札幌大倉山にあるオリンピックミュージアムで冬季オリンピックのお勉強

北海道/札幌旅
 旅行期間:2020年9月1日~4日

冬の祭典「冬季オリンピック」

大倉山ジャンプ競技場の景色

ここは札幌市内の中央区西側に位置する「大倉山ジャンプ競技場」に来ています。

スキージャンプ台というと雪が降り積もる冬シーズンに使われているイメージしかないけど、冬場だけでの稼働だけでは採算的にもシンドイので、春や夏場も多くの観光客を集める為に大倉山頂上へ昇るリフトが運行していたり、冬季オリンピックの歴史が展示されている「オリンピックミュージアム」など雪が無くても充分に楽しめる場所となっている。

 

大倉山ジャンプ競技場にて

大倉山ジャンプ競技場にて

冬の競技に使われる会場というのは冬しか稼働していないイメージがあるけど、実際には夏場などでも選手は練習しないといけないので、このように大倉山ジャンプ競技場も基本的には人工芝でその斜面が覆われている。

そしてこの人工芝の下はコンクリートで固められた地盤となっているので、衝撃性に優れたクッションがその間に収納されており、ジャンパー達の衝撃を減らす役割を担っているという。

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに進む

さてまずジャンプ台の上までリフトで昇って、その高い大倉山頂上付近からの眺めを満喫した後は、大倉山のリフト券とオリンピックミュージアムの入場券がお得なセット券として購入しているので、オリンピックミュージアムの方へと向かいます。

そしてこのオリンピックミュージアムは山の斜面付近に造られているので、このように入口側から下に向かって見学していく造りになっている建物。

 

 

札幌オリンピックミュージアムにて

大倉山にあるオリンピックミュージアムの入口

この「札幌オリンピックミュージアム」は大人600円で入場できる。なおリフトとミュージアムのセット券やリフト券に限っては、札幌市民だと割引があるけど、このミュージアム単体だけはそういった割引制度が無い。

逆にそれだけ大倉山ジャンプ競技場にやって来る観光客は値引きせずにも入館するからか、それとも館内の資料や設備に自信がある現れなのか?!

 

【札幌オリンピックミュージアム】(有料)

住所:北海道札幌市中央区宮の森1274
電話番号:011-641-8585
【営業時間】
〇夏期(5月1日~10月31日) 9:00~18:00
●冬期(11月1日~4月30日) 9:30~17:00
※最終入館は営業終了30分前まで
料金:大人600円 中学生以下無料 ※リフトとのお得なセット券あり

 

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムの入口1

このオリンピックミュージアムは中学生以下が無料で入れる施設なので、社会見学などで大勢の学生が来る事を想定してか、入口には多くのアルコール消毒のポットが置かれていたのが見える。

なおこの訪問時も中学生と見られる団体が押し掛けて来ていた。このミュージアムの展示コーナーではそんな大勢の中学生達はあまり気にならなかったけど、下の体験コーナーに行くと中学生達が器具に群がって繰り返し遊んでいたので、団体と鉢合わせるとちょっとイラっとする場所でもある。

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに展示されている日本選手団の衣装

この札幌オリンピックミュージアムに入ると、いきなり2018年に韓国で行われた「平昌オリンピック」で日本選手団が着ていたジャンパーがお出迎えしてくれる。

この2018年平昌オリンピックで選手たちが使った”日本代表選手団オフィシャルスポーツウェア”は、全てスポンサーが提供してくれるものである。

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに展示されている日本選手団の衣装1

この2018年平昌オリンピックでの”日本代表選手団オフィシャルスポーツウェア”は、日本が世界に誇るスポーツウェア会社である「アシックス社」である。

このジャンパーやマフラーやニット帽以外にも、靴下や中に着るベストや靴が2種類も付いていたりと、総勢21点ものウェア関係が無償で提供されているのである。

 

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに展示されている日本選手団の衣装2

なお選手団にはこのスポーツウェアとはまた別に、”日本選手団公式服装”と称する移動用時に着用するジャケット・スラックス・シャツ・ネクタイなど8~9点が、紳士服専門店「AOKI」より無償で提供されている。

衣装だけでもこれだけの点数がスポンサーから提供されている。これだけの点数の衣装が100人を超える選手団と共にコーチ陣にも贈られる事実を見ると、スポンサー無くして今では成り立たない大会となってしまっているオリンピックの裏側が垣間見れる瞬間でもある。。

メグちゃん
メグちゃん

大会終わったら、メルカリで売りたくなるよね~!

 

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに展示されているメダル

こちらには2018年平昌オリンピック時に使われたメダルが展示されている。この平昌オリンピックで日本が獲得したメダルは「金4・銀5・銅4」という成績で、メダル総獲得数13個は長野オリンピックでの獲得数を超えて過去最多となった。

その金メダルの中でも印象的だったのが、大会二連覇をしたフィギュアスケートの羽生結弦選手である。冬のオリンピック競技個人種目で日本人として初めての連覇であった。

羽生結弦選手以外の金メダリストって、覚えてますか??

メグちゃん
メグちゃん

う~~ん、確かスピードスケートで何だかんだと勝っていた印象があるね~!

 

 

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに映し出されている、聖火リレーの様子

夏のオリンピックのイメージが強い聖火であるが、冬季オリンピックは1896年に開催された近代初の夏季オリンピック(アテネ大会)が行われてから、約30年後の1924年にフランスの「シャモニー・モン・ブラン」(Chamonix-Mont-Blanc)というスキーリゾートとなっている地方で開催されたのが最初である。

なおこの最初の冬季オリンピック大会では16カ国から258名が参加した今と比べると小規模な大会で、日本は関東大震災の翌年でもあったので選手団の派遣を見送って参加しなかった。

メグちゃん
メグちゃん

へ~~アテネ大会は知っているけど、冬季オリンピックの最初の場所は知らなかった~!

 

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに展示されている、秩父宮様の肖像画

そして最初の部屋に入ると、まずは昭和天皇の弟にあたる「秩父宮雍仁親王」の肖像画が置かれている。秩父宮雍仁親王の名前は「秩父宮ラグビー場」などで耳にする機会が多いけど、生前はラグビーやスキーなどを好んでいた為にそれぞれの発展に尽力した。

それがあって当初は1940年に札幌で開催される予定だった冬季オリンピック(戦争の為に見送りに)の為に、北海道を訪れた秩父宮雍仁親王が大倉喜七郎など政財界に依頼して、この「大倉山ジャンプ競技場」「札幌グランドホテル」などが造られる事になった。

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに用具などが展示されている

そういう歴史を知ると単なるスポーツ好きが集まって今のオリンピックに参加できるようになった訳ではなくて、裏では政財界の大物が動いた為に今ではこのように日常的に楽しめるスポーツとして成り立って行ったのである。

だからオリンピックという大会は”商業目当ての大会”とその規模が大きくなってしまい過ぎてこう揶揄される事も多いけど、そんなスポーツ界が成り立つ前提には大きな資本が必要な事を忘れてはいけないと思う。

 

大倉山にあるオリンピックミュージアムに用具などが展示されている1

そして次は昭和天皇の弟「秩父宮雍仁親王」の、更に弟(大正天皇の三男)である「高松宮宣仁親王」の写真も展示されている。

高松宮宣仁親王も兄の秩父宮雍仁親王に負けず劣らずスポーツをこよなく愛しており、自分の名前が冠された大会では毎年のように出向いて直に優勝杯などを手渡していたという。なお個人的に高松宮という名前を聞いて思い浮かべるのが、JRA競馬G1レースの「高松宮杯(今の高松宮記念)」である。

 

 

歴代スキージャンパー達の写真

そしてこちらには昔のジャンプしている選手の写真が展示されている。今から約80年前にここ大倉山ジャンプ競技場(「大倉シャンツェ」と呼ばれていた)からジャンプする安達五郎という、北海道余市郡出身で冬季オリンピックに2回参加した事のある選手の姿である。

スキージャンプの競技は近年になってから画期的な”V字ジャンプスタイル”が開発されたが、それまではこのようにスキー板は左右並行にして、その代わりに手を広げているスタイルが一般的であった。

 

歴代スキージャンパー達の写真1

こちらは上の写真の約20年後に大倉山ジャンプ競技場でバッケンレコード(そのジャンプ台における最長不倒距離)を記録した柴野宏明という選手がジャンプする様子である。

このジャンプ姿を見ても、昔の並列スキー板スタイルには大きな変化が無いのが見て取れる。しかし手の位置が体の横ではなくて、前方に投げ出す”フォアハンド・スタイル”というのが主流だったようだ。

 

歴代スキージャンパー達の写真2

こちらの写真は昔大倉シャンツェの隣に造られていた、やや小さめのジャンプ台だった「雪印シャンツェ」が写っている写真。

雪印シャンツェは1958年から10年間使用されたが、1972年に決定した札幌オリンピック開催の為に、隣の大倉シャンツェと一緒に大規模な工事が行われて、後の「大倉山ジャンプ競技場」へと生まれ変わる事になる。

 

 

歴代スキージャンパー達の写真3

こちらの原田雅彦選手がジャンプする姿を見ると、大昔のスキージャンプ姿から変化しているのが一目瞭然と分かる。

ボクら世代にとっては”悲劇のヒーロー”でもある原田雅彦は、1990年頃から主流となってきた”V字スタイル”に移り変わっているのが分かる。

1994年リレハンメルオリンピックのスキージャンプ団体では、最後2本目のトリを飛ぶ原田が大きく失敗しなければ金メダルは確定という状況だったが、そこで世間に「プレッシャーに弱い原田」というイメージが付くほどにジャンプを大失敗して銀メダルになってしまった。

その大失敗で大バッシングを浴びて、その後はジャンプスタイルを改造して大スランプに陥る。

そして時は流れて、1998年の長野オリンピックのスキージャンプ団体戦。日本勢が逆転トップに立った2本目の3番目に悪天候の中で、ゆっくり腰を上げた後にジャンプ台を降りて行く原田の姿を、固唾を飲んでテレビ中継を見守っていた記憶が今でも蘇る。。

 

メグちゃん
メグちゃん

そうそう、今でも思い出す名場面よね~!

 

【原田雅彦】立て 立て 立った! ヒーローの誕生

 

昔使われていたスキー板の数々

こちらの部屋にはそんな昔からスキーで使われていたスキー用品が展示されていて、これらは秩父宮雍仁親王が所蔵していた物だそうだ。

夏のオリンピック競技に比べると、冬のオリンピック競技のウインタースポーツはその道具の発展により、過去と比べると記録が大幅に生まれ変わる程になっている。

 

昔使われていたスキー板の数々1

昔は木の板が使われていたスキー板。今ではそんな木の板を使う選手など、見かけない程に時代は変わっている。ウインタースポーツは使う器具がスポーツ結果に及ぼす影響が、それほどに大きいという事が分かるのである。

 

昔使われていたスキー板の数々2

こちらには「大野精七」という、札幌医科大学や北海道医療大学などで初代学長を務めた医学博士のコレクションも展示されている。茨城県出身の大野精七は、現在の北海道大学である北海道帝国大学へ赴任した影響でスキーを始め、次第にハマるようになる。

それが嵩じて北海道スキー業界の発展に尽力した人物でもある。そしてこの大倉山ジャンプ競技場の一角には、大野精七の記念碑が1982年に建てられている。

 

昔のオリンピックを伝える書籍

このようにどのスポーツにも今に至るまでに色んな歴史があって、その裏では色んな人達が尽力したおかげで今が成り立っているのである。

そして幻に終わった1940年札幌オリンピックだけど、それを目指して会場などを整備したおかげで、1972年にアジアで初めてとなる冬季オリンピックが行われて、そこで活躍したスキージャンプの影響などで、日本は一線級のスキージャンパーを今でも輩出している訳である。

 

昔使われていたスキー関連の品々

今では大昔に使われていたスキー板が原始的に見えるけど、これが使われていた当時は最先端のスキー板だった訳である。スキー板にも色んな試行錯誤があって、元々は真っ直ぐだった板の先端が段々と反り上がっているのも分かる。

 

昔使われていたスキー関連の品々1

こちらには紀元前の時代にロシアで使われていたという、スキー板のレプリカなんかも展示されている。雪深い地帯のロシアならではの、雪国で生きる生活の糧だったスキー板。

 

オリンピックの歴史展示

こちらにはこの札幌でオリンピックが成り立った経緯の展示がされていて、その歴史を振り返る事が出来る。まず札幌で冬季オリンピックを開催しようとなった経緯は、秩父宮雍仁親王が北海道を訪れて政財界にその開催を強く推し進めた事にあり、それに応えた大倉喜七郎などの影響が大きい。

しかし1940年に札幌での開催が決まった冬季オリンピックは、残念ながら当時の日本は軍事国家として戦争路線真っ盛りの時期だったので、仕方なく辞退する事になる。

 

 

オリンピックの歴史展示1

そして日本は第二次世界大戦で敗北して連合軍に占領されてしまうが、その後の高度経済発展のさなかに行われた東京オリンピックが成功した事もあって、日本&アジアで初の開催となる札幌オリンピック招致活動が1964年に始まり、1966年には札幌オリンピックの1972年開催が正式に決定される。約30年の空白の期間を経て、再び札幌にオリンピックの火が灯る事になった。

 

オリンピックの歴史展示2

今のオリンピック招致活動では、裏でオリンピック選考委員を接待したり賄賂を贈ったりしているのだが、それだけの費用を払う程に開催地域・国からすると恩恵があるという証でもあるオリンピック。

この記事を作っている時点では2021年に延期された東京オリンピックはまだ開催されるのかは未定だが、とりあえず東京五輪組織委の森会長が女性蔑視発言でその会長の座を辞めた頃である。

 

 

オリンピックの歴史展示4

こちらに掲げられている『虹と雪のバラード』という歌は、ある程度お年を重ねた北海道民にとってはお馴染みの曲で、1972年札幌オリンピックのテーマソングとして作られた歌である。

 

『虹と雪のバラード』(1971) -トワ・エ・モア  動画


作詞者:河邨文一郎、作曲者:村井邦彦でトワ・エ・モワというコンビが歌ったもの。

 

なお2030年に札幌で再び冬季オリンピック開催を目指している札幌の街では、オリンピック招致運動を盛り上げる為と共にこの札幌でオリンピックが行われた歴史を思い出してもらう為にも、札幌市営地下鉄各駅の入線メロディーに10秒間の『虹と雪のバラード』を流しているという。

メグちゃん
メグちゃん

そうなの?! 普段地下鉄乗らないから全然気づかなかった~!

 

オリンピックの歴史展示3

こちらは1972年札幌オリンピックの公式ポスター。実際のオリンピックでは表部分の選手たちの競技している姿が見られるが、このポスターのようにその裏側では当時の日本デザイン界の大御所達がそのデザインを、頭を絞ってアイデアを出し合っていた。

亀倉雄・田中一光・永井一正・原弘など総勢8人のデザインコンペの中から、永井一正の創ったこのポスター下側にある日の丸と雪の結晶マークのコンビネーションロゴが選ばれた。

 

 

札幌オリンピックのメダル

こちらは1972年の札幌オリンピックでの入賞した選手に贈られた、金・銀・銅メダルである。このオリンピックのメダルのデザインを決める人間になるのが、日本デザイン協会の中でも一番の名誉かもしれない。

なお延期された2020年に行われるハズだった東京オリンピックのメダルデザインは2019年に発表されている。この東京オリンピックのメダル案はトップデザイナーのコンペではなくて、プロのデザイナーからデザイン科の学生まで幅広く公募されて421案の中から川西純市氏(53歳)のデザインに決められた。

 

 

札幌オリンピックのメダル1

この1972年札幌オリンピックのメダルデザイン裏面は、日本を代表するグラフィック・デザイナーの田中一光が担当したもの。

なおボクのオヤジはデザイナーだったが、この田中一光氏に特に憧れていて、家には10数枚もの田中一光氏の作った版画が置かれていた。

そしてその憧れの極めつけは、ボクの兄に同姓同名「田中一光(いっこう)」と名付けた事である。オヤジから尊敬する人物の名前を付けたのに、その当人であるボクの兄はその変わった名前で虐められるのが嫌だったらしく、一光を「いっこう」ではなく「かずみつ」と自分では名乗っていたのであった。。

 

 

札幌オリンピックの記念色紙

こちらは1972年札幌オリンピックの”日の丸飛行隊”と呼ばれた、スキージャンプで表彰台を日本人で独占した時の笠谷幸生・金野昭次・青地清二のサイン色紙が展示されている。

それまではヨーロッパや北欧が独占していた冬季オリンピックに、風穴を開けたオリンピックでもあったのだ。

 

札幌オリンピックの歴史

約11日間に渡って行われた札幌オリンピックだけど、やっぱり自分の知らない時代のオリンピックは当然の如く思い入れが無いので、”日の丸飛行隊”の活躍ぐらいしか分からない。

ボクらの世代とかは1998年長野オリンピックが一番印象に残っているけど、2000年以降に生まれた子達に同じ熱で長野オリンピックの話をしても全然伝わらないのであろう。。

 

札幌オリンピックの歴史1

どうしてもオリンピックというとその表部分である競技に目が行きガチだけど、その裏ではその開催される都市のインフラなどが整備される事によって、都市が発展する事に繋がる。

札幌も1972年にオリンピックを行った際に合わせて地下鉄なども整備されたので、招致した都市側からするとその後の経済発展まで加味しての誘致になる訳で、そういった面では10~20年後の経済発展を想定して多額のお金を掛けてまでオリンピックを誘致するのである。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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