147年ぶりに復元した鶴丸城「御楼門」と、西南戦争で被弾した石垣

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

薩摩藩の歴史が垣間見れる場所

鶴丸城跡地にある黎明

今回の九州旅は最終目的地の鹿児島まで来ています。今日の午後に鹿児島に到着してから、近くのホテルにチェックした後に鹿児島市内にある薩摩藩の居城であった鶴丸城跡地を散策します。

 

 

 

鹿児島市内にて

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣

この鹿児島は火山が昔から多かったので、火砕流堆積物が自らの熱と圧密で溶けて固まった溶結凝灰岩が多く広がっているという事が、この案内板に書かれていた。同じ日本の土地でもその地方によって様々な歴史による特徴があるので、一概に日本全国の土は均一ではなくて、このように鹿児島では火山が多い鹿児島らしい土地となっているようだ。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣の説明

鶴丸城跡地の正面には、このような城の土台に造られた石垣の断面図のようなオブジェが置かれていた。昨日熊本城でも勉強したように、外側から見ると大きな岩を積み重ねているだけのように見えてしまうけども、このように石垣の内側には「裏込め(栗石)」が配置されている。この裏込めとして使われている石が、背面の水通りを良くして掛かる圧力を逃がしているという、日本古来から伝統的に続く建築技法だという。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣の説明-1

この鶴丸城ではこの「金場取残積み」という石材の縁を削って積み重ねる技法が使われているそうだ。全国の城跡に石垣も全部同じように見えるけど、よ~~く見てみるとこのようにそれぞれに地方の独自性が出ているようだ。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣の説明-2

こちらはそんな技法とはまた別の「亀甲積み」で、文字通り亀の甲羅のように石を六角形に削り積み重ねたもの。ただこの案内板の写真を見る限りは、綺麗な正六角形の形に削っている訳ではなく、大雑把な六角形に削っているようにも見えるけど。。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣の説明-3

なかなかこのような石垣の断面図は、見る事が出来ないので勉強になる。地震が多く雨もそれなりに降る日本で石垣を築くには、単にデカイ石をパズルのように積み重ねるだけではなく、このように小石も使って石垣に掛かる圧力を分散させる必要があったようだ。また石垣の角度も敵が侵入しにくいように垂直に近い角度をすれば、逆に石垣に掛かる力が分散されなくて倒壊しやすい。石垣の裾部分を広げるような角度が緩い石垣の方が圧力を分散できるので、石垣が倒壊する可能性が低くなるという。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地前に造られている石垣の説明-4

こちらの「算木積み」は石垣の角の強度を高める為に、煉瓦のように大きな長方形の岩を交互に積み重ねていく方法。ただし煉瓦とは違い、こちらは石を積み重ねただけで、それぞれの石を接着はしていない。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地向かいにあった看板

この島津家の居城だった鶴丸城跡地の道路を挟んだ向かいには鹿児島合同庁舎があったけど、この時は工事中で足場が組まれていた。そんな殺風景な景色を誤魔化すべく、このような有名な薩摩藩士達の絵が書かれていた。薩摩藩主12代の中でも未だに人望が多い島津斉彬公は、薩摩藩主の象徴的存在である。そんな島津斉彬公が見出した大久保利通が隣に描かれている。

 

鹿児島市内の鶴丸城跡地向かいにあった看板-1

こちらの壁には大久保利通や西郷隆盛や天璋院篤姫なども描かれているが、それぞれ島津斉彬公がいたからこそ陽が当たった人物たちばかり。西郷隆盛はそんな君主である島津斉彬公の事を雲の上のような存在に思っていて、島津斉彬公が急死した際には「自分も自害する!」と言って後を追いかけようとしたそうだ。

東郷どん
東郷どん

まさに明治維新の影の立役者とも言える存在の島津斉彬公でごわす!

 

 

鶴丸城の正門「御楼門」にて

鹿児島市内の鶴丸城跡地正面

さて鶴丸城跡の正門である「御楼門(ごろうもん)」が見えてきました。この時は全然新しく再建された建物とは知らなかったけど、実はこの訪問の約4カ月前の2020年4月11日に一般公開されたもの。1873年(明治6年)に起きた火災によって鶴丸城本丸と共にこの御楼門も焼失してしまい、それ以来147年ぶりに復活した城門である。

 

 

鹿児島市内の鶴丸城の説明-2

普通城というのはちょっと小高い場所にあって、遠くが見渡せてかつ敵の侵入しにくい高台に造られる事が多い。だけどこの鶴丸城は背後に城山があったけど、その城山の上に城を造らずにその手前の平地に造られた「平山城」であった。防御面としては弱いけども、上まで登らなくていいので利用する人達からは便利で機能重視の城だったのかもしれない。

 

鹿児島市内の鶴丸城前に設置された島津家の旗

こちらの島津家の家紋マークは、鹿児島市内ではよく見かけるものである。島津家の家祖である島津忠久は平安時代末期~鎌倉時代前期にかけて活躍した武将で、それ以来島津家は代々約700年間この鹿児島地方を治めてきたのである。なおこの島津忠久は一説には源頼朝の落とし子ともされていて、島津家は源家の末裔であるともされている。なので島津斉彬公も書道などで残した作品に、「源〇〇」とサインを残しているものもある。

 

鶴丸城正面に復活した「御楼門」

19時頃だったので御楼門は、ややピンク色したライトが照らされていた。そんな城門だけでなく、手前の内堀に埋め尽くされるように咲いていた蓮の葉までライトアップされていて、なんとも幻想的な雰囲気が漂っていた。

 

鹿児島市内の鶴丸城の説明

明治6年に焼失してしまった城門だけど、その当時の現存している写真や残された資料などを参考に、限りなく当時の姿を再現して造られているようだ。簡単に城門1つ再現するだけでも多くの手間や費用が掛かっている。なお、この御楼門を復元する作業では、総事業費10億9千万円の費用が掛かっており、その中で民間からの寄付は約6億2千万円も寄せられたという。

 

鶴丸城正面に復活した「御楼門」-1

熊本城でもそうだったけどお城の復元には多額の費用が掛かるけども、地元に住む人達によってはそんな城の復元が地元のシンボルとなってアイデンティティーの源でもあるのだろう。だからこれだけ巨額の寄付金が集められたようだ。

 

鶴丸城の石碑

こちらは「史跡 鶴丸城跡」の石碑があって、側面には「第七高等学校造士館跡」という文字も見える。「藩校造士館」は第8代薩摩藩主:島津重豪が教育の重要性を認識して1773年頃に創設したもの。1871年の廃藩置県でこの藩校造士館も廃止されてしまったが、当時の藩主島津忠義が祖先からの想いを引き継ぎ「鹿児島県立中学造士館」として存続させ、1901年(昭和34年)に新たにこの場所に「第七高等学校造士館」が設立された。その後第二次世界大戦中の空爆で校舎が全焼したりして、鹿児島大学が新たに設立されたのを機にその役目を譲って1950年に廃校となった。

 

 

鹿児島市内の鶴丸城の説明-1

この鹿児島城とも呼ばれる鶴丸城は、この城門側から見ると鶴が翼を広げたような形をしていたそうだ。それもあってさっき見学した照国神社内の中央に置かれていた木の形「斉鶴」が、翼を広げた鶴の形になっていた訳であった。

 

鶴丸城正面に復活した「御楼門」-2

そしてライトアップされている、まだ出来たばかりで新しい御楼門をくぐろうと思ったけど、残念ながら「立ち入り禁止」の看板と柵が置かれていて、閉門時間となってしまっていた。。

なので仕方なしに、とりあえず御楼門をもう少し眺めます・・・

 

鶴丸城前にあった看板

この案内板には「薩摩は城を持って守りと成さず、人をもって城と成す」という名文句が書かれている。島津家77万石の大名であったにも関わらず、天守閣を持たない城だった鶴丸城。ただしこの77万石というのも米の籾(もみ)まで含めた数字だったらしく、さらに沖縄地方まで含めた数字だったので、実質の米高は半分くらいにしか過ぎなかったとも言われる島津家。

そして関ヶ原では西軍に加担した為に徳川幕府時代には頭が上がらない状況が続き、慢性的な赤字に陥る状況が長く続いた。そんな訳で常に質素な暮らしを奨励していた薩摩藩だけに、他の城に見られる殿様らしい豪勢な生活などする余裕すら無かったというのが本音なのかもしれない。

 

鶴丸城前の道

また薩摩藩は人口比率で他の地域と比べると、圧倒的に武士の比率が高かったので、昔から血気盛んで荒くれ者のイメージが強かったとされる鹿児島人。「人触るれば人を斬り、馬触れば馬を斬った」という言葉が残る位に薩摩隼人は蔑まれるのを嫌い、ちょっと肩がぶつかった位で刃物を抜いて斬りかかっていたとも一説には言われている。

鹿児島弁も他の地域では全然通じなかったので、江戸に住む藩主は江戸人を家来にしていた程らしい・・・

東郷どん
東郷どん

鹿児島人を「田舎人」と呼ぶと、斬りかかられるでごわすよ!

 

 

 

西南戦争の銃弾の跡が残る石垣にて

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」の景色

そんな鶴丸城本丸の北側には、このようなボコボコとした穴が見える石垣が残されている。こちらは明治10年(1877年)に起きた西南戦争の中心地となった、西郷隆盛が設立した私学校跡地の石垣である。今では「西南戦争の銃弾跡」として県の史跡に指定されている。

 

史跡【西南戦争の銃弾跡】

住所:鹿児島県鹿児島市城山町8

 

 

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」周辺の説明

明治維新の立役者でもあり功労者でもあった西郷隆盛であるが、明治政府との意見が対立し権力争いに負けて辞表を提出し、下野して鹿児島に戻った。静かに田舎で暮らそうとしていた西郷隆盛であったが、彼を慕う若者も一緒に帰郷して彼らの強い要望に負けて陸軍士官養成用の私学校を設立する。その後私学校はどんどんと増えて市内に10を越える分校ができ、県下にも136の分校が造られた。

 

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」の景色-1

そんな私学校に所属していた血気盛んな若者たちは自分たちが新政府軍によって虐げられているとだんだん不満が募り、それを重く見た新政府軍は鹿児島に備蓄していた銃や銃弾などをこっそりと運び出す。それに気付いた私学校側が激怒して新政府軍の武器庫を襲撃し、弾薬などを強奪した。そんな手が付けられない状況になってきたのを鎮火させる為に、新政府軍は水面下で西郷隆盛の暗殺を計画する。

 

 

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」の看板

しかしその暗殺計画は未遂に終わり、また私学校生徒達に実行犯が捕まって拷問を受けた挙句にその作戦を吐露してしまった。陰で新政府軍が敬愛する西郷隆盛を暗殺しようとしていた事を知り、それに激昂した私学校生徒達の怒りが最高潮に達し、打倒新政府軍を掲げた西南戦争が始まるのであった。「おはんら、何たることをしでかしたか」という西郷隆盛が残したとされる言葉にもある通り、この戦いは西郷隆盛が主導したというよりも抑えが効かなくなってしまった私学校生徒達の暴発的な戦いでもあったようだ。

 

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」の景色を眺める

そして明治10年に熊本城を舞台にして城に籠城する新政府軍と、鹿児島から出陣した私学校生徒達の薩摩軍との激戦が行われるのであった。しかし最新鋭の武器などを装備していた新政府軍がだんだんと攻勢になり、次第に鹿児島まで追いつめられる薩摩軍。最後にはここ私学校で籠城して戦い、これら石垣に残された穴はその際に打ち込まれた無数の銃弾跡である。

 

鶴丸城近くにある「西南戦争の銃弾跡が残る石垣」の景色を眺める-1

今でこそ平穏な日本であるがこの明治10年(1877年)に勃発した西南戦争が、日本での最後の内戦となっている。今となっては1つの県だけで新政府軍に立ち向かうというのはさすがに無茶にしか思えないけど、当時の薩摩藩はそれだけ日本国内でも大きく力があったという裏返しでもある。明治政府の閣僚の大半が薩摩藩出身だった事もあり、それだけに日本をリードしていた薩摩だったという自負もあったのであろう。

 

鶴丸城を眺める

この西南戦争時には既に武士が刀で斬りかかるという姿は見られなくて、それぞれに銃で撃ちあうという近代戦が行われた。この明治維新というもので日本は西洋文化を取り入れた近代化に舵を取り、今までの武士文化などを時代遅れの物と軽視し、全国に無数にあった城は廃城令によって消滅していくのでもあった。

 

鶴丸城跡地東側の道を進む

こちらは再び鶴丸城本丸跡地に戻って、本丸跡地に建っている黎明館の東側入口の道路。先月の大雨の影響か、それとも正面入り口を綺麗に整備したので、こちら側も新しく整備しているのかで工事中だった。

 

鶴丸城跡地東側

この時間には入口のゲートが閉まっていたけど、これが鶴丸城本丸跡地に建てられている黎明館。こっちの入口は何とも味気ないもので、ここが昔の本丸があった場所とは思えない所だった。。

 

 

 

「薩摩藩士碑」にて

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」の案内

そして黎明館東側の工事中の道路を進んで行くと、城山への登山道入り口のような部分に「薩摩藩士碑」と案内板が立っている場所を見つける。

 

 

 

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」の案内板

こちらに設置されていた石碑は、薩摩藩の歴史の中でも悲劇的治水工事となった”宝暦治水事件”で亡くなった犠牲者を弔うもので、1920年に設置されたようだ。この”宝暦治水事件”は1754~1755年に江戸幕府の命より、洪水などで氾濫して水害を起こすようになっていた岐阜県の木曽川/長良川/揖斐川の普請が薩摩藩に回ってきたものである。なおこの薩摩藩とはゆかりもない岐阜県の川の治水事業であるが、これは現代のように国や地方自治体からの金銭的な援助は一切なく、全ての費用を薩摩藩が捻出して人材から材料までを手配する必要があった。

 

 

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」

勿論薩摩藩からしたら一銭の儲けにもならない仕事である。では薩摩藩からしたら、「なぜそんな金を捨てるだけの工事を請け負ったのか?!」という疑問を感じる。江戸幕府に恩義を売っておけば将来的にメリットがあったのか?それとも岐阜の治水工事が完成した後は、その地方の米の1割でも儲けを貰えるからか?

答えは江戸幕府の力は絶対で、何があろうと逆らえなかったからです!

東郷どん
東郷どん

江戸幕府は各藩の蓄えを、徹底的に吐き出させていたでごわす!財力が無ければ反乱は起こせないたい!

 

 

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」の景色

この治水工事前の段階で島津藩には現在の貨幣価値で約500~600億円の借金があり、既にその時点で金銭的に苦しんでいた。だから薩摩藩側では家臣から「そんな無茶な工事の受注は、断固拒否すべきだ!」などと声があがったが、江戸幕府を敵に回して戦うだけの戦力も金もなかった薩摩藩はただ従うしか選択肢はなかった。

当時の薩摩藩では、まずはどこから金を借りるかと頭を悩ましたのであっただろう・・・

 

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」に近寄る

そしてこの治水工事は難航し、途中で造った堤防が数度も壊れて、当初の予定よりも長引く工事となる。しかも下手に江戸幕府側が仲介してきた為に工事は捗る事なく、逆に幕府側の仲介が工事を遅らし、それに抗議する行為として自害する薩摩藩士が出てきた。また工事作業員に赤痢が大量発生し、ただでさえ長時間労働&粗末な食事で体力が無かった工事作業員に打撃を与えて約30人ほどが病死した。

 

鶴丸城跡地東側にあった「薩摩義士碑」に近寄って眺める

合計1000人近い動員を掛けて約1年3ヶ月の歳月でなんとか治水事業は完了するものの、当初の予定よりもかなりの出費がかさんだ為にその責任を取って、治水工事の責任者である家老の平田靱負が自害した。その工事では100人近くが犠牲になっており、この「薩摩藩士碑」はそれら犠牲者を鎮魂する為の石碑である。

 

「薩摩義士碑」の墓石を眺める

その石碑を近くで見ると、それぞれに名前と日付が彫られているのが見える。「宝暦」とは1751~1764年間の元号で、宝暦4年(1754年)と宝暦5年(1755年)に亡くなった人達が、しっかりと刻まれていた。

 

 

 

「薩摩義士碑」の墓石を眺める-1

中にはこのように苗字はなくて名前だけしか彫られていない人もいて、それぞれに「〇〇君」と君付けで名前が彫られているのが見える。現代を生きる日本人にとって誰でも苗字があるのが当然になっているけど、実はこれは明治時代になってから全員に苗字が与えられる事になったからこその事である。なのでそれ以前のこの江戸時代には、身分の位が低い庶民は苗字を持っていなかったのである。ある程度の家柄を持つ家系じゃないと苗字が付けれなかった昔の日本であった。

 

この治水工事だけで約500億円もの費用が掛かり、それが薩摩藩に重く圧し掛かる。そしてこの治水工事が終わった直後の宝暦5年(1755年)の6月に、島津重豪が若干11歳で薩摩藩第8代藩主に就任する。最初からいきなりの借金地獄の藩経営に直面した島津重豪だけに、89歳で亡くなるまでに常に藩財政について日々改善を考えていた。

そういった環境下で藩財政の改革が必須課題であった薩摩藩が、調所笑左衛門の財政改革で大赤字を一転黒字に転換させ、後に贋金造りで隠れて貯蓄を行い、その潤沢な資金が最終的に江戸幕府を討幕する資金となっていったのである。

何とも江戸幕府にしては皮肉な話である・・・

東郷どん
東郷どん

「どげんかせんといかん」を合言葉に、きばった結果でごわす!

 

 

「薩摩義士碑」脇にある城山歩道入口の看板

そんな薩摩藩士の魂を鎮魂する薩摩藩士碑の脇には、こちらの「城山自然遊歩道入口」との案内が立っていた。ここまで来たら、西南戦争の戦場にもなった城山の上まで上がってみる事にする。

 

「薩摩義士碑」脇にある城山歩道入口を登る

今のスマホの性能だと暗闇でも結構明るく写真が撮れる。この時は19時過ぎで既に陽が落ちていて、黄昏時も終わりかけていた頃合いでかなり暗くなってきていた。しかし暗いからと言って歩みを止める訳にはいかないので、いざ足を進めて階段を登っていくのであった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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