてから藩主に”薩摩藩遣英使節団”として数名の若者たちとのヨーロッパ留学を上申する。それが認められてグラバーの船に乗り込み、イギリスに向かって密航しヨーロッパで学ぶ。その経験を生かして帰国してからは実業家として手腕を発揮し、現在の大阪証券取引所や大阪商工会議所や大阪市立大学などを設立し、日本近代化に大きく貢献した人物である。
友厚は頭が良くて、妥協せずにブレない信念を持っていたでごわす!
明治維新によって一気に西洋の近代化の流れが流入してきた日本では、ヨーロッパ留学組が大きく日本を変えていった。それらの人物のおかげで日本は欧米列強国の植民地とならず、自立できる国として日本を形成していったのである。アジア諸国の大半は植民地になったが、日本は植民地になる前に大きく近代化の手を打っていたので、それを回避できたのであろう。
こちらの吉原重俊は五代友厚が提案した薩摩藩遣英使節団に続く、第2回目の留学である”薩摩藩第二次米国留学生”としてアメリカに密航して留学した人物。吉原重俊はアメリカのイエール大学に”日本人初の留学生”として入学し、政治や法律学などを学んだ後に帰国して外務省などで働き、明治15年(1882年)に日本銀行が創立されると日本銀行:初代総裁に任命されるのであった。
次は蒸気機関を動かそうとしている人達の模型が置かれている。薩摩藩で島津斉彬公の時代にオランダ人が書いた蒸気機関の技術書を入手し、それを翻訳して蒸気機関の国産に当たらせる。しかしその技術書だけを参考にしての蒸気機関の開発は難航し、手探り状態の失敗を繰り返しながらもなんとか作り上げる事に成功する。そして1855年にジョン万次郎の指南を受けて造られていた「雲行丸」に蒸気機関を取り付けて、”日本初の国産蒸気機関船”を作り上げたのである。
しかしそんな試みも島津斉彬公の死去と共に崩れ去り、結局は日本で船を新たに開発するよりヨーロッパ諸国から買った方が総合的にメリットがあったので、軍艦などは海外から購入されるようになっていく。
こちらの石河確太郎は奈良県出身の蘭学者である。島津斉彬公が西洋の生糸を入手してその繊細さに驚き、このような生糸を造る事に決める。しかし国内にはそんな西洋生糸について理解できるものがいなかったので、蘭学者の石河確太郎を呼び寄せて、西洋生糸と一冊の洋書を渡して解明を依頼したのが契機となり集成館事業に大きく携わる事になる。
そして五代友厚がヨーロッパに留学した時に紡績機械を購入し、それを日本に持ち込み紡績工場を造って稼働させる。そして造った生糸を海外へ輸出して対価を稼いで利益を上げて、そのお金で南北戦争が終結した後に余った武器や弾薬などを買い込んで、それが後の日清戦争や日露戦争へと繋がっていくのでもあった。
このように島津斉彬が藩主になってから取り組んだ、近代日本化の先駆けである集成館事業には、多くの蘭学者が登用されて初めて取り組む技術に邁進していったようだ。その多くが説明書もどきの本だけを渡されて「じゃあキミ、これを作りなさい。必ずやで!」と言われていたのだろう。。
西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり。 屈することなく研究に励むべし!
by 島津斉彬
でもこれだけ日本で初めて取り組む技術ばかりを何個も同時に開発していってそれなりの成果を上げたのは、勿論その技師達の努力の何物でもないけど、それを引っ張った強いリーダーシップを発揮した島津斉彬公の影響が大きかったのだろう。
斉彬公じゃなきゃ、アレだけの事業は叶わんかったでごわす!
そんな島津斉彬が集成館事業で真っ先に取り組まさせたのが、高熱を利用して鉄を溶かして、その溶かした鉄で大砲を鋳造するこの反射炉と溶鉱炉であった。今までは大砲なども青銅などの材質に頼ってきたけど、コストが高くついて大量生産出来なかった為に銑鉄を溶かして鉄を作りだす事が先決だった。
今の仙厳園内に跡地だけが残っている反射炉は、1号炉と2号炉が造られたという。そしてこの時に日本の近代化に大きく舵を取っていた佐賀藩は既に反射炉を完成させており、それに対抗するように上記の言葉を吐いて、開発者たちのモチベーションを上げた島津斉彬公。
この反射炉や溶鉱炉などの開発は、海外で開発された物と同じ道具を使って説明書を見て組み立てる訳ではなくて、簡単な説明書を渡されてそれを見ながら自分達で道具を一から造り出さなければならなかった。だから何回も何回も失敗しながら、それぞれの失敗の原因と、それを改善する為の方策を何度も練り考えながら牛歩のように開発が進んで行ったのだろう。なお佐賀藩では18回ほどの試作を行った末に、反射炉が開発されているという。
反射炉では高温で鉄などの原料を溶かす為に、その高温に耐えれる煉瓦を自分達で開発しなければならなかった。何度も何度も作り直して改善しての繰り返しだった。そしてこの煉瓦は1個の重さが5~10kgもあって、これが何千個と積み重ねられるので下の土壌があまり固くなくて煉瓦の重みで崩れたりという事もあったそうだ。
こちらの西洋式礼服は薩摩藩士だった松方 正義が、実際に着用した礼服だという。この松方正義とは大蔵省官僚として明治初期に近代化日本に貢献した人物で、初代大蔵大臣になった人物でもあり、その後は第4代&第6代と2期に渡って内閣総理大臣を務めた人物でもある。
松方正義は大蔵省時代に西南戦争での財政問題で大隈重信と対立し、そこで大蔵省を去り、単身フランスに渡る。そのフランスで日本が発券を独占する中央銀行を所有すべきと教えられ、また当時のヨーロッパ社会が銀本位制から金本位制に移り変わっていたので日本も金本位制を取り入れる事にしたのである。
そんな松方正義は大久保利通の推薦もあって、大蔵省官僚の要職へと推挙される。そしてこの黎明館の隅っこには、申し訳なさそうに大久保利通の銅像が置かれていた。人の評価というものは、時代毎によって大きく異なる。そこには単にその人物が成し遂げた業績だけではなく、人格や考えなども加味されてくる。例えばコロンブスは昔は新大陸を発見した英雄として長年褒め称えられてきたけど、近年はその後に現地民を大量虐殺した件が大きく取り沙汰されて英雄視されない時代となっている。
上の写真の銅像は、甲突川沿いに設置されていた大久保利通像のミニチュアだった。しかも中村晋也というと、この黎明館前に造られていた篤姫の彫刻もこの中村晋也氏の作品だし、JR鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」も中村晋也氏の作品である。
そんな中村晋也氏がアトリエとして活動している場所(鹿児島)の横には、「中村晋也美術館」が造られているという。JR鹿児島本線上伊集院駅から徒歩でも行ける場所みたいなので、次に鹿児島に行った際には是非寄りたい場所を発見です。
という事であまり写真には撮れないものもあったけど、それなりに満足して黎明館を出る。すると玄関近くに何とも豪華な籠が見られる。煌びやかな外観をしているので大名クラスしか乗れないような籠に見える。
その籠の前にはこのような看板があって、大河ドラマ「西郷どん」の時に篤姫が江戸幕府将軍家に嫁ぐ際に使用されたものらしい。
大河ドラマなんて殆ど見た事が無いので、全然分かりません・・・
なぜ大河ドラマ「西郷どん」を見てないでごわすか!(怒)
こちらの籠は女性用だったので、これだけ煌びやかな外装に塗装されていたようだ。普通の大名に嫁ぐわけではなくて将軍家に嫁ぐわけだから、実際にはかなり華やかな籠が造られたのであろう。
そして鹿児島城御楼門の外に出ると、さっき黎明館の中にいた高校生たちが小学生たちの相手をしていた。そんな教える立場になっていた高校生たちだけど、この機会が初めてだったからだろう、とても不慣れな感じで小学生たちに喋りかけていたのを鮮明に覚えている。。
「時標:ウィリス医師の像」を見学
そして黎明館を出て、島津家のお墓がある北側へ行こうと思って対角線側の歩道に渡ると、観光オブジェとして造られている『時標(ときしるべ)』の像が見えてくる。
なおこの時標の銅像は鹿児島市内に合計7箇所設置されているが、これで7個目をコンプリートです!
こちらの銅像の題目は「ウィリス、高木に西洋医学を説く」である。このウィリスとはウィリアム・ウィリス(William Willis)というイギリス人医師で、幕末の日本にやって来て近代医学を日本国内に広めた先駆者である。最初は江戸の高輪に駐在しており、薩英戦争のキッカケとなる生麦事件では真っ先に現場に辿り着き、イギリス人負傷者の手当をしたという。
ウィリス医師は新政府軍が設立した現在の東大病院で教壇に立ち、近代医学を日本に広める事に尽力した。その後の1870年には西郷隆盛などに招聘されて、今の鹿児島大学医学部などを創立して単なる医学だけではなくて、公衆衛生や予防学など幅広く教えた。その頃に入学してきた高木兼寛の才能に注目したウィリスは、彼を教授に抜擢した。
このウィリス医師は日本の医学界にとても貢献した人物であったが、西郷隆盛と仲良くしていたのもあって西南戦争後に日本に戻ってくると雇い主が現れなかったそうだ。当時の日本では新政府軍に反乱を起こしたとして、西郷隆盛は朝敵とされていたので日本国内での雇用は煙たがられたという。
ウィリスさんには弟が首を撃ち抜かれた時に、治してもらったので恩人でごわす!
薩摩藩の軍医として活躍した高木兼寛はその後イギリスに留学して、外科・内科・産科などを学んで帰国。その後は海軍での軍医責任者として活躍し、日本で初めての博士号授与者の1人となるのである。なお高木兼寛は当時の海軍で流行っていた「脚気(かっけ)」というビタミン欠乏症による心不全と末梢神経障害をきたす病気対策として、洋食のカレーライスを海軍で普及させて、脚気の症状が激減したという。その脚気対策に出したカレーライスが、海上自衛隊内で未だに続く「海軍カレー」の発祥となっているようだ。
このように街中に建っている銅像について調べるだけで、大いなる歴史を勉強する事が出来た。元々こういう銅像を造ろうという事になったキッカケは、この偉大な先人たちの歴史を忘れずに後世に語り継ぎたいという想いの結晶でもあるのだ。
こういう銅像に出会えて、幸せです!
ウィリスさんはメチャメチャいい人やったでごわす!
福昌寺跡へ向かう
さてそんな「道標」銅像のコンプリートを達成して、意気揚々と次の目的地である「福昌寺跡」へと勿論徒歩で向かいます。黎明館付近からだと歩いて約20分程の距離なので、ちょうどいい運動になりそうです。
これから向かう福昌寺跡は歴代薩摩藩主の菩提寺になっている寺だったけど、明治時代に起きた廃仏毀釈で廃寺となってしまっている。でもGoogleマップで調べるとお墓の写真が出てきて、参拝が可能みたいだったので向かう事にしたのである。
とりあえず頭の中の地図を頼りに進んで行くと、このように「福昌寺跡」と文字が入った看板を発見する。
さてそんな福昌寺跡の様子はまた次回に続きます!
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