鹿児島市「維新ふるさと館」でも幕末の薩摩藩の歴史についてお勉強

九州縦断旅:鹿児島編

 旅行期間:2020年8月中旬~下旬

 

意外と楽しめる人形劇

鹿児島市内「維新ふるさと館」に向かう

九州最終日はまだまだ時間の許す限りに、鹿児島市内の歴史について勉強できる場所を巡っていきます。次は甲突川沿いにある、こちらの「維新ふるさと館」に入っていきたいと思います。

 

鹿児島市【維新ふるさと館】

住所:鹿児島県鹿児島市加治屋町23−1
開館時間:9時~17時(最終入館:16時30分)※年中無休
入場料: 大人(高校生以上)300円 小人(小~中学生)150円 

 

 

 

「維新ふるさと館」にて

維新ふるさと館の玄関

さて美味しい黒豚のカツ丼を食べて食欲を満たしていたので、軽やかな気分で「維新ふるさと館」へと入っていきます。なお入口ではチケットの購入前に体温測定と、名前/住所/電話番号の記入が必要でした。この2020年は国内の色んな施設で名前や電話番号などを用紙に何回も書いたけど、結局幸いにも後付けでの連絡が無かった。

今日までコロナウイルスに感染しなくても、明日になったら感染する可能性があるので油断しないように!

維新ふるさと館のチケットとパンフレット

さて入口での検温が問題なかったので、大人1名分300円のチケットを購入して中に進んで行きます。こちらのチケットに描かれているように、この加治屋町出身の明治維新の立役者である西郷隆盛と大久保利通がメインで紹介されているような雰囲気を感じる。

 

維新ふるさと館内の景色

館内は真夏だったけど、とても冷房が効いていたのでかなり涼しい。ただ21世紀を生きる現代人は冷房がキンキンに効いているのが当たり前という感覚になっているので、もし大停電などが起こったらみんな熱で蒸発してしまうんではないかと思う位・・・。

開聞茸
開聞茸

この暑い気温も地球が与えてくれる恵みタケ!

 

 

維新体感ホールで「維新への道」ドラマ上映

維新ふるさと館のドラマステージ

そして入館間もなくして係員の人が「地下の維新体感ホールでもうすぐドラマが上演されますので、お越しください」とアナウンスしていたので、B1Fの維新体感ホールへ向かう。実はこの維新ふるさと館では、このロボット人形を使ったドラマ劇が一番の売りらしく、まるで人間の如く精密に出来ていて、しかも動く人形で明治維新前後の流れを演じてくれるのだ。

なおドラマは撮影不可なので、下記の公式チャンネルの動画をご覧ください!

 

 

「維新への道」ドラマ上映など(公式HPより) 動画

東郷どん
東郷どん

まるでおいどんみたいな人形が、おいどんの真似して動きおったでごわす!

維新ふるさと館内の景色1

そして約25分間に渡る人形劇が終了する。初めは全然期待していなかった人形劇だったけど、さすがこの施設で一番売りだけの事あって、とても楽しめた。だからこの維新ふるさと館は、300円払ってあの人形劇を見に来る場所と言っても過言ではない位の出来だった。

 

薩摩藩などの歴史についてお勉強

維新ふるさと館内の昇平丸の説明パネル

さて館内は写真撮影が可能な所と不可な所に分かれていた。なので写真撮影OKの所しか写真が無いので、その写真を撮った物メインで進めていきます。なお、これ以外にも見る物があるという事だけ覚えといてもらえればと。

まず最初は”日本初の洋式軍艦”として島津斉彬時代に造られた「昇平丸」の説明パネルである。この維新ふるさと館には島津斉彬ゾーンがあって、その部分は今日の午前中に見学した照国神社資料館の内容とちょっと被る。でもその復習ついでにまたここで勉強してみよう。

 

維新ふるさと館内の昇平丸の模型

照国資料館には無かったけど、こっちの維新ふるさと館は掛けている予算が違うので、昇平丸の模型が置かれているのが見える。ペリー来航前から島津斉彬は江戸幕府:老中筆頭の阿部正弘に相談し、鹿児島と琉球王国間の貿易ルートに限って使うという条件で、従来の和船に比べて大きく、かつ大砲を搭載した琉球大砲船の造船に着手する。しかし造船に着手してすぐにペリーが浦賀に来航し、幕府はその3ヶ月後に大船建造禁止令を解く。するとすぐにその建造していた船を洋式戦艦に路線変更して船を仕上げた。それがこの「昇平丸」であり、江戸湾でのお披露目会では集まった幕僚たちの度肝を抜いたという。そしてその後にこの昇平丸は幕府に献上されて、「昌平丸」と名前を変えるのであった。

 

維新ふるさと館内の西郷隆盛の人形

こちらには鹿児島人にとっての理想の人物とされている、西郷隆盛の人形が置かれている。明治時代になると洋風の生活様式が入って来て、大久保利通は積極的に洋風の恰好などを取り入れたが、西郷隆盛は反対に今までのスタイルを貫き通したという。西郷隆盛の晩年の心の拠り所は、このワンちゃんと美味しい鰻を食べる事だったようで、鰻屋にこの犬(ツン)を連れて行き、一緒に鰻を食べさせていたとか。

東郷どん
東郷どん

ツンは利通と違って、おいどんに忠心だったでごわす!

 

維新ふるさと館内の西郷隆盛の人形1

そんな西郷隆盛の人形の後ろには、2018年に放送されたNHK大河ドラマ『西郷どん』の垂れ幕が飾られている。なお2008年に放送されたNHK大河ドラマ『篤姫』の時は、その放送の反響によって鹿児島を訪れた人が増えて、この維新ふるさと館も年間最高入場者数を記録したという。

それだけ世間に影響力の強い大河ドラマだけど、ボクは今までに全然見た事が無い・・・

東郷どん
東郷どん

こんな名作を見ていないとは、話しにならんでごわす・・・

 

 

維新ふるさと館内の西郷と大久保のレリーフ

こちらには鹿児島が生んだ大スターの2人の説明と、その顔のレリーフが飾られている。薩摩に伝わる有名な 『日新公いろは歌』じゃないけど、この西郷隆盛と大久保利通はそれぞれに性格や考え方が違っていたのが功を奏したのかもしれない。もし大久保利通が西郷隆盛みたいなタイプだったら、明治維新はうまく成功していなかっただろう。それぞれの異なった長所が上手く調和して、それが推進力となって進んで行ったのであろう。

 

維新ふるさと館内の西郷と大久保のレリーフ1

『敬天愛人』という言葉は西郷隆盛の座右の銘で、その意味は「天は分け隔てなく人々に恵みを与えるように、自分も民を愛したい」という内容らしい。そして西郷隆盛は新政府誕生後に日本で初めて陸軍大将となった人物でもあるが、戊辰戦争で抵抗する庄内藩などを鎮圧する為に遠征した時は、打ち負かした庄内藩に対して寛大な処分を下したとされている。そしてそんな寛大な処分をしてくれた西郷隆盛に対して、旧庄内藩の人々は西郷隆盛を敬愛した。そして明治22年に政府に逆らった反逆者というレッテルが取り除かれた後は、旧庄内藩の人達が全国を行脚して西郷隆盛の人柄を伝えて回ったという。

東郷どん
東郷どん

人は殺すばかりでは能が無く、どう使うかが大事でごわす!

 

 

維新ふるさと館内の西郷と大久保のレリーフ2

なお日本の首都について大久保利通は大阪を首都とする事を熱望していたが、朝廷や公家たちが京に近すぎるという理由で反対して最終的には江戸の東京に決まったという。なので冷静な天才戦略家というイメージのある大久保利通だが、その裏には幾多の失敗も付き物であり、決して彼の理想通りの国になった訳ではなさそうだ。

 

 

維新ふるさと館内の案内板

こちらのパネルにあるように「蒸気機関も大砲も自力で造る」という目標は、島津斉彬時代に行われたもの。その当時はまだ日本は鎖国状態で海外とは自由に貿易が出来なかったので、海外から購入できないので自力で造らざるを得ない状況でもあった。ただ何事もそうだけど、誰かが造ったものを買うよりも、自分で実際に造ろうとトライするだけでとても勉強にも経験にもなる。そこには色んな苦労があったのだろうけど、その苦労がその後の時代に花開いたと思っている。

開聞茸
開聞茸

苦労とキノコは、裏切らないタケ!

 

島津斉彬公と集成館事業コーナーにて

維新ふるさと館内を進む

この維新ふるさと館は人形劇だけ凝った歴史センターかと思っていたけど、意外と幕末などの説明した物が展示されていた。この時はもう既に鹿児島での見物したい所は全て見終わっていた所なので、集中して勉強しようという気持ちが緩んでいた時。だからここでは写真OKな物も全部撮っていないし、正直あまり記憶にも残っていない。

今回のブログ作成で、また鹿児島により一層興味が出てきたので、ここももう一度行きたいです!

 

維新ふるさと館内にあった、島津斉彬の説明

さてこちらは今日の午前中にたっぷりと勉強した島津斉彬の説明パネル。ただ冷静に考えると集成館事業で新たに国産として開発された技術は、あまりその後は継承されなかった。というのも斉彬公の死後に父:島津斉興が、その殆どの事業を閉鎖してしまった為である。国内でイチから機械や工場を開発すると莫大な費用が掛かり、結局は海外から既に開発された機械や完成品を購入した方が早くて安く済んだのだ。しかしそれは斉彬公が集成館事業の完成前に死去したからであり、もしもう少し長生きしていたら国産の事業として軌道に乗っていた可能性も考えられる程に馬力があった斉彬公。

 

維新ふるさと館内にあった、地球儀

こちらは島津斉彬が当時所有していた地球儀のレプリカで、2018年に放送したNHK大河ドラマ『西郷どん』用に造られたものだそうだ。当時はまだ鎖国中だった時代に、このような地球儀を見て、日本の小ささと世界の大きさを認識していた人物だからこそ、あれだけの大事業であった集成館事業を推進できたのであろう。

東郷どん
東郷どん

あれだけの事業をヤレと言われても、おいどんには無理でごわす・・・

 

維新ふるさと館内にあった、地球儀1

いかに鎖国状態だった江戸時代でも、このような世界の大きさと日本の小ささを俯瞰できる地球儀を見せられたら、愕然としただろう。こんな世界地図を見せられた後に「アメリカのペリーという提督が軍艦数隻を連れて、1年後に日本にやって来る!」と聞かされたら、それは脅威にしか感じなかったのかもしれない。

東郷どん
東郷どん

初めて世界地図を見た時に、日本がこんなに小さいとは思いもよらなかったでごわす!

 

 

維新ふるさと館内にあった、電信機の説明

島津斉彬は集成館事業では主に蘭学者を集めて西洋の本を渡して、その事業開発を託した。全く何もない状態という訳ではなくて、西洋ではその仕組みが一応発見されていたので、それらの記述が乗っている本を与えれば何とかなると思ったようだ(当時はまだ鎖国中だったので、海外の技師は招聘できずに自力で開発する他無かったから)。そしてそんな蘭学者達の努力の甲斐もあって、集成館事業の開発はどんどん進展していく事になる。

 

維新ふるさと館内にあった、電信機の模型

こちらはその当時の電信機器を再現した模型である。これが鹿児島城(鶴丸城)の本丸御殿と二ノ丸との間でテストが行われて、それが成功した時の歓喜の様子が目に浮かぶような感じである。その苦労が大きければ大きい程に、達成した時の喜びも大きくなるのである。

 

維新ふるさと館内にあった、銀板写真の説明

江戸時代には「蘭癖」と呼ばれていた西洋文化にゾッコンだった大名達が居た。島津斉彬の曾祖父である島津重豪もそんな西洋かぶれの一員で、あのシーボルトが江戸幕府へ参府した時も、何回もシーボルトが泊まる宿に押しかけて、色々質問をしたという。そして時には流暢なオランダ語を披露して、質問などをしていたという。

 

維新ふるさと館内にあった、銀板写真のレプリカ

西洋で発明された写真の技術は、すぐさま日本にも流れてきた。しかし初期の写真は「銀板写真」という手間の掛かる撮影方式だったので、日本に入って新しい物好きの島津斉彬が試そうとしたけど、なかなか成功に至らなかったそうだ。

 

維新ふるさと館内にあった、銀板写真のレプリカ1

こちらの島津斉彬が写っている、「日本人が写っている日本最古の銀板写真(複製)」は同じ構図で3枚撮られたという。そして鹿児島は第二次世界大戦時にアメリカ軍によって空爆を受けて、鹿児島市内は焼け野原になったので、この写真も焼失したと考えられていた。しかし3枚も撮っていたのが幸いして1枚だけ何とか現存していて、今では尚古集成館に保管されているという。

 

維新ふるさと館内にあった、蒸気機関の模型

お次も島津斉彬が開発を命じた、日本初の国産蒸気機関である。集成館事業の中でも特に蒸気機関の開発には難航したらしく、現物もなしに本だけ見せられて「これが蒸気機関という仕組みだ!」と言われても困っただろう。しかしそんな難儀な宿題であった蒸気機関も、その現物やオランダ人技師の助けもなく、なんと動くまで仕上げてしまうのである。

 

維新ふるさと館内にあった、蒸気機関船の説明

その蒸気機関の仕組みが書かれていたオランダの本には、このような簡単な図しかなかったそうだ。こういった簡易な内容だけを見て、頭で想像して何回も繰り返して蒸気機関まで辿り着くのは、裏では相当な苦労があったハズである。

 

 

維新ふるさと館内にあった、蒸気機関の模型1

そんな国産蒸気機関を取り付けた”日本初の蒸気機関船”である「雲行丸」であったが、先進国であるオランダ海軍の船長が雲行丸に乗ってみた感想は「蒸気機関が全然使えていなくて、本来の2割程しか力が出ていない」と酷評だったそうだ。しかしそんな蒸気機関がオランダ人の技師やサンプルなども無しに、本だけを見て造り上げた事実を知ったオランダ人船長は驚嘆したという。

 

薩英戦争で使われた品々

維新ふるさと館内にあった、キャノン砲の模型

こちらは薩摩軍が集成館事業の中でも特に重要視していた、海外諸国と対峙した時に戦える武器の大砲「80ポンドカノン砲」である。斉彬公の父:島津斉興の時代から、琉球王国などに開国を迫る外国船が頻繁にやって来た影響もあって、大砲の練習などをさせていた。それを斉彬公時代には更に威力のある大砲を開発する為に、集成館で反射炉や溶鉱炉などを完成させて、このような大砲造りを急がせた。

 

維新ふるさと館内にあった、キャノン砲の説明

海を渡ってやって来る海外の船には鉄砲や刀は勿論届かないので、このような大砲がどうしても必要だった。アヘン戦争などアジア諸国でのヨーロッパ勢との戦いの情報を得ていた島津斉彬は「海外とはすぐに武力衝突する時が来る」と考えていたとみられる。

 

維新ふるさと館内にあった、キャノン砲の模型1

そしてそんな大砲は造るだけではなくて、砲撃練習も徹底的に指導させた。いくら素晴らしい武器が手に入ったとしても、それを使いこなすトレーニングを普段からしていないと、急に実戦になってもそれを使い切れない。

 

維新ふるさと館内にあった、薩英戦争の説明

こちらのパネルには「やればできる、やらねばならぬ」という島津斉彬の強い決意が示されている言葉が掲げられている。斉彬公がこれだけ危機に迫ったように西洋の最先端技術に全力で取り組んでいたのは、もしこれらの技術が使えなければ日本は負けるとハッキリ悟っていたからだろう。当時の国内には攘夷派という、海外と武力で交戦して追い返そうという考えの勢力があったが、それは単に相手の実力が分からずにただ突進するだけの考えだったように見える。

第二次大戦終戦間近の、銃と竹槍の勝負ほどの差があったようだ。。

 

維新ふるさと館内にあった、薩英戦争で使われた砲弾のレプリカ

こちらは薩英戦争(1863年)の時に使われた、イギリス海軍の砲弾(左)と、薩摩軍が使った砲弾(右)のレプリカである。イギリス海軍が使っていた砲弾はピストルの弾みたいに溝が付いており、その溝に沿って銃身を出る際に回転しながら発射されて射程距離が延びるという仕組み。それに対してパチンコの玉みたいなもので応戦した、それでも国内では最先端をリードしていた薩摩軍。。

 

維新ふるさと館内にあった、薩英戦争の説明1

イギリス海軍はその当時最先端の大砲であるアームストロング砲を使用した。当時としては画期的だった後ろから弾を充てんする”後装式”大砲で、この薩英戦争がアームストロング砲の最初のお披露目実戦となった。そして旧式の時代遅れの砲弾と大砲を使う薩摩軍と比べると、その射程距離は2倍の差があり、命中率も薩摩軍が設置していた大砲を全て破壊した程だった。しかしこの戦いの時にこのアームストロング砲は1割未満の割合で発射不良があり、その悪い評判が出回って注文がキャンセルとなって、生産が打ち切られてしまう。しかしそんなアームストロング砲は当時独立戦争中だったアメリカに転売されて、それが終わると今度は日本国内に転売されて戊辰戦争などに使われる事になる。

 

維新ふるさと館内にあった、薩英戦争の教訓

「敵に勝つには敵から学べ」という言葉がこちらのパネルにあるが、その引き分けに終わった薩英戦争でイギリス海軍の強大さを実感した薩摩藩は、幕府に内緒で留学生などをイギリスに送り込む。そして進んだ兵法や技術などを学ばせて、当時薩摩藩の実権を握っていた島津久光が海軍整備に力を入れた事もあって、その後に海軍大将となる人物の多くは薩摩藩出身者が名を連ねる事になるのである。

 

 

維新ふるさと館内にあった、反射炉の説明

こちらには集成館事業関連の模型などが展示されていて、それらの説明がされていたけど、実際にはこの集成館事業を進める為には莫大な資金が動いていたようだ。それには調所笑左衛門が断行した財政改革で蓄えた貯蓄も使われて、更には農民の年貢の量も増やされたという。しかしそれでも島津斉彬に対しての評価は良いものしか残っていない。

 

維新ふるさと館内にあった、反射炉の模型

この反射炉は溶かした鉄を再び過熱して溶かし、大砲などの鋳型に流し込む際に必要な物で、反射炉自体は薩摩藩ではなく佐賀藩がいち早く建造に成功していた。しかし佐賀藩では大砲に使う鉄を日本古来のたたら製鉄に頼っていたが、それだと材質にバラツキが多くて品質が不安定になる為に、溶鉱炉も同時に造らせて鉄鉱石などを高温で溶かして質のいい銑鉄を造らせた。それまでは青銅製の大砲が用いられていたが、青銅製だと銅の値段が高く、大量の材質を集めるのも困難であった。

 

維新ふるさと館内にあった、薩摩切子

そんな海外相手に武力を揃えるだけではなくて、海外との貿易が開始される事を想定して薩摩の名産品づくりにも着手していた所が、島津斉彬の先見性が溢れていると思う。攘夷派たちは単に戦いしか見えていなかったが、斉彬公はその先にまで視点がいっており、武力ではなく名産品で世界をリードする国を造ろうとしていたのである。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!

にほんブログ村 旅行ブログへ にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ

↓↓↓↓九州縦断旅行記:初回↓↓

【九州縦断旅行記】小倉から始まり、別府~熊本~鹿児島~桜島と巡る!
2020年8月の炎天下の時期に訪れた九州。まずは小倉で以前バルト三国旅行で知り合った”エロ坊主オジサン”と再会し、門司港へと連れて行ってもらいます!
タイトルとURLをコピーしました