熊本県のシンボルである熊本城天守閣も、着々と復興作業は進んでいる

九州縦断旅:熊本編

 旅行期間:2020年8月中旬

 

再建されつつある天守閣

熊本城本丸近くの有料ゾーンに入る

さて炎天下の8月の真夏に見学通路に屋根の無い、熊本城特別見学ルートを進んで行きます。この8月に九州を訪れると自分で決めた時点で、旅は暑い中を回るのを覚悟していただけに、文句を言う相手もいない1人旅だけにスマホが暑くなって写真が撮れなくなるケースにならないようにだけ注意しながら歩みを進めていきます。

 

熊本城特別見学通路の見学

熊本城本丸近くの有料ゾーンから天守閣を眺める

昨日は本丸の北側から無料で眺めた天守閣は、この見学通路だと本丸をグルっと回って最終的には東側の近くから眺めれるようになっている。普通お城の入場料というと天守閣内に入っての見学料だと思うけど、ここ熊本城では天守閣は只今復興作業中なので入れないので、仕方なしに天守閣近くまで行けるルートのみ営業している。そしてここで観光客などが支払ったお金が震災からの復興資金に回される可能性もあるので、ある意味募金のような入場料なのかもしれない。

 

 

 

武者返しの石垣を見つめる

熊本城の2様の石垣

JR熊本駅の東口の新駅舎は安藤忠雄氏の設計で、この熊本城の石垣で有名な”武者返し”をモチーフにして設計されている。そんな有名な”武者返し”の石垣でも代表的な部分が、この「二様の石垣」とも呼ばれる熊本城の角石のコーナーが並んでいるこの箇所なのである。

からし蓮君
からし蓮君

普通は建物に目が行ってしまうけど、城を支えているのはこの石垣ばい!

 

熊本城の2様の石垣を眺める

この石垣は見れば分かる通りに、下は緩やかな傾斜から上になればなる程にほぼ垂直のような角度になっている。そして「二様の石垣」とも呼ばれるだけあって、左側の石垣斜面と右側の石垣の斜面に傾斜角度が異なっている。傾斜角度が比較的緩やかな右側の石垣の方が古いとされていて、その後の時代に造られた左側の石垣はより急角度となっている。これは築城技術の向上により、より急勾配の石垣が造れるようになったからかもしれない。

 

熊本城本丸入口の崩れ落ちた通路

この見学ルートから天守閣などに見惚れずに反対側を見てみると、足元ではこのように城下から本丸へと向かう折れ曲がった侵入ルートの石垣が無残にも崩れ降ちているのが見えている。

地震で崩れたというよりは、ゴジラなどの怪獣が通った跡のような感じ・・・

 

熊本城本丸入口の崩れ落ちた通路を眺める

このように一部が崩れたルートもこれぐらいなら見学できそうに思っていたけど、冷静に考えるとまた地震などがあって見学者が歩いている所で石垣が崩れたら危ないので、通行止めは当然であった。そしてこのように通路の石垣が崩れている景色は、この見学用通路を通らないと見る事が出来ない。

 

熊本城本丸にあった飯田櫓の被災した写真

そんな見学ルートの途中には、このような案内板も立っていた。こちらは飯田丸五階櫓で、明治時代になって熊本城内に駐屯していた陸軍によって建物は取り壊されてしまった。今の我々の立場にすると「こんな歴史的な建物を取り壊すなんて・・・」と思うけど、当時は明治時代になって今までの武士文化が西洋文化へと大きく変動していった時代。そしてその当時は城という建造物はどこにでもあって珍しい物でもなく、かつその時代には用済みとなっていた建物なので取壊し自体にも抵抗がなかったのであろう。

 

熊本城本丸にあった飯田櫓の被災した写真のアップ

この飯田丸五階櫓は明治時代に取り壊された後に、平成17年(2005年)になってから建物が木造造りにて再建されたものである。そして被災したこの飯田丸五階櫓が有名になったのは、この写真右側に写っている”奇跡の一本角石”である。この角に積まれたほぼ1列の石だけで上に乗っている10トン以上の重さの建物を支えていた。熊本地震でこのように何とか崩壊を免れた飯田丸五階櫓はその後補強されて約2年持ちこたえたが、倒壊の可能性が免れないと判断されて約2年前に建物や石垣は撤去されてしまっていて、今ではこのように写真でしか見る事が出来なくなっている。

 

 

熊本城本丸入口の崩れ落ちた通路を眺める-1

この熊本城の石垣と一口に言っても、それぞれに形成された時代が違うので、全部が全く同じ勾配や構造とはなっていなくて、バラバラな石垣である。というのもこんな大きな城の石垣も一気に出来た訳ではなく、時代毎にどんどんと増築して石垣が増えていった為である。ただ地震で崩壊した石垣は傾斜がきつい勾配の石垣ばかりだったようで、傾斜が緩い石垣程にその石垣に掛かる負荷が分散されていって崩壊しなかったとも考えられているそうだ。

 

 

熊本城本丸の見学ルートを進む

そんな熊本城本丸周辺に造られている見学通路は何とも無機質な感じの造りであるが、身体障害者も見学出来るようにと、こんな仮説通路のような中にもエレベーターが設置されていた。

からし蓮君
からし蓮君

バリアフリー化が進む21世紀ばい!

 

熊本城本丸の見学ルートを進む-1

このような石垣、てっきり全部このような大きな岩で造られているかと思ってしまうけども、実際の造りでは内側には小さい石が埋められている。このような構造が石垣に掛かる地震などの力を受け流すという。ただし勿論震度7位の強度な揺れには抵抗する術もなく、石垣が崩壊するのは地震の力などを吸収できずに破裂したように石垣中心部分の内側からだという。

 

熊本城本丸の見学ルートを進むと無得る銀杏の木

崩れずに残っている本丸の石垣の上には、しっかりと根を張って踏ん張って生き残っている桜の木のようなのが見える。この熊本城は春の時期になると桜が咲き誇って、とても綺麗な景観になるという。そんな熊本城内に植えられた桜は明治天皇が行幸した際に、景観を楽しんでもらおうと植えられたものだそうだ。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸へと入る

そして天守閣へと向かう見学通路の先に見えてきた建物は「本丸御殿」で、加藤家の後を任された細川家の細川忠利時代に増改築などを行って豪華絢爛な内装の建物に完成したという。ただしこの本丸内にあった本丸御殿は明治10年の西南戦争直前の出火による火災で、天守閣などと一緒に燃えてしまっており、今見られる建物は再建されたものである。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸へと入る-1

城の天守閣はシンボル的な存在なので西南戦争直前に焼失した後に1960年になって再建されたが、この本丸御殿は天守閣よりも約50年も遅れての2008年に再建されている。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下を進む

そしてこの本丸御殿の珍しい特徴としては、このような御殿が石垣の上に造られているという事。その為に今回の見学通路はそんな本丸御殿の下を通るルートとなっている。なのでちょっと頭をかがめるような恰好で進む必要がある。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下を進む-1

この辺りが本丸御殿の真下辺りで、ご覧のように右側と左側で別々の石垣に支えられているのである。そしてさっきまで屋根の無い炎天下を歩いていたけど、ここだけ本丸御殿という屋根がある場所だったので、まるで冷房が効いているかのように涼しく感じた。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下の通路

この本丸御殿の下エリアも2016年の熊本地震前までは立ち入り可能な場所だったが、今は手前に柵があって残念ながら立ち入り禁止となっていた。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下の通路の説明

この本丸御殿の地下通路は「闇り通路」という名前が付けられていて、この時も見学者用に照明が点けられていたから明るく感じたけど、本来はあまり陽も差し込まなくて暗かったようだ。

 

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下の通路の天井を眺める

そんな闇り通路から本丸御殿を見上げると、このような太い木でしっかりと支えられていたので特に倒壊するような被害にはなっていないようだ。ただここの本丸御殿も地震の為に、見学は中止だったけども。。

 

 

本丸内へと進み、天守閣とご対面

熊本城本丸の見学ルートを進んで、本丸御殿の下の通路を抜ける

そして一旦本丸御殿の下の通路で涼んでしまった為に、このように通路から抜けてまた暑い日差しが照り付けてくるのかと思うと、ちょっと足が止まりそうになってしまう光景が目に飛び込んでくる。

「暑さに負けルナ・・暑さに負けルナ・・」と繰り返して進むのであった。。

 

熊本城の天守閣前に到着

そして熱々の見学ルートを進んでやっと熊本城の天守閣とご対面である。まずはその前に手前に設置されていた、震災前の熊本城の大小天守閣の写真を眺める。こちらは1960年に再建された大小の天守閣で、明治10年に焼失してしまってから何も無かったこの地に熊本市民の念願叶ってこのような天守閣のある景観に戻ったのである。

 

熊本城の天守閣前に到着-1

この天守閣を見学したのは2020年8月で、後程復元作業の段階写真を見たら分かり易いけども、この天守閣の復興作業も大天守閣は足場も殆ど組まれておらずである程度に綺麗な姿を披露してくれていた。以前まではもっと天守閣の上まで足場が組まれていただけに、このような姿を見れただけでもラッキーだったのかもしれない。

 

熊本城の天守閣前の説明板

この天守閣は熊本地震によって瓦などが倒壊し、建物の壁にも亀裂が入った場所などが沢山発生したという。ただし建物自体は1960年に鉄筋コンクリート製で再建されて、真ん中には鉄筋の棒が埋められているのでそう簡単に建物自体は倒壊しなかった。ただし天守閣は熊本城観光のメインでもあり年間にすると多くのお客さんが訪れる場所なので、簡単な補修ではなく、事故が起きないようにとしっかりした補修作業が行われているのだ。

 

熊本城の天守閣前から眺める景色

この大きい天守閣と小さい天守閣が2つあるという光景は、なんとも珍しいものである。ただ明治時代に焼失する前の状態ではそれぞれの天守閣の間には通路はなかったらしく、昭和に入って再建された時には見学用に大小の天守閣を行き来する通路が元々はなかったけど造られたそうだ。

からし蓮君
からし蓮君

城もその時代に応じて、形を変えていくばい!

 

熊本城の天守閣前周辺の景色

熊本城の本丸ではそんな天守閣だけではなく、色んな所で熊本地震の被災した箇所が見られる。こちらの外側も地割れや石垣崩壊を起こしており、このように柵で囲われていて進入禁止となっている。まだ観光客の多い時間帯に地震が発生しなくて、石垣崩壊などに巻き込まれる人が居なかったのが幸いかもしれない。

 

熊本城の天守閣前から眺める景色-1

着々と修復工事が進む天守閣は、この2020年8月時点で残り8か月で一応終了の予定。明治天皇が行幸する際に合わして植林された桜が綺麗に咲く春に合わせて、この天守閣の工事も終わって天守閣内の見学を再開する予定だとか。

からし蓮君
からし蓮君

熊本城で桜が咲く季節も素晴らしい景色が見れるので、是非春のシーズンにも訪れるばい!

 

 

復興中の熊本城天守閣の写真

そして天守閣近くの柵には、それ以上近寄れない観光客に対して申し訳なく思う気持ちが表れているかのように、このように色んな写真や説明文などが掲載されていた。

 

復興中の熊本城天守閣の写真-1

ここにはこの熊本城の天守閣の復旧整備事業の一連の連続写真が、このように丁寧に張られていた。この写真を見れば分かるように、地震の翌年2017年には今でこそ大天守閣のほぼ全景を見られるけど、この時は足場に囲まれて復旧作業中真っ盛りであったようだ。

 

復興中の熊本城天守閣の写真-2

そしてこのように2018年に差し掛かると、徐々に大天守閣の足場が上の方から取れていっているのがよく分かる。新しいビルなどだったら、簡単に造り直せるけど、元あった建物で特に城のような昔の建造物(外観のみ昔風)を復元するのには気の長い作業が必要になるのであろう。

 

復興中の熊本城天守閣の写真-3

そしてこちらの2019年に差し掛かると、大天守閣は土台部分をメインに補修し、途中からは右側にある小天守閣の復元作業にも取り掛かっているのが見える。なおこの天守閣が1960年に再建された時にその費用の一部は熊本市民が捻出しており、天守閣の屋根に使われている瓦の裏側には寄付した人の名前が書かれているという。

 

復興中の熊本城天守閣の写真-4

そして今年2020年(ブログの公開日は2021年だけど・・・)は、コロナウイルス騒動があったけど何とか来年の春の天守閣復旧を目指して着々と工事中である。それまでの空白期間に、残ったピースを嵌め合わせていくような作業がこれから春まで続いて行くかのようである。

 

熊本城天守閣の大小天守閣揃い踏み

そして今回の復旧作業が終わると、なんと天守閣内にエレベーターが設置されるという。この熊本城天守閣は1960年に再建されたもので、外観こそ昔の写真などで見る天守閣のイメージに合わせて造られているが、建物自体は鉄筋コンクリート造りである。ただ内装も昔の城っぽい造りじゃないと、天守閣内の見学をする身としては贅沢な文句だけど、城っぽくないので見学を楽しめないのである。

特に大阪城はエレベーターがあって、天守閣内の見学は全然楽しくない・・・

からし蓮君
からし蓮君

天守閣は入るものではなく、遠くから眺めるものばい!

 

 

熊本城本丸内にあった銀杏の木

この熊本城は別名「銀杏城」とも呼ばれているという。そう呼ばれる元となったのは、こちら本丸御殿の前に見える本丸内にある大きな銀杏の木が植わっているからだという。この大きな銀杏の木は“大銀杏”とも呼ばれていて、高さは約21メートルになるという。元々は熊本城主だった加藤清正が朝鮮に渡って戦っていた時、朝鮮軍と結託して攻め込んできた明軍の猛攻に籠城していた城内で食糧が少なくなり、この銀杏の木の実を食べて凌いだという。

それから何とか猛攻を凌いで耐え抜いた加藤清正が日本に帰ってきてから、この本丸内に銀杏の木を植えたとされている。ただそんな加藤清正時代からの銀杏の木も、西南戦争直前の本丸での出火で火が移って燃えてしまったという。なので今見られる大きな銀杏の木は、そんな燃えてしまった銀杏の木から再び生えてきた芽が成長した二代目の大銀杏だそうだ。なお、この銀杏が熊本の象徴となって、熊本市の木は銀杏となっていて「銀杏の都」とも呼ばれるという。

からし蓮君
からし蓮君

ただ銀杏の木は雄と雌があって、この大銀杏の木は雄で実が付かないだげんど・・

 

 

熊本城天守閣前の観覧場所

そして天守閣前には真夏の炎天下の時期という事もあって、熱中症対策用に仮設テントが設置されていて、周辺では霧雨を発生させる装置もあった。

ただそんな熱中症対策も子供たちにとっては、楽しい遊び場所と化していたが・・

 

熊本城天守閣前の観覧場所にあった説明板

城の石垣ってあまり変化していくイメージがないけど、世の中にあるものは時間の経過と共に劣化していく。石も形が変わらなく思うけど、毎日の風や雨などを何十年~何百年と受けていくと当然の如く、削れていくのだろう。今回の天守閣の復旧作業と共に、西南戦争の直前に起きた火災で焼けた石や変形してしまっている石などもこの際に合わせて修復したそうだ。

 

熊本城天守閣前の観覧場所にあった説明板-1

昭和35年(1960年)に再建された熊本城天守閣も耐震構造をしていた建物だったハズだけど、さすがに震度7や6強の大地震となれば勿論影響を受けて、このように瓦や一部の石垣が崩れてしまったようだ。ちなみに1960年というと、今の令和の徳仁天皇陛下が生まれた年でもあるので熊本城天守閣と徳仁天皇陛下は同級生でもある。

 

熊本城天守閣前で記念撮影

この暑い真夏の8月での観光は、直射日光を防ぐ帽子とサングラスは必需品。それ以外の必需品でもある日焼け止めクリームは面倒くさいので持って行かなかったら、日を追う毎に自分の肌が日焼けして黒くなっていくのを実感した。

なのでこの九州旅最終日には、別人に思う程に焼けてしまいました・・・

からし蓮君
からし蓮君

日焼け止めは将来の事を考えて、塗る必要があるばい!

 

熊本城本丸の景色

今では新たに造られる事が殆どない石垣だけど、昔の戦乱時代に培われたノウハウが沢山詰まった芸術品でもある。4年前の大地震で崩れてしまった一部の石垣もあるけど、それでも全く崩れていない箇所もあるのだから驚きである。

昔から地震が多かった日本ならでは、技術が詰まった石垣なのである!

 

熊本城天守閣と石垣を見比べる

「武者返し」などと呼ばれている石垣角の反り部分だけど、忍者も登れないとかいう言葉も聞いたけど、忍者位だったら登れそうな感じがするように感じる。山の壁などを登るクライマーだったら簡単に登れるかもしれないけど、鎧を着た武士が駆け上がるには難しい石垣だったのには間違いないだろう。

 

熊本城で無残に崩壊した石垣

このように崩れてしまっている石垣を見ると、石垣って全部が大きめの岩で構成されている訳ではなく、外側は大きい岩を使っているけどその内側にはこのように小さな石など細かいものが詰め込まれているのである。この組み合わせが衝撃などを吸収し、雨などが降ってもそれを逃がす構造となっているようだ。

 

 

熊本城で無残に崩壊した石垣-1

よ~~く見るとまだ撤去していない石垣の残骸にも、既に崩壊した状態が記録されて、それぞれの石にもナンバリングされているのが見える。ただこの辺りの石垣が復元されるのも、まだまだ先なようだ。

 

熊本城で無残に崩壊した石垣を見下ろす

熊本城の石垣と言っても、江戸時代から立っている石垣もあるし、昭和や平成の時代に補修されたり再建された石垣もあるので、一概に石垣といっても千差万別である。そしてこのように倒壊したら、また時間を掛けて再建していく他ないのである。

 

熊本城でも生き残った櫓と石垣

熊本城本丸の有料ゾーンの見学を終えて、一旦二ノ丸公園の方へと向かう。その途中に見えた未申櫓は平成の時代に入って石垣と建物は再建されたものだけど、熊本地震による影響は幸いにもあまりなかったようだ。平成の時代になっても昔の城造りの技術が受け継がれている、その底力を見せつけているかのように君臨していた。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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