島津斉彬公は愛した正室の英姫と睦まじく、福昌寺跡の墓地に眠る

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

斉彬公の睦まじいお墓

福昌寺跡の門前

さて鹿児島の旅は島津斉彬公のお墓を最後に見ておきたかったので、鹿児島市内にある「福昌寺跡」という島津家当主の菩提寺があった場所に残されている島津家墓地にやって来ています。

 

福昌寺跡にある島津家当主のお墓にて

福昌寺跡の景色

そんな「福昌寺跡」の門は閉められていたけど、参拝目的での訪問はOKな場所。ただし古い墓地なので当然だけど墓石や灯篭などは崩れる可能性があるので、触ってはいけない等のルールがあるので、最低限のマナーが守れる人だけ入りましょう。

 

福昌寺跡の島津家墓の案内図

さてここにやって来たお目当ては、勿論薩摩藩第11代藩主:島津斉彬のお墓を参拝する為である。幕末から明治に渡る日本近代化を引率する原動力となった人物で、また明治維新に大きく貢献する事になる西郷隆盛や大久保利通といった才能はあるけど下級の家に生まれた優秀な人物をうまく重用した、人材活用の優れた人物でもあった。

東郷どん
東郷どん

斉彬公が居なければ、おいどんはもっと早くに死んでたでごわす!

 

福昌寺跡の島津家お墓の景色

ここにあった福昌寺という寺はとても敷地が広くて、そんな境内に島津家の墓が安置されているので、島津家の墓地だけでもそこそこな敷地の広さであった。さすが島津家77万石とも言われる大名の菩提寺だけあった場所である。

 

 

斉彬の異母弟である島津久光の墓にて

福昌寺跡の島津家お墓の久光の墓

そんな島津家の墓の中でも正面中央奥に造られていて一番大きな墓は、島津斉彬公の異母弟であり、斉彬公亡き後は息子の第12代藩主:島津忠義のサポートとして実権を握っていた島津久光の墓である。この島津久光は”お由羅騒動”などで島津斉彬の君主の対抗馬として、担ぎだされる事になったが当の島津久光自身は異母兄である斉彬公をとても尊敬していたので、そんな対抗心は殆どなかったようだ。

 

福昌寺跡の島津家お墓の久光の墓1

そして斉彬公亡き後は父である島津斉興に閉められてしまった集成館事業だったが、斉彬公の意志を継いで再興して紡績工場などを再建した。そして斉彬公の目指した公武合体を継承し、西郷隆盛や大久保利通などを従えて明治維新に繋げる島津久光であった。

 

福昌寺跡の島津家お墓の久光の墓12

しかし島津久光自体にはあまり天下を取るという野心が無かった為に、江戸幕府から大政奉還を果たすものの、薩摩藩は廃藩置県により解体されてしまう。なお明治維新に貢献した西郷隆盛とは険悪な仲だったらしく、自分の言う事を聞かないとして常に腹を立てていたという島津久光。そして遂に堪忍袋の緒が切れた島津久光は、西郷隆盛を沖永良部島に流して牢屋に軟禁させるにまで至る。

東郷どん
東郷どん

結局久光公には、おいどんを使い切れる器量が無かったでごわす!

 

福昌寺跡の島津家お墓の久光の墓3

西郷隆盛や大久保利通などが明治維新に突っ走れたのは、島津斉彬公の死後に彼を尊敬していた島津久光の後押しがあったからでもある。斉彬公が亡くなった時にはまだ先代藩主:島津斉興が生きていたので、薩摩藩の実権は島津斉興が握っていた。それもあって斉彬公が急ぎで大量の資本を導入して西洋技術の開発をした集成館事業が、次々と閉鎖されていってしまったのである。なお島津久光は最終的に「従一位」の官位を与えられる事になる。

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る

しかし約600年前の島津家当主時代からのお墓が残っている場所なので、当然とても古い雰囲気を匂わしているお墓。そして島津家歴代当主だけではなくて、その夫人達や子供達のお墓なども設置されているので、とても沢山のお墓が置かれている。

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る1

島津氏は昔から中国などとの貿易が許されていた事もあって、他の地域に比べても異国情緒を少し匂わせる国だったようだ。そういった外国と接する機会が多かった地域には、他の地域に比べて変わった文化が生まれやすい土壌があったのであろう。

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る2

こちらのお墓は島津氏第22代当主であり、薩摩第5代目藩主であった島津継豊のお墓。この島津継豊の時代に、後に島津家が徳川家に正室を送り込むという、徳川家との濃厚な関係を構築する事に繋がる要因が出来た時でもある。というのも島津継豊には毛利家から正室をもらっていたがその夫人が早逝してしまい、当時江戸幕府第8代将軍:徳川吉宗の養女ともなっていた「竹姫」を斡旋されて、断り切れずに引き取る。

 

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る3

この将軍家の養女だった竹姫は、その後の島津家に大きな影響を与える。徳川吉宗の四男である宗尹を家祖とする「一橋徳川家」との間に、島津家と婚姻関係を結ぶ。そして義理の孫にあたる島津重豪の娘が結果的に徳川幕府将軍の正室となり、その流れは島津斉彬の養女となった篤姫が将軍家に嫁ぐ事に繋がっていくのだ。

黒ブタ子
黒ブタ子

人間は品質向上の結婚ではなく、周囲の人間関係を気にした結婚ばかりブヒ!

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る4

こちらのお墓は島津氏第19代当主であり薩摩藩2代藩主であった島津光久のもの。この島津光久の時代に江戸幕府からの命令で江戸に藩主や妻子が住む事になるが、これが先駆けとなったとされている。また80歳程まで生きた、当時としては長寿だったので40人程の子供をもうけた。しかし藩経営は江戸幕府による鎖国の影響で、それまでの稼ぎ頭であった中国との貿易が禁じられて、苦しくなっていった。

 

福昌寺跡の島津家お墓を見て回る5

こちらのお墓はそんな島津光久の先代である、島津氏第18代当主であり薩摩藩初代藩主となる島津家久(忠恒)のものである。この島津家久は猛将として名高い島津義弘の息子である。そして島津家久の時代には江戸幕府の了解を得たうえで、琉球王国に侵攻し属国として今後支配していくのである。

 

島津斉彬公のお墓にて

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見

そんな風に島津家歴代当主達のお墓を見ながら、墓地の奥まで進んで行くとやっと島津斉彬公のお墓らしきゾーンに辿り着く。歴代藩主の中でも特に多くの人達に慕われる人物だった島津斉彬公も、そんなに大きなお墓ではなく、このように他の当主達と同じサイズのお墓のようだ。

 

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見1

お墓の前にある石碑には、このように島津氏第28代当主であり薩摩藩11代藩主の島津斉彬の墓であるとしっかりと彫られているのが確認できる。今回の鹿児島で訪問したいと思っていた島津斉彬公関連の場所で、最終目標だったお墓を見れたので満足な気持ちに浸りつつ、お墓の参拝をする。

 

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見2

そんな斉彬公のお墓には、このように2つの墓石が並べられているのが見える。右側に設置されているのが斉彬公の墓石で、左側に設置されているのが正室である英姫(ふさひめ)のお墓である。斉彬公は勿論藩主であったので正室以外にも側室を持ってはいたが、この正室である英姫とは死ぬまで仲睦まじい姿を見せていたという。

東郷どん
東郷どん

斉彬公と英姫は理想の夫婦だったでごわす!

 

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見3

世子時代が長かった島津斉彬は藩主に就任してから7年後に、集成館事業の数々の完成を見届ける事なく急死してしまう。斉彬の子供達の男子は全て早死してしまったが、斉彬自体は健康で屈強な体つきだったという。そんな斉彬が薩摩国に帰っている時に食べた魚に当たったとして急死してしまうのであるが、その裏では先代:島津斉興の毒殺説が囁かれている。昔は自分の子供であろうと、自分に逆らうのであれば容赦なく殺していた時代。

東郷どん
東郷どん

あんな立派な体をした斉彬公が、まさか魚を食べて死ぬなんてあり得んでごわす!

 

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見4

斉彬公の正室であった英姫は、斉彬公が死去した年に後を追うようにして亡くなるのであった。一説には英姫が自ら命を絶ったという説もあるとか。

 

 

福昌寺跡で島津斉彬公のお墓を発見5

衝撃的な島津斉彬の死で、その知らせを聞いた西郷隆盛は自分も一緒に殉職しようとしたが、周囲に止められる。その当時は主君が死ぬと使える人間たちも後を追って、殉職していた時代なのである。しかし斉彬公が望んでいたのは自分と一緒に死ぬよりも、自分の命じた使命をやり遂げて死ぬ事だったのだろう。

 

福昌寺跡で島津家当主の墓を見学

この島津斉彬公のお墓を参拝できたので、この時はお腹いっぱいの気分だったけど、今となっては島津重豪・島津斉興・調所笑左衛門などのお墓も見といたら良かったと思ってしまう。特に薩摩藩の財政改革を行って、奇跡的なV字回復を成し遂げた調所笑左衛門のお墓は、特に見ておいたら良かったと今更ながら思うのである。

開聞茸
開聞茸

また次に来た機会に見ればいいタケ!

 

福昌寺跡で島津家当主の墓を見学1

この島津家の墓地に安置されているのは単なる昔の人達のお墓ではなくて、江戸時代から明治時代へと大きく日本国を変える事になる人々にキッカケを作った人物達のお墓である。そういう意味では今この日本に生きている自分の、ある種のルーツともなっている人達のお墓でもあった。

 

福昌寺跡で島津家当主の墓を見学2

そんな大事な島津家の墓地は、これからも清掃ボランティアや島津家の生き残りの人達によって、これからも長い年月を過ごしていくのだろう。

あまり観光客がやって来ない場所だけど、歴史好きは是非行く事をオススメします!

 

福昌寺跡近くにあるキリシタンの墓を見に行く

さて鹿児島での目的はほぼ完遂したので、一気に体の力が抜けるような感覚になってきた。とりあえずさっきの看板にも書いてあった「キリシタンの墓」を見に行く事にする。

 

福昌寺跡近くにあるキリシタンの墓を見に行く1

階段を登っていくと、何やら大きな集合墓地のようなものが建てられているのが見える。この「キリシタンの墓」では江戸時代に弾圧されたキリスト教徒ではなく、明治時代に入って長崎にいたキリスト教徒が捕らえられ、その内約300人程がこの福昌寺跡に収容されて、その収容期間中に約50人程が亡くなったという。

 

 

福昌寺跡近くにあるキリシタンの墓を見に行く2

そんな明治時代になってから長崎にいたキリシタンが、ここ鹿児島の地に連れて来られて亡くなった訳で、昔の江戸時代に踏み絵などで弾圧されていた頃に亡くなったキリシタンではなかったようだ。

 

 

多賀山公園に向かう

福昌寺跡近くにある学校

そしてまだ昼前で今日の訪問目的は完遂したけど、この後の予定はとりあえずどこかの温泉に入って汗を流して18時には鹿児島空港に到着するという計画だった。だからまだ自由時間はたっぷり残っているという事で、鹿児島にやって来た初日に見過ごした東郷平八郎像を見に行く事にする。

 

福昌寺跡から多賀城へ向かう

この島津家墓地がある福昌寺跡から、東郷平八郎のお墓と像が安置されている多賀山までは歩いて約20分程の距離で、意外と近い。

真夏の昼前後に炎天下の中を20分歩くのを嫌がる人も多いと思うけど、ボクにとっては全然気にならなくて気持ちがいいウォーキングである。

 

福昌寺跡から多賀城へ向かう1

鹿児島に来た当日に多賀山に造られている公園に登った時は、既に周囲が暗かったので多賀山の大きさなどは全然分からなかったけど、今の明るい時間帯だとその山の大きさがちゃんと見えている。ただ城山に比べてはちょっと低い山であるが。

 

福昌寺跡から多賀城へ向かう途中にあった石橋記念公園

「途中で昼飯を食べれるお店があれば入ろう・・・」と思っていたけど、良さげなお店が見つからずにどんどん歩いて行くと石橋記念公園に差し掛かる。こちらは祇園之洲公園側に移設された「高麗橋」という、江戸時代に肥後国の石大工によって造られた橋が歴史的建造物として保管されているのである。

東郷どん
東郷どん

おいどんはこの辺りに住んでいた頃もあるでごわす!

石橋記念公園内に設置されている岩永三五郎の像

石橋記念公園内に設置されている岩永三五郎の像

こちらはそんな歴史的な石橋の建造に大きく関わった、肥後国の石大工である「岩永三五郎」の像である。大借金に喘いでいた薩摩藩で 調所笑左衛門が財政改革を行い、不可能に見えた借金を返しつつ資金的に余裕が出来た為に、薩摩国内のインフラを整備して流通のコスト省力化に取り組む。その際に肥後国の岩永三五郎率いる集団を鹿児島に呼び、実に50以上もの石橋を建設させたという。

 

多賀城公園の手前にあった看板

さて先日は東郷平八郎のお墓までは行ったものの、肝心の像を見逃していてそのまま帰ってしまった。なのでこれからは東郷平八郎の像を見に行くのは、その時のリベンジである。他から見たら「単なる像を写真に撮るだけで、そんなわざわざ歩いて20分かけて行く程では・・・」と思うかもしれないけど、ボクにとってはそんな写真を撮る事はとても大事な事なのである。

東郷どん
東郷どん

初心貫徹の精神は大事でごわす!

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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