明治時代の風情を残す小樽運河と、廃線となってしまった旧手宮線跡

北海道/札幌旅

 旅行期間:2020年9月1日~4日

 

生き残った運河と、廃線となった線路跡

小樽の街の建物1

北海道の西側にある、日本海に面した小樽の街は明治時代~昭和前半頃に全盛期を迎えた港町跡。しかし平家物語じゃないけど、そんな栄えた港町も程なくして廃れてしまう時代が訪れる。そして栄えた小樽の街は低迷期に入ったのであるが、その下手に繫栄しつづけずに廃れてしまったのが、逆に観光都市としての方向転換を思い切って出来た原因にもなっているのではなかろうか。

 

小樽の街にて

小樽の街の建物

下手に存続していると、今既得権益を手にしている人が「今あるものを失う事が怖い」と思って、思い切った商業都市から観光都市へと大きな方向転換にも反対意見が沢山出ていたかもしれない。しかしあまりにも廃れていた為に、「逆にこのままじゃダメだ・・・」とみんなが思わざるを得ない状況まで追い込められていたからこそ、ここまで思い切った観光地都市として生まれ変わる事が出来たのかもしれないと思う。

メグちゃん
メグちゃん

世の中には何がキッカケでいい事が起こるか、全然分からないよね~!

 

小樽の街にある、ルタオ(LeTAO) の店舗

さてとりあえず小樽の街で行ってみたかったオルゴール博物館の見学はすでに済ませたので、後はもう少し小樽の街を軽く散策してウォーキングがてらに散歩してみる事に。こちらの「ルタオ(LeTAO)」というお菓子のお店は、先程メグちゃんがチョコレートの試食をしていたお店。

メグちゃん
メグちゃん

昔仕事場でこの「ルタオ(LeTAO)」の差し入れを貰って、すっごく美味しかった記憶があるのよ~!

 

小樽の街にある「 北一ヴェネツィア美術館 」の内観

こちらは先程反対側の正面からその建物を眺めた、北一硝子が運営する「北一ヴェネツィア美術館」である。なお1階部分は売店などもあって無料で見学ができるが、2階以上では入場料金(大人700円)が発生する。ここは基本的に写真撮影は禁止となっているが、このゴンドラだけは例外的に撮影が可能だった。

 

2018年の秋にイタリア旅行した際に、ベネチアで乗ったこの独特なゴンドラ。しかしこのベネチアを訪問した際は秋時ならではの浸水している時期で、一応ゴンドラには乗れたものの、残念ながらベネチアの街内を走る運河は水かさが高くて入れなくて、仕方なしにベネチア島外周を回った記憶がある。。

仁義スカンク
仁義スカンク

そんなアクシデントの方が記憶に残り易いプ~~!

 

小樽の街を流れる運河

小樽の街が繁栄し出した明治時代は、まだ今のように車や電車などの交通網が敷き詰められていない時代だったので、このように街中を走る運河によって、小樽の街を起点に船で輸送される交易品が運ばれていた。元々はそのような荷物運搬の為に使われていた運河ばかりだったので、昔は汚い川となっていたようだ。しかし今では観光地された街に合わせて、水質浄化に取り組んだおかげで昔のような汚さは無くなっているという。

メグちゃん
メグちゃん

昔の小樽の川というと、汚れているイメージしかなかったのよ~!

大阪でいう道頓堀川のような、小樽運河ですかね!

 

小樽の街を散策

小樽の街に来て少し歴史的な建造物が並ぶ街並みを歩きながら見物して、オルゴール博物館を見学しただけで、もう小樽の街は充分に見た気持ちになっていた。しかしこの炎天下の中で陰になっている場所で立ち止まって冷静に考えてみると、その代表的な小樽運河がこの小樽の街での一番の写真スポットになっているので、それを見ない訳にはいかなかったのである。

 

 

小樽運河の「浅草橋」にて

小樽の街を散策1

そして爽やかな川のように見える小樽運河に架かっている橋は、「浅草橋」という名前が付けられている。これは東京の浅草に由来する訳ではなくて、近くにある「天台宗 浅草寺」の参道だったからそう名付けられたという。そしてこの浅草橋からの景色が、よく小樽の街として写真に撮られている人気の観光スポットでもある。

 

小樽運河が一望できる場所

この目の前に見える小樽運河は、元々あった運河ではなくて、内陸を堀のように掘って造った運河でもない。その答えは湾曲している運河にヒントがあるのだが、実は元々海岸だった場所の先に埋め立て工事をして、その埋め立て地との間を荷物を運ぶ船が行き来できるような運河に造り替えたのであった。

 

小樽運河が一望できる場所近く

こちらの建物は浅草橋の脇に造られている、小樽の観光案内所。

なお小樽の街は明治時代になって北海道内で産出された石炭などが運搬される港となり、札幌~小樽間には全国で3番目で北海道としては最初の鉄道「国鉄:旧手宮線」が設置された。そのように北海道内から出荷される荷物と、日本国内から入ってくる荷物の量がドンドンと増えていき、より船から荷物を安易に運び降ろし出来るようにと、約9年の工事期間を経て大正12年(1923年)にこの小樽運河が完成する。全長は約1,200m程で川幅は40mもあった小樽運河。

 

小樽運河が一望できる場所の柵

こちらは浅草橋の欄干に造られているレリーフで、これは小樽の木となっている「白樺」のデザインが施されている。

なお今現在見られる小樽運河の川幅は当時の約半分である20mとなっている。というのも昭和時代中期になってそれまでの海運メインだった輸送が陸送に切り替わり、また小樽だけだった北海道の港も苫小牧など他の港も整備されてきた為に、運搬される荷物が激減して小樽の街は衰退してしまう。そして車社会となった昭和41年(1966年)に小樽市は6車線の道路として、この使われていないヘドロが堆積していた小樽運河を埋め立てての道路に造り替えようと動き出す。

 

小樽運河が一望できる場所の柵で記念撮影

しかしこの小樽運河を守る市民の会がそれに大反対して、長く争った末にこの小樽運河は観光都市:小樽の要として残される事になる。そして昭和61年(1986年)に湾岸道路が開通した際に、この小樽運河は40mだった川幅が20mとなったものの、運河脇に遊歩道が造られて、今の景観に至る事となる。そのような小樽の街の、繁栄と衰退と、そしてまた新たなる繁栄に繋がる観光都市へと転換した象徴ともなっている小樽運河。

メグちゃん
メグちゃん

そしてそんな小樽運河の歴史を嚙みしめながら、記念写真を撮る男!(笑)

 

小樽運河が一望できる場所の橋

日本人という人種はヨーロッパの人々と比べると、昔の歴史や風習などを伝統的に後世まで残さないといけないという考えが少ないのではなかろうか。ヨーロッパ諸国に比べると圧倒的に歴史的な建造物が少ない日本であるが、日本は古くなった建物を定期的に補修しながら何回も壁を塗り替えしたりという面倒くさい作業よりも、新しい建物を立て直す事の方が好きな人種のようだ。日本人は「手間」という概念があって、ヨーロッパ人にはあまり見られない”効率の良さ”を重視する傾向にある。

 

小樽運河沿いを歩く

そんな効率の良さを重視する性格だからこそ、使い勝手のいい製品を戦後に多く生み出して、敗戦国とは思えない程の高度経済発展を成し遂げた日本。しかし高度成長期を脱してみると、そこには日本人独特のらしさが残っている建造物は殆ど無くなっており、無機質な街ばかりが出来上がっていた。普段から日本で生活し続けているとあまりそれを感じないけど、海外に出てみて特にヨーロッパ諸国などを訪れてみると、それがよく理解できる。

 

ヨーロッパでは300~400年前に建てられた建造物を何度も補修しながら、今でもそんな建物を維持して住み続けている。ポーランドなどでは第二次世界大戦時にナチスドイツ軍の侵攻によって、焼け野原となってしまったワルシャワの旧市街地などを、昔の写真を参考にして寸分狂わず昔の街並みを再現するように再建したりしている程である。ただ昔の建物を改修して住み続けると、劣化した水道管などの影響で住みにくい面もあるという。だけど日本人と違ってアイデンティティーを大事にするヨーロッパ人はそんな不便な家に住んで、自分のルーツを大事にしているのである。

メグちゃん
メグちゃん

日本人なら住みにくい家は、すぐに建て替えちゃうよね~!

 

 

小樽運河沿いの壁にあったレリーフ

こちらの遊歩道は元々は小樽運河になかったもので、1986年に湾岸道路として小樽運河が半分の20mと埋め立てられた際に合わせて観光都市用に新たに造られたもの。この小樽の街が繁栄していた頃は全国から銀行の支店が次々と出店してきて、”北のウォール街”とも呼ばれていたとか。

 

小樽運河沿いの壁にあったレリーフ1

江戸時代には海外との貿易が江戸幕府が認める長崎で一部だけの交易品のみだったのもあって、大型船の建造は認められていなかった。しかしペリーが日本に来航して強引に日米和親条約を迫った為に、諸外国の脅威に対して慌てた江戸幕府は西洋式船舶の造船許可を解禁した。それまでは日本国内を行き来するのが小型船舶ばかりだったが、それ以降は大型船舶も増えて、港を行き来する交易品の量が右肩上がりに増えて行った。

 

小樽運河沿いの壁にあった倉庫跡の建物

そしてこの浅草橋周辺にある場所は「浅草橋街園」とも呼ばれている。この辺りは元々海だった場所に1923年の埋め立て工事によって造られた、新たな交易品の荷物を置く倉庫群となった。この小樽運河沿いには元々倉庫だった建物が並んでいる訳だが、そんな由縁も冷静に考えてみると貿易港として栄えていた小樽の港では当然の事である。

 

小樽運河沿いの壁にあったレリーフ2

こちらの小樽運河遊歩道の壁に埋め込まれているプレートには『おれの小樽』という、神戸で生まれたものの小さい頃に小樽に移り住んだ石原裕次郎が、昭和57年に発表した歌のものである。

 

 

『おれの小樽 石原裕次郎』 Youtube動画

 

 

小樽運河沿いの壁にあった倉庫跡の建物1

この小樽運河の向こうにある埋め立て地に連立されている倉庫群の建物だけど、実は煉瓦造りの構造物ではなくて、内部は木造造りの建物で外壁だけ”小樽軟石”という石を積み重ねて造った建物だという。てっきり明治時代のレンガ造りの建物だと思い込んでいたけど、これらの倉庫群は煉瓦造りに比べて工期を短くする内部が木造の建物だった。

モ~モ~子
モ~モ~子

耐火対策の為に建物外側に、小樽軟石が張り付けられているみたいだよ!

 

 

小樽運河沿いの壁にあった倉庫跡の建物2

明治時代~大正時代に造られた建物はこのようなレンガ造りだと思い込んでいたけど、冷静に考えてみると銀行や省庁のような建物は費用と時間を掛けて立派なレンガ造りの建物を造る価値がある。しかしこんな海沿いのただ荷物を置いておくだけの倉庫の建物に、そこまでの費用と時間を掛ける訳にはいかない。だからそういう観点からこの建物を見ていれば、内部は木造だと知ってもそこまでの驚きはしなかったかもしれない。

 

小樽運河沿いの景色

小樽の街が衰退すると共に船が行き来しなくなった小樽運河は、その汚れだけが目立つものになってしまった。そして使われなくなって汚れていた小樽運河は、やがて時代の移り変わりもあって、大規模な道路に造り替えられようとされる。未来の為の交通網として活用されるか、それとも過去の歴史的景観を残す為に運河を残すか。

仁義スカンク
仁義スカンク

地球に生きる動物からは、CO2の排出が少ない方を選んで欲しいプ~~!

 

奥の方で小樽に観光で来ていたとみられる若い女子4人組が、小樽運河沿いにスマホを立ててインカメラで自撮りを楽しそうにしていた姿を見て、ボクらも真似して自撮りを試みる。

まるで相撲の土俵入りをしているように、片足を上げていたメグちゃん!(笑)

メグちゃん
メグちゃん

こら~~!(怒)

 

 

小樽運河の「中央橋」付近にて

小樽運河を遊覧する船の発着場

そして小樽運河の中心付近に設置されている「中央橋」近くには、このように『小樽運河クルーズ』という遊覧船乗り場となっていて、その遊覧船が見えている。2021年1~2月の緊急事態宣言下では運休となっていた小樽運河クルーズであるが、通常は日没前デイクルーズ(大人1名1,500円)、日没後ナイトクルーズ(大人1名1,800円)と、そこそこな値段設定となっていた。

 

 

小樽運河を遊覧する船の発着場1

すっかり観光地化された街の運河だけに、このようなクルーズ船が運行するには運河も綺麗な水質を保たないと観光客が来なくなってしまう。なので観光都市として将来に道を繋げるべく、小樽市は小樽運河の水質改善に資金を投資して水質改善を行っていった。

 

小樽運河がよく見える橋

普通に見ると単なる運河の景色しか見えないけど、このように小樽の街が過ごした明治時代からの歴史をちょっと勉強してみるだけで、よりこの小樽運河に”深み”が見えてくるような気がする。実際に旅行して現地を訪れていると余程の現地ガイドを自分らで雇わない限り、現地でこのような情報を知りえる機会は少ない。

 

小樽運河がよく見える橋からの景観

この小樽運河を訪れて「うわ~~綺麗な運河~~、写真撮ろうよ~~!!」と言って嬉しそうに写真を撮って、甘いお菓子などをたっぷり食べて、肝心の小樽の歴史にはあまり触れずに帰る観光客は個人的に損していると感じる。その点、ボクはこのようにブログ造りという”旅行の復習”をする事によって、その旅行を2倍にも3倍にも楽しめている。

 

小樽運河がよく見える橋からの景観1

これが完全な自然環境のみの景観ならそんな思いにはならないけど、大概の景観には人工的に手が加えられたものが多い。そうなるとその手が加えられた歴史を勉強する事によって、更にこのような小樽運河がとても印象的に見えてくるのである。

 

小樽にある山中牧場のアイスクリーム屋

そんな小樽運河を眺めた後は小樽駅も見たいと思って、小樽運河に架かる「中央橋」から西の方角に延びる「中央通り」の緩やかな坂を登って進んで行く。するとそろそろ休憩したかったメグちゃんは、こちらのソフトクリーム屋さんに吸い込まれるように消えて行った・・・。

メグちゃん
メグちゃん

小樽駅まで行ってる間、ここで休憩しとくよ~!

 

 

廃線となった「旧 国鉄手宮線」の線路跡

小樽の街にあった、旧手宮線の線路跡

そんな中央通りの緩やかな坂を登っていくと、途中にこのような線路があったような跡が見える箇所があった。こちらは北海道で最初に鉄道が敷かれた路線の「官営幌内鉄道」として、南小樽駅と手宮駅間約2.8kmを結んでいた路線跡である。

 

小樽の街にあった、旧手宮線の線路跡1

この路線は1880年に開業されて、その後に国有化される。しかし昭和時代中期頃から小樽の街の衰退に伴って、この路線も乗車客が減少していき、昭和37年(1962年)には乗客が少ない事を理由に旅客営業が廃止される事になる。しかしまだこの時は運搬する貨物があった為に、主に貨物列車のみの運行路線と化する。

 

小樽の街にあった、旧手宮線の線路跡2

しかし貨物路線として生き残っていた手宮線であったが、陸運送が発展してきた20世紀後半の昭和60年(1985年)に遂に貨物路線も打ち切られる事になった。そしてそんな手宮線の線路跡の一部は今ではこのように立ち入り可能エリアとして、観光客が立ち入れる観光スポットになっているのである。

 

小樽の街にあった、旧手宮線の線路跡3

日本国内では廃線になってそのまま線路を残している所も少ないし、まずある程度の都市などの街に住んでいると、このような線路の上を自由に歩く行為は殆ど出来ない。在来線の線路は電車が行き交っている為に、海外の鉄道線路のように好き勝手に線路内をウロウロ出来ないので、ここに観光客が集まって写真を撮りたがる理由が少し分かる。

 

小樽の街にあった、旧手宮線の線路跡4

日本では数少ない、往年の名作映画『スタンド・バイ・ミー』のシーンのように実際の線路として使われていたレールを体感して、嬉しそうに写真を撮る若い女子で溢れるスポットと化していた、旧国鉄:手宮線の線路跡であった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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