【札幌旅行記①】クラーク博士の記念碑がある旧島松駅逓所からスタート

北海道/札幌旅①

 旅行期間:2020年9月1日~4日

久々の北の大地へ

旅の始まりは伊丹空港から

さて長い九州縦断旅の旅行記が終わった後は、その約一週間に行った2020年9月1~4日まで滞在した札幌旅の始まりです。実際に旅した時期から8か月後に記事の公開と半年以上前の事ですが、このブログの性質上、手抜きや中抜きせずに旅行記を作っているので、リアルタイムではないのでご了承ください。

それはさておき旅の出発は伊丹空港からスタートです!

 

伊丹空港から札幌へ向かう!

伊丹空港の展望台デッキからの景色

前回の九州旅はホテルだけ予約しての”GO TO キャンペーン”を使用していたけど、今回の札幌旅は楽天トラベルの「JAL楽パック(国内:航空券+宿)」で予約した。


何回か旅行をしだすと、最初の頃とは考え方が変わってくる。最初はなるべく費用が安く旅行できるようにと考えていたが、続けて旅行の計画を立てていくと”安定した旅行を優先”するという考えになっていく。となると格安航空券(LCC)もいいけど、値段が高い分サービスや安定した飛行をしてくれるJALやANAの飛行機を予約したくなってくる。普段なら値段的には断然LCCの方が安いので選択候補に入るのであるが、この時は”GO TO キャンペーン”が始まり出した頃。

しかも普通に航空券単体で予約すると結構なお値段になるのが、この楽天トラベル「JAL楽パック」だとホテルとセットだがそこそこのお値段に収まっていた。なのでここからさらに35%OFFとなるので、下手にLCCの飛行機を使うよりも、安定感のあるJALを使わない手はないと至った訳で。

 

伊丹空港展望台からの眺め 動画

 

 

伊丹空港ターミナル内のショップ

この伊丹空港はこの2020年7月に、約4年を掛けて大改修していた工事が完了して、30店舗を越えるお店が新たに出店されていた。しかしそんな大改修もまさかこの2020年にこんな大規模な新型コロナウイルス蔓延によって、世界各国で外出制限や渡航制限などが出されるなんて想像もしていなかった。なのでせっかくリニューアルオープンした割には、残念ながらガラガラな伊丹空港であった。。

 

 

伊丹空港ターミナル内のショップ1

現代の日本は過去の主要な産業は軒並みダウンしているが、観光産業だけは右肩上がり。特に海外からの観光客が日本にやって来てお金を使ってくれる”インバウンド客”が右肩上がりで増えていただけに、今回のコロナ禍による打撃はそんなインバウンド需要に対しての投資した人達にも大きなダメージを与えた年。

 

伊丹空港ターミナル内の搭乗口

このコロナ禍を受けてテレビの街頭インタビューなどの映像を見ていると、「前の状態に早く戻って欲しい!」と発言する人が多いように見受けられる。しかしそれは”過去のいい時を忘れられない”という人間の悪い習性が出ている。というのも時間は刻一刻と過ぎて行っており、そんな時間は止まる事も戻る事もない。ただ進むしか選択肢の無い時間の中で生きる者としては、失った過去ではなくて、新たに得られる未来を向いていくべきである。

「コロナは悪者ではない・・・」と3回唱えてみましょう!

 

伊丹空港ターミナル内の搭乗口から眺める飛行機

ただ今から振り返ると、この頃(2020年9月)はそろそろコロナウイルス騒動も落ち着いて、年明けにでもまた海外旅行に行けるようになるかもしれないと期待を持っていた時期。しかし今(この記事は2021年2月に作成)はそんな海外旅行すらも、まだまだ見通しが立たなくなってしまっていた。ワクチン自体は製造が始まり一部の国ではその接種が始まってはいるものの、全世界的には旅行者はワクチンを接種していても媒介者となる可能性もあり、当分は海外旅行もできないだろう。。

当分海外旅行は行けないので、国内旅行に岐路を見出した訳で・・・

 

札幌へ向かう飛行機機内

今更だけど”GO TO キャンペーン”で人が色んな場所へ動く事によって、感染が拡がるかなどの研究結果が出てきているようだけど、それは”GO TO キャンペーン”の影響というよりも、交通の便利さが格段に向上した20世紀の副作用だと思う。今から100年前には殆ど飛んでいなかった飛行機が、今では価格競争に陥るまでに過剰に休む間もなく飛び回っている。そう思うと人間が過ごしてきた時間も、このコロナ禍の中でそれぞれに自分自身や地球上で生きる生物として、色んな事を見直す機会になるのではないかと思う。

 

 

札幌へ向かう飛行機から見下ろす兵庫県の土地

伊丹から離陸するとまずは兵庫県の街並みが眼下に見える。なお兵庫県はゴルフ場がある都道府県では、上位2~3位のゴルフ場が多い県である。それは大阪府からは高速道路を使って、比較的早く行ける立地にあるから。かつあまり開けてない土地などが多く存在していたのが影響しているが、それは千葉県も同じように上位2~3位にランクしているのも同様な要因であろう。なお、日本で最もゴルフコースがあるのは、今から向かう北海道である。広大な自然が20世紀初頭に残っていたというのが、ゴルフ場が増えた一番の要因なのかもしれない。

 

また写真中央付近に見えるのは兵庫県にある阪神競馬場である。なお関西のJRA競馬場ではその存在を二分する京都競馬場がこの2020年11月~2023年3月までの期間を掛けて、大規模な改修工事に着工した。なので京都競馬場で例年行われていたG1レースの「天皇賞:春」や「菊花賞」などは、当分この阪神競馬場で実施されるのである。

 

札幌へ向かう飛行機から見下ろす札幌周辺の土地

伊丹空港から北海道最大の空港である新千歳空港までは、飛行機だと1時間45分のフライト。今まで乗ってきた国際線のフライトに比べると、あっという間に到着してしまうフライト時間ではある。北海道も札幌の中心部だけを見ると、すすきのなどの繫華街が賑わっているイメージがあるけど、一歩札幌を出るだけでこのような広大な農業地や自然などが広がっている場所である。

 

新千歳空港に到着

新千歳空港の到着ゲートから出てくる男

北海道は前回甥っ子ちゃんと2人で真夏に来たけど、あまりその細かい事まで覚えていなかったが、さすがに大阪に比べると同じ夏だったけど乾燥しているから涼しく感じた。そして嬉しそうに黄色いシャツを着て、空港到着ゲートから飛び出してきた男。。

 

新千歳空港の到着ゲートに待ち受ける女

そんな写真を撮って出迎えてくれたのはこちら、2019年2月に行ったモロッコ旅行で出会った”メグちゃん”。あんまり詳しく聞いてないけど看護系の仕事をしているそうだけど、今回はボクの訪問に合わせて3日間も休みを取ってくれて、それで色々札幌やその周辺を案内してくれるという。

メグちゃん
メグちゃん

待ってたよ~~、久しぶり!

 

 

新千歳空港の駐車場

この時はあまり分からなかったけど後になってみると、旅行先で知り合って仲良くなった人が自分の地元にわざわざ来てくれると、「せっかくやって来てくれたのだから、楽しませてあげたい!」という気持ちが強くなる。

この時のメグちゃんもそういう気持ちだったのだろうと、今振り返る今日この頃。。

 

新千歳空港の駐車場にあった車

さて北海道は広大な土地に対して公共交通の便がよくないので、移動には必然的に車に依存してしまう。メグちゃん曰く「普段あまり空港に来ないから、車がある場所まで辿り着けるかな?!」と本気で言っていた。。

そんな感じでもなんとか迷うことなく、メグちゃんの車の場所に辿り着く事が出来た。そんなメグちゃんの愛車は、こちらの「スズキ ハスラー」。今まであまり軽自動車に乗った事が無かったけど、思った以上に狭くも感じないし、通勤用の車には最適な感じだった。

 

 

新千歳空港から札幌市内へ移動

ただこのメグちゃんは運転オンチという感じで、よく道を間違えたりなどをするので、車に乗るなり「早速クルマ、運転するっ?!」って聞いたきた。てっきり冗談かと思っていたけど、本気で言っていたようだ。せめて旅先とかで言うなら分かるけども、まさか自分が普段住んでいる地元でそう来るとは思わなかった。

まだ着いたばかりなので、車の運転は遠慮しました・・・

 

 

「旧島松駅逓所」にある、クラーク博士の記念碑

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑

まずは昼を過ぎていたのでメグちゃんお勧めの寿司屋さんに行く途中にあった、クラーク博士の記念碑を見る為に国指定史跡となっている『旧島松駅逓所』という場所に立ち寄ります。

 

旧島松駅逓所【クラーク博士の記念碑】

 

住所:北海道北広島市島松1−1
入館料:大人200円 小中学生100円

 

 

 

旧島松駅逓所周辺

建物の名前となっている「島松」というのは、この横を流れる一級河川「島松川」から来ているようだ。ただこの場所に来たのには、そんな川や『旧島松駅逓所』を見たいからではなくて、クラーク博士の記念碑があるから来た訳で。。

 

旧島松駅逓所の説明

どうもこの場所は説明看板にもあるように「国指定史跡:旧島松駅逓所」がメインで、そこにやって来たクラーク博士がここであの有名なフレーズを発した為に、その記念として記念碑が建てられているだけの場所。だからよほどの歴史好きなどがわざわざ旧島松駅逓所という、北海道開拓時代に造られた「駅逓所」という宿場跡を見に来る場所が元々で、クラーク博士の記念碑はそのおまけである。。

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑を眺める

だけど一般観光客からするとそんな施設などには目をくれずに、一直線にクラーク博士の記念碑へと向かってしまう。この近くには旧国道があって、昔はそれが函館と札幌を繋ぐメインの馬車道であった。なので船で北海道にやって来た人達が行き来する場所の休憩所として、この地が選ばれた訳だ。そしてそんな休憩所に札幌から国へ帰るクラーク博士が立ち寄った場所でもあるという。

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑を眺める1

北海道に観光でやって来る人の大部分は、この「ウィリアム・スミス・クラーク」(William Smith Clark)という人物が何者なのかをあまり理解していないのではなかろうか。ただ札幌市内の観光名所にこのクラーク博士の像が置かれていて、その発したとされる「少年よ、大志を抱け!」(Boys, be ambitious)という有名なフレーズがあまりにも印象的すぎて、それだけを覚えてしまっている状態のように感じる。

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑の説明

そういうボクもそんなクラーク博士についての知識は殆ど持っていないので、今回の旅でクラーク博士がどういう人だったのかを勉強していこうと思います。まずその第一歩目にこちらの記念碑横に設置されている、クラーク博士の記念碑について説明文が彫られている石碑を見てみる。

クラーク博士は1826年アメリカ合衆国生まれで、化学・動物学・植物学といった学問に精通し大学で教鞭をとっていた。そしてマサチューセッツ農科大学で教えていた時に、そこに留学中だった日本人の新島襄(日本人として初めての学位取得者であり、のちの同志社大学の創設者)と出会う。彼に化学を教えていたクラーク博士は、江戸時代晩年に自由に海外渡航できない時代に密航してきた新島襄に誘われて、1年間の休暇を貰って日本へ旅立つのである。

 

函館の街には「新島襄 海外渡航の地碑」という、彼が密航に出発した場所に記念碑が造られています!

 

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑で記念撮影を

そんな長期休暇期間中に日本を訪れたクラーク博士だけに、もっと日本に長く滞在していたように思っていたが、実際に日本に滞在していたのは約8ヵ月間だけ。その短い期間ではあったが農学や植物学などについて日本人を教育し、去って行った。日本のプロ野球界に例えると「短期助っ人外国人」的な感じのお助けマンだったようだ。しかしクラーク博士にとって日本で過ごした時間はとても濃厚な時間だったらしく、アメリカに帰って以降は鉱山業などのビジネスを始めたが失敗をしたりして晩年はあまりいい事が無かったようだ。

北海童子
北海童子

だから余計に北海道の事が、いい思い出になったドウ!

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった「寒地稲作」

そしてそんなクラーク博士の記念碑横にはこのような記念碑も置かれているのが見える。「寒地稲作 この地に始まる」と文字が彫られていて、中山久蔵という江戸時代後半に大阪で生まれた人物が、寒い北海道で根付く稲作を開発した人物だという。

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった「寒地稲作」1

江戸時代まではこの北海道という土地は殆ど開拓されずに、現地のアイヌ民族が暮らすだけの場所であった。しかし江戸時代後半になると、北からロシアの戦艦などが開国を求めて押し寄せて来た。そんなロシアから北海道の大地を守るために、江戸幕府は東北の地域を守備する藩に北海道の警備を指示した。

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった「寒地稲作」1

そしてこの中山久蔵という人物は大阪の河内郡生まれだが、若い頃に家を出て日本中を放浪して、仙台藩に行き着く。そこで働き、明治維新後は北海道の開拓事業に従事して、北海道:道南以外では最初に稲作を成功させた人物である。そんな寒さに強く品種改良して生み出された米は、道民に無料配布された。そしてこの『旧島松駅逓所』という場所は、この中山久蔵が住んでいた場所でもあり、その駅逓所運営にも関わるのであった。

仁義スカンク
仁義スカンク

寒い場所でも育つ米を作った、偉大な男でプ~~!

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった「寒地稲作」の跡

米というのは元々日本にはなくて、中国大陸から運ばれてきたもの。元々はそれなりの気候条件の元に育つものであったが、日本国内に入るとそれぞれの土地で品種改良が行われて、日本の風土に対応する米が作られた。そんな日本の中でも一番北に位置して寒い場所である北海道では、その品種改良の際には温かい風呂の湯を使ったり、近くを流れる島松川の水を温めて水田に流したりという試行錯誤も行われたようだ。

北海童子
北海童子

今では普通に食べれる米も、こんな開拓者達の努力があって今では口にする事が出来るドウ!

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった蓮が咲く池

こちらは蓮がいっぱい咲いている池で、この池も中山久蔵が北海道向けに品種改良した場所である。一応この池はそんな蓮の池を復元したものだそうだが、日本古来からの仏教の教えで出てくる重要な植物の「蓮」は、このように裏で品種改良した人達のおかげで北海道でも生きていけるのである。

モ~モ~子
モ~モ~子

蓮の葉はまだ食べた事がないけど、旨いのかね?!

 

旧島松駅逓所周辺にあるクラーク博士の記念碑横にあった蓮が咲く池を写真に撮る

この中山久蔵という人物は、米意外にもこのような蓮や果樹園芸や牧場や養鯉などにもチャレンジした、今日の北海道の農畜産物の原点とも呼べる人物。そういう意味では本来は日本に僅か1年未満しかいなくて、西洋文化を教えただけに過ぎないクラーク博士よりも、このように北海道に新しい命を根付かした中山久蔵の方がもっと取り上げられていいのではないかと思う。しかし北海道に来る観光客はクラーク博士を知ってても、この中山久蔵という名前は知らなくて、そしてその大半が名前を知る事もなく北海道を去っていくのだが・・・。

 

旧島松駅逓所周辺にある中山久蔵の記念碑

そんな偉大な人物であった中山久蔵という人の記念碑は、このように旧国道の脇にある自宅だった建物裏にひっそりとたたずんでいる。多分性格的にも自分の名声を高めたいという人ではなくて、目の前の植物や生物と北海道で生きれるように品種改良を施すのが何よりもの楽しみだったのだろう。なおこちらの『中山久蔵翁頌徳記念碑』は大正6年に建てられたもので、その記念碑が造られた2年後に中山久蔵は92歳でこの世を去ったのである。

 

 

旧島松駅逓所周辺にある中山久蔵の記念碑近くに咲く植物

そんな中山久蔵の自宅敷地だった場所内に生えていたのは、こちら「オオウバユリ」というユリ科ウバユリ属の多年草。このオオウバユリは元々北海道内に自生している植物で、アイヌ人はこの植物の球根から澱粉を作って、薬や食料としていたという。

 

旧島松駅逓所の建物

こちらの木造の建物が宿場でもあった『旧島松駅逓所』の建物で、今では国史跡と指定されている。明治6年(1873年)に旧国道の馬車道が造られたのに合わせて、ここに宿場として造られた『旧島松駅逓所』。そして明治天皇が日本全国を行幸した際には、ここで休憩した事もあるという場所。

 

旧島松駅逓所の説明

この地に住んでいた中山久蔵は初代取扱人ではなくて、1877年に4代目の取扱人となって、この『旧島松駅逓所』が廃止される明治30年(1897)まで運営にあたっていたという。元々中山久蔵が住んでいた家を増築して、このような建物に造り替えたそうだ。

 

旧島松駅逓所の建物1

この訪問時は開館していたけど、無料かと思いきや、まさかの入館料が200円かかるという事で思わず足が止まってしまった。今から思うとたった200円の入館料だったのでちょっとだけでも中に入って見学してみれば良かったかなと思うけど、この時は全然この建物に興味が無くて、しかも13時を過ぎていてメグちゃんのカラータイマーも点滅していた頃合いだった。。

メグちゃん
メグちゃん

ワタシはお腹が減ってくると、すぐカラータイマーが点滅しちゃうの!

 

旧島松駅逓所の建物2

そして駐車場の方へと向かうと、その途中にこちらの「御大禮記念碑」という記念碑が見える。こちらは大正天皇が崩御して昭和天皇が即位した記念として、昭和3年に地元の広島青年団行在所団員らによって造られたものだそうだ。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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