赤レンガが特徴的なサッポロビール園で札幌開拓とビールの歴史を勉強

北海道/札幌旅④

 旅行期間:2020年9月1日~4日

日本国内で唯一のビール博物館

札幌市内を移動する

さて北海道は札幌をメインにやって来た旅で、旧島松駅逓所・さっぽろ羊ヶ丘展望台と巡った後は札幌市内中心部へ向かいます。なお今車で走っている場所は「白石区」という名前が付けられているが、北海道らしくない地名だと思っていたら、この辺りは明治維新後に勃発した戊辰戦争(新政府軍と旧幕府軍との戦い)で敗北した仙台藩白石城城主の家臣達が多く移住してきた為に、このような「白石区」という名前になっていた。

北海童子
北海童子

約150年前までは、特に何もなかった場所だったんだよ!

 

 

札幌市内にて

札幌市内を移動する1

今回の札幌旅は幸運にも恵まれたからか、毎日晴天で気持ちいい天気が続いた。夏は暑いけどこのようなスッキリと晴れ渡った景色が綺麗に見えるので、暑さを耐えてそんな景色を眺めるのが楽しい時期でもある。

 

サッポロビール博物館にて

札幌市内にある「サッポロビール園」に到着

そして次の目的地の北海道札幌市東区にある「サッポロビール博物館(ビール園)」に到着する。お酒を飲まない人にはビール工場の見学等には興味が無いかもしれないけど、やっぱりビール好きからするとビール工場はたまらない天国のような場所。

忙しいクマ
忙しいクマ

見学の後にビールが飲めるのがいいだけやろ!

 

 

 

札幌市内にある「サッポロビール園」を行き来するバス

なおこのサッポロビール博物館がある場所は、JR札幌駅から徒歩で約20分程掛かる場所なので、このようにサッポロビール園に辿り着く路線バスも運行している。車に乗って見学にやって来ると残念ながらビールの試飲ができないので、わざわざ車に乗らずに電車でやって来る人も多いようだ。

 

札幌市内にある「サッポロビール園」の脇にある樽

この場所はサッポロビールの発祥地ではなくて、その発祥地はこの近くにある今では「サッポロファクトリー」という大きなショッピングモールになっている場所。こちらの建物は元々は製糖工場として造られたもので、その後に増産に向けてサッポロビールが買い取って製麦工場とした場所。

 

札幌市内にある「サッポロビール園」の建物

この建物は明治21年(1888年)に建てられた、歴史ある赤レンガが特徴的な建物である。その後1965年までは工場として稼働していたが老朽化もあって、翌1966年にサッポロビール創業90周年を記念しての「開拓使麦酒記念館」として生まれ変わる。そして建物内にはビアホールの「サッポロビール園」が併設されて、ジンギスカン鍋を食べながらサッポロビールを楽しめる場所となった。

 

 

サッポロビール博物館へと進む

札幌市内にある「サッポロビール園」の入口に向かう

こちらは今では「サッポロビール博物館」となっている建物の入口。2020年はコロナ禍によって見学が中止になっているビール工場とかもあったけど、このビール博物館は開いていた。

 

札幌市内にある「サッポロビール園」の入口にある試飲できるビールの種類

大手ビール工場の見学では工場見学からビールの試飲まで無料の所もあるけど、サッポロビールは基本的に試飲は有料のようだ。ただ無料のビール工場見学後の試飲は、時間と3杯までという制限がある所が多く、味わって飲むというよりも「早く飲まないと!」という気持ちで飲まざるを得ないようにも感じる場所でもある。

 

札幌市内にある「サッポロビール園」の入口を進む

さてビール博物館の入口で住所・名前・連絡先を用紙に記入して、検温して問題が無かったら館内へと進みます。すっかりコロナ禍にも慣れてくると、特に抵抗なく自然とこのような流れも気にしなくなってきます。

 

札幌市内にある「サッポロビール園」の入口を進む1

まずはエレベーターで3階まで登って、そこから下るようにビール博物館を見学していきます。そして早速見学する人達の目に飛び込んでくるのは、こちらの大きな煮沸釜である。

 

「サッポロビール園」内のビール貯蔵タンク

こちらの大きな煮沸釜はこのビール博物館となっている元製麦工場から移転した札幌第二工場で、1965~2003年までの間に実際に煮沸するために使用していた銅製の釜である。

 

「サッポロビール園」内のビール貯蔵タンク1

この煮沸釜は高さ約10m・直径6.1m・容量は85KLもある巨大なもの。この巨大な大きさはサッポロビールの生産量の多さを象徴するものでもある。なお昔は日本のビール業界でシェア第1位となっていたサッポロビールであるが、今は①アサヒビール②キリンビール③サントリービール④サッポロビールと第4位となっている。

 

 

「サッポロビール園」内のビール貯蔵タンクを見る男

今までアサヒビールやキリンビールなどのビール工場を見学した事はあるけど、このサッポロビールは初めての見学でウキウキしている男。

忙しいクマ
忙しいクマ

単に早くビールが飲みたかっただけやろ!

 

「サッポロビール園」内のビール貯蔵タンク周辺のステンドグラス

この建物がビール博物館としてオープンしたのは1987年で、その後に2度に渡って建物はリニューアルされている。なお明治時代に建てられた赤レンガの建物だけに、国からは重要文化財の指定にしたいという申し出があったがそうなると自由に改装などが出来ない為に辞退したという。

北海童子
北海童子

下手に文化財や遺産に認定されると、ちょっと何かを変更するだけで手続きが大変みたい・・

 

「サッポロビール園」内のビール貯蔵タンクを進む

そんな大きな煮沸釜を見ながらスロープを降りて行くと、ビールの試飲場所・・・ではなくて、ビール博物館だけあってそれなりの資料が並んでいるのが見える。。

忙しいクマ
忙しいクマ

ビール飲みたい気持ちを堪えながら、ちょっと位勉強せえ!

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館

サッポロビールの歴史は北海道開拓の歴史とも被る。このサッポロビールの前身のビール会社は、北海道開拓次官の黒田清隆が指揮して造られたものである。だから北海道開拓と切り離せない歴史ともなっていると言える。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル

江戸時代末期には海外から多くの軍艦などがやって来ていたが、領土が近いロシアとは小競り合いが続いていた。そして明治維新となって明治時代になると、明治政府は当時は「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれてきた北の大地を「北海道」と名付けて、開拓を命じた。そして初期に開拓を命じられたのは早くから西洋文明を取り入れて、日本でいち早く反射炉やアームストロング砲などを導入していた佐賀藩の藩主だった鍋島直正が初代開拓長官に任命される。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル1

しかし初代開拓長官となった鍋島直正は実務が始まる前に辞任してしまい、その後任によって北海道開拓が行われるが、本州とは違って寒い極寒地域での現場作業は難関を極めた。合わせて当初の予算も早々に底をつき、北海道開拓事業は停滞する。そこで明治政府は北海道を分割して全国の藩に支配させる方針にしたが、これも上手くはいかなかった。明治3年(1870年)に樺太がロシアと小競り合いの場になっており、その解決に開拓次官として後に”第2代内閣総理大臣”にもなった黒田清隆が選ばれる。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル2

開拓次官に任命された黒田清隆は早速樺太に視察に訪れると、現状のままでは数年後にロシアの手に落ちるとの報告を明治政府に提出する。樺太から南下してくるロシアの侵攻を防ぐ為に北海道開拓の必要性を強く認識した明治政府は、早速「開拓使十年計画」と呼ばれる大規模な予算を組んだ北海道開拓計画を決断した。

 

その計画には

【開拓使十年計画:概要】
①北海道開拓資金:10年間で1,000万円(現在の価値にすると約1,000億円以上とも)
②開拓は西洋文明を基礎として導入する
③開拓の指導は海外から雇った外人の指導の元に行う

という内容だった。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル3

このような明治政府の西洋文化を積極的に導入する方針だったので、アメリカから来たクラーク博士を筆頭に何人もの有能な外人が日本に来日した。しかしその中でも未だに有名なのは、さっき訪れた「さっぽろ羊ヶ丘展望台」などに銅像が置かれているクラーク博士だけで、他の人物の名前はあまり知られていない。そして北海道は札幌に開拓使が設置されて、以降は札幌を中心地として開拓が進められた。

 

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル5

そんな明治初期の北海道開拓事業で未だにその事業が継承されているのが、クラーク博士が教鞭を取った今の北海道大学と、このサッポロビールである。黒田清隆は開拓と共にそこに事業を展開し、村橋久成や中川清兵衛といった人物達を中心として「開拓使麦酒醸造所」が1876年に設立される事になる。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル4

こちらは中川清兵衛という人物の肖像画で、元々はドイツ商館で働いていた人物。そして幕末の時期に密出国してイギリスへ渡って、その後にドイツに渡り本場でビール醸造技術を学んで1875年に帰国する。その後は北海道の札幌に移住してビール造りに尽力する事になる。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル6

江戸時代も後期には幕府の権限もかなり弱まっていたようで、逆にどんどんと世界の最先端を走る西洋諸国との力差が歴然となってきて、中川清兵衛のように幕府に隠れて海外へ渡航する者が次々と出てきた。そんな無茶な選択をした中川清兵衛はドイツで外交官だった青木周蔵と知り合い、ドイツの大手ビール会社で働く事が出来た。

メグちゃん
メグちゃん

昔からチャレンジ精神のある人が、歴史を切り開いてきたのよね~!

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル7

そして「開拓使麦酒醸造所」に尽力した代表者のもう一人は、こちらの村橋久成という薩摩藩出身の人物である。彼は五代友厚が計画した「薩摩藩遣英使節団(薩摩藩第一次英国留学生)」の一員として、彼も密出国して海外の西洋文化を学んだ。しかし村橋久成は中川清兵衛とは違って西洋文化という全然違う生活環境に馴染めなかったらしく、わずか1年で早々に帰国する。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル8

そんな志半ばに挫折したイギリス留学後に薩摩に戻った村橋久成は、その後に勃発した戊辰戦争で大砲隊長として部隊を率いて戦い、東北地方や函館での戦いでも活躍した。その後は北海道開拓事業に参加して黒田清隆の指示で、サッポロビールの前身会社である「開拓使麦酒醸造所」設立に尽力した。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル9

元々このビール工場はまず東京で試験的にビール醸造をして成功してから、北海道にビール工場を移す予定であった。だが村橋久成は北海道の気候条件などがビール醸造に向いているので最初から北海道でビール醸造をすべきと進言し、それが認められて札幌に麦酒醸造所が造られる事となるのである。しかし村橋久成の晩年は托鉢僧となって全国を回って、最後は行き倒れになったという。

 

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル10

そんな中川清兵衛と村橋久成の努力の甲斐あって、1876年に現サッポロビールの前身会社である「開拓使麦酒醸造所」が設立されて、翌年からビール製造が始まっていく。このビールという苦いアルコールは日本が昔から飲み続けてきた日本酒とは異なって、苦すぎる飲み物である。しかし明治時代となって積極的に西洋文明を取り入れた日本は、西洋の文化を美化し過ぎていた側面もあってか、西洋のアルコールを好んで奨励したのだろう。それもあって国内では年々ビールの生産量は増加して、国内で飲まれるアルコールのシェア第1位となるのである。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のパネル11

ドイツで本場のビール醸造を学んだ中川清兵衛だったが、気候環境が異なる日本ではビール造りには試行錯誤したようだ。ビール醸造過程で低温で麦芽を発酵・熟成させる為の氷が必要だったが、初年度は思ってもみない暖冬になって氷が上手く調達できずにビールの仕込みが遅れる事になったそうだ。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館を見学

結局ビール造りとはいえ、酵母菌などは生き物なのでそれぞれの環境に適応させるのに苦労したみたいである。しかしこちらの電報にあるように、試行錯誤を繰り返して何とか新しい酵母を入手できたと知らせる朗報のようだ。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館を見学1

そちらの壁にはその「開拓使麦酒醸造所」時代からの、ビール瓶に張られたラベルのデザイン一覧が載っている。

 

なお2021年にはサッポロビールから発売予定だった「サッポロ 開拓使麦酒仕立て」という缶ビールのデザインで、「LAGER(ラガー)」と表記するデザイン部分を誤って「LAGAR」というスペルでそのまま印刷して仕上がってしまった。発売前に社員がそのスペルミスに気付き、発売を中止すると発表した。しかし中身には全く問題も無く、単なるスペルミスだけで廃棄される可能性もあった商品に、世間からは「そのまま発売して!」という声が多く集まった為に一転そのまま発売される事となった。

商品パッケージを作る会社に勤めていたので、こういった問題はチラホラとありましたね・・・よくやるのは訂正シール張りの対応ですが。。

モ~モ~子
モ~モ~子

担当者が何重にもチェックして進めるけど、皆思い込みがあるのでこういったミスを見過ごしてしまうんだね!

 

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館を見学2

そしてサッポロビールのデザインで今も昔でも変わらずに入れられているのが、「星マーク」である。この星マークは通称「北辰旗」とも呼ばれる開拓使の旗のデザインでもあった。だからそんな北海道開拓事業のシンボルとして動き出したサッポロビールは、いまだにその歴史を背負って流通されているのである。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館を見学3

その「開拓使麦酒醸造所」が設立されてからは、このように続々と色んなラベルデザインへと変換していくが、どのラベルにも必ずこの開拓使のシンボルである星マークが必ず入れられているのが分かる。いかに時代が変わろうとも、本来のシンボルそのものは変わらないという事なんだろう。

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館を見学4

こちらは近年のラベルなので、見慣れた黒いデザインの黒ラベルである。今までのラベルデザインでもこのように細かい英語単語がビッシリと入れられているので、今までスペルを間違えずに発売していた訳だ。そう考えるとサッポロビール内でデザインに対しての管理体制などが甘くなって、単に油断していたともいえる2021年初頭のラガー表記ミス事件であった。

印刷業者側も連帯責任として、出稿された文字などの確認は暗黙の了解ともなってましたね・・・

 

「サッポロビール園」内にある歴史資料館のマーク

そして見慣れたサッポロビールのロゴデザイン。個人的にはこのロゴを店頭什器に入るデザインとして印刷した事があるけど、このような真っ黒のベタ印刷ほど気を使うものはない。世間的には単純に「黒」と識別する色も、細かく言うと色んな黒の種類があって、またオフセット印刷という一番ポピュラーな印刷方式ではベタ塗り印刷が一番ムラが出やすい。

なのでこういった印刷物を見るだけで、嫌な臭いを嗅ぎ取ってしまうのである。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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