北海道/札幌旅
旅行期間:2020年9月1日~4日
大阪で夢の実現を願った頃
さて通常なら旅行記を進めていくのでありますが、今回はすっかりニッカウヰスキーの余市工場を訪れて「竹鶴政孝」という人物にとても興味を持ったので、彼に関連する事をちょっとご紹介します。というのも日本酒を造っていた家に生まれて将来の酒造りの為に、大阪に出てきた竹鶴政孝。そしてその後に大阪の酒造会社に就職した事もあって、大阪には一時リタを伴って住んでいたり、教師をしていた時代があるのです。しかもそんな場所が自分の住んでいる近くにあった為に、今回はわざわざそんな竹鶴政孝の大阪にゆかりのある場所を紹介する回としたのです。
大阪にゆかりがある竹鶴政孝
ニッカウヰスキー創業者として、また”日本ウイスキーの父”とも呼ばれる竹鶴政孝は、広島に9人兄弟(男4人女5人)の7番目として生まれた。しかし実家の日本酒造りという家業は兄2人は継がずに、弟も継ぐ気がなかったので仕方なしに竹鶴に期待が押し寄せられる。そんな事をしぶしぶ理解した竹鶴は将来のお酒造りの為に、今の大阪市立大学である「大阪高等工業学校:醸造科」に入学する事になる。
そして大阪高等工業学校で醸造科に入学して順調に勉強して卒業すると、大阪高等工業学校の醸造科一期生だった摂津酒造(宝酒造に吸収されて現在は残っていない)の岩井常務のツテを辿って入社にこぎ着ける。しかし当時は戦争中という時代(第一次世界大戦中)であったので徴兵制があり、一旦軍隊に入隊して1年間だけお勤めした後に広島に帰って家業を継ぐ予定だったので、それまでの約半年程しか働けないという条件で竹鶴は摂津酒造に入社したのであった。
竹鶴は幼い頃より柔道で鍛えた立派な体をしていた為に、てっきり徴兵検査では全く問題なく合格となるだろうと思っていたが、実際に検査を受けてみると体には問題なかったが彼の経歴が引っ掛かった。というのも竹鶴は摂津酒造という醸造会社でアルコール造りに励んでいた訳だが、その経歴を見た検査官が「アルコール造りは火薬製造に大切なもの、兵士は足りているのでアルコール造りに励むように!」と言われて兵役免除となってしまう。当時の第一次世界大戦ではまだ日本はそこまで戦争に参加していなかったので、あまり多くの兵士を必要にしていなかった。
そんな兵役免除となった竹鶴は予定になかった期間も延長して、摂津酒造で酒造りに専念する事になった。そして摂津酒造での熱心な竹鶴の働きが評価されて、入社後約1年足らずで洋酒造りの主任に抜擢される事になる。そしてその時代は第一次世界大戦で戦っている国に軍需物資をドンドンと輸出して、日本は空前の戦争バブルになっていた時代であった。そんな浮かれた時代に西洋のお酒がどんどん日本人に浸透していった。しかし西洋のお酒と言ってもウイスキーは所詮西洋が造るお酒であって、日本では日本酒は造れるけどウイスキーの造り方や仕組みが全く理解されていなかった時代でもあった。
そしてだんだん国内消費量が増えだしてきたウイスキーに対して、それまで日本産ウイスキーと言えば中世スピリッツ(醸造アルコール)に砂糖や香料を入れた”模造ウイスキー”という偽物ウイスキーしか作る事が出来なかった。そこで国産ウイスキーの将来性を見込んだ摂津酒造の社長:阿部喜兵衛は、真面目に熱心に働く竹鶴を見出して、彼にウイスキーの本場であるスコットランドに行かせて、”本物のウイスキー”造りを学ばす事にした。ただ竹鶴自身は洋酒に興味を持っていた為にこの留学話に前向きであったが、広島にいる竹鶴の両親が難色を示した。というのもてっきり大阪に行って醸造学を学んだ後は地元に帰ってきて、日本酒造りを引き継いでくれるものと期待していたからである。
そこで竹鶴の両親に対して摂津酒造の社長:阿部喜兵衛は、わざわざ広島の両親の元を直接訪ねて事情を説明して許しを請うた。その甲斐もあって渋々竹鶴の両親は承諾し、竹鶴はスコットランドへウイスキー造りを勉強しに行く事になったのである。なおその陰では竹鶴の両親が営んでいた酒業は竹鶴の本家にその家業を譲る事になり、また摂津酒造の社長:阿部喜兵衛は密かに自分の娘婿に竹鶴を選んで、自分の会社を継がすつもりだったという。
という経緯があって竹鶴はアメリカを経由してヨーロッパへ渡り、約2年半の期間で2つの大学(グラスゴー大学&王立工科大学)と、3つの蒸溜所(ロングモーン蒸留所・ボーネス蒸溜所・ヘーゼルバーン蒸溜所)で実習を経た。それ以外にもフランスやドイツなども回って、現地の本場ワインやビール造りなども実際に見学して知識を付けた。
なおこの時にその竹鶴が学んだ事を詳細に記録した”竹鶴ノート”が書かれており、この竹鶴ノートにはウイスキー造りの詳細だけではなくて、そのウイスキー造りの規模や掛かる人手や必要な金額などもつぶさに観察した内容が記されていた。これは摂津酒造の社長:阿部喜兵衛から「ウイスキー造りの全てを細かく学んで来い!」との指令だっただけに、帰国したらすぐにウイスキー造りの事業が立ち上げれるように、その会社造りなども含めて記載されていた。
そしてこの竹鶴ノートは彼が帰国後に摂津酒造に対して、”留学で学んだ事のレポート”として提出されたもの。なので竹鶴にはこの竹鶴ノートの複製を持っていなかった。元々摂津酒造で常務をしていた岩井氏が鹿児島の酒造会社である本坊酒造に渡って、この竹鶴ノートを参考にして山梨にウイスキー工場を立ち上げた。そしてその弟子が竹鶴ノートを引き継いだ訳であるが、竹鶴が85歳の天寿を全うして亡くなった後にニッカウヰスキーに「こんな竹鶴さんが書いたノートがあるんですが・・・」と渡されたという。その時にニッカウヰスキー側は初めて”竹鶴ノート”という存在を知り、それを完全にコピーして原本は返却したが、所有者から「ここまで完璧にコピーするなら、こちら側がそのコピーを持っておくので原本はそちらで保管ください」との申し出があり、今では余市にあるウイスキー博物館内にて保管されているのである。
竹鶴がスコットランド留学後に住んでいた場所
その竹鶴がスコットランド留学をしている際に出会った、通称リタという現地の女性。元々は現地で柔道を教えていた子供の、そのお姉さんだったリタと知り合ったという。そしてリタのお父さんは医者をしていたが、正義感に強くて治療した患者から治療費をあまり受け取らなかった。しかし患者は喜んだがその家族は収入が無くて苦しみ、その医者だった父親が亡くなった後は金銭的に苦しんでいたリタの実家。
そこに長期滞在で安宿をしている竹鶴がいて、リタの母親が空いている部屋に竹鶴を泊めさせて、その費用を生活費の足しとする事にした。そんな経緯があって竹鶴とリタは親密になっていき、しまいには現地で結婚するまでになる。そこで慌てたのは彼らの家族であり、リタの家族からは「見た事もない国の人間と結婚は考えられない!」と大反対されて、その知らせを日本で聞いた竹鶴の両親も「髪の色も目の色も違う外国人との結婚なんて絶対反対!」とそれぞれに猛反対された。
そしてこの時も活躍したのが摂津酒造の社長:阿部喜兵衛だった。彼はまず竹鶴の両親の元へ行き、「私が現地に行って、相手の女性を見て参ります。もし私が見てダメと思えば別れさせるが、私の眼中に叶う女性であれば結婚を認めて欲しい!」と嘆願したそうだ。わざわざ息子の結婚相手を遥か彼方のスコットランドまで、自分で見に行くという阿部喜兵衛の願いを断れなかった竹鶴の両親。そして了解を得た阿部喜兵衛は単身スコットランドに渡る。当の本人も竹鶴を娘婿にしたかったから、何としてでも現地で知り合った女性と別れさせたかったハズであるが、阿部喜兵衛は一目リタを見るとすっかり気に入ってその結婚を認めたという。
そして竹鶴と共に阿部喜兵衛はフランスやドイツなどの酒造りの現場を視察した後に、1920年11月に帰国する事になる。その際に阿部喜兵衛は竹鶴夫妻が住む家もわざわざ手配しており、それが今の大阪市住吉区帝塚山1丁目の場所だったという。
帰国した竹鶴夫妻が住まいとした大阪市住吉区帝塚山1丁目の家は、設計家:安藤忠雄が設計したこのコンクリート打ちっぱなしの建物「帝塚山タワープラザ」の南裏側(左奥側)にあったという。そして話は余談になるが、この写真中央に見えている「帝塚山タワープラザ」という建物は、ボクが3歳の頃に東京から大阪にやって来た際にボクのオヤジ(デザイナーだった)が事務所を構えた建物でもある。なおこの「帝塚山タワープラザ」は4棟の建物の集合体となっており、それぞれに3階建てとなっており、ボクのオヤジは手前中央に見える建物の2~3階部分を借りていた。
なお、ここは店舗や事務所や住居として使っている人がいるが借り賃は17万円程/月だったが、コンクリート打ちっ放しの建物は「夏場は暑くて、冬は寒くて住みにくく、デザインを気に入っている人間にしか住めない場所・・・」とオヤジが常々言っていた。だからかボクのオヤジが事務所を引き払ってからは、数年間もその後に入居する人がいなかった。しかし今は隣で高級鉄板焼きレストランをしていた「帝塚山ボネール」の運営会社が所有しており、チラホラとカルチャークラブ的な教室が入居しているようだ。。
そんな「帝塚山タワープラザ」の南側にある、こちらの豪邸が立っているエリアが、昔スコットランド留学後に竹鶴夫妻が住んでいたとされている場所の1つである。ただその当時の竹鶴夫妻は勿論裕福で無かったので、摂津酒造の社長:阿部喜兵衛がスコットランド人である奥さんリタに気を使って、洋風な家を知り合いに当たって借りた家だったそうだ。
ただそんな”竹鶴夫妻が住んでいた”とされる場所も、今ではそんな記念碑やその当時の建物などは一切残っていない。ボクの記憶では昔はこの建物があった場所辺りは駐車場になっていた時期もあるので、そんな約100年前の面影は残念ながら一切残っていない場所となっている。。
この辺りは大阪でも特に高級住宅街として有名だよね~!
そしてその竹鶴夫妻が大阪に住んでいた当時に住まいとしていた、もう1箇所がこの辺りだという。さっきの場所とは20~30メートルしか離れていない場所で、すぐ近くであるがここも何もその当時の形跡は残されていない。
リタが英語を教えていた「帝塚山小学校」
そしてそんな帝塚山には、そんな高級住宅街に住むお坊ちゃんなどが昔から通う「帝塚山学院」がある。ここでは帝塚山小学校と、帝塚山中学/高校とそれぞれにある。そんな帝塚山小学校で当時は珍しいネイティブスピーカーだった外国人教師として、竹鶴の奥さんだったリタが英語教師としてここで働いていた時期がある。
というのも竹鶴はスコットランド留学でウイスキー造りの全てを学んできて、国内で早速国産ウイスキー造りに着手するつもりであった。しかし当時の日本国内は第一次世界大戦が終了して数年が経過しており、戦争で栄えた軍需物資の輸出がピタリと止まってしまい、それをアテにしていた人達の仕事が急に無くなって大不況が訪れだしていた頃合い。竹鶴を意気揚々と送り出した摂津酒造もその不景気の波に飲み込まれており、販売していた模倣洋酒の売れ行きが大幅に鈍っていた。なので早速竹鶴が描いた国産ウイスキー造りの案を役員会に提示したものの、当時の摂津酒造は最低5年間は利益が出ないウイスキー造りに難色を示して、結局否決されて国産ウイスキー造りは立ち消えとなってしまった。
そして当の竹鶴は一応摂津酒造の社長:阿部喜兵衛からは、ある程度の給料を約束されて摂津酒造で働くという形になっていた。しかしせっかくはるばるウイスキー造りをする為に海外留学してきたのに、国産ウイスキーが造れなくなってしまった現実に居たたまれなくなって依願退職する事になるのである。
そんな風にして帰国から約1年で無職となってしまった竹鶴、しかし愛妻リタを抱えて生活費を稼ぐ必要があった。だがその前に当時は珍しかった外国人としてリタは、住居の近くにあったこの帝塚山小学校で英語を教える教師の仕事を得ていた。なお帝塚山小学校に残っている卒業アルバムにはそのリタが写っている物はなかったけど、その保管されていない年の卒業名簿には「竹鶴リタ」として彼女がちゃんと載っていたという。
そんな帝塚山小学校には、ボクの叔父さんも通っていたと聞いた事がある。ただ年代的にはそんな竹鶴リタが英語教師として働いていた時期に比べると、かなり後の時代に入っているので勿論リタに英語を教わるとかすれ違う事も無かったのであるが。。
摂津酒造跡「神ノ木公園」にて
続いてやって来てのは帝塚山から南の方へ約15分程歩いた場所にある、住吉区の「神ノ木公園」である。ここは竹鶴が大学卒業後に入社した「摂津酒造」という酒を造る会社があった跡地である。南海高野線「住吉東」駅と、阪堺上町線「神ノ木」駅近くにある団地の一角にある公園。
ここにあった摂津酒造は1909年に社長:阿部喜兵衛に設立されて、大阪でも有数のアルコール製造会社であった。なおここでは後のサントリーとなる「寿屋」創業者である鳥井信治郎も、後に「赤玉ポートワイン(赤玉スイートワイン)」となる洋風葡萄酒を外注委託製造として使っていた酒造会社である。
竹鶴が入社した頃の摂津酒造は大正期の戦争バブルによって、イケイケどんどんだった時代。そんな時代もあって糸目付けずに竹鶴を海外留学に行かせた訳であるが、その後に訪れた不景気の波に飲み込まれてしまい、結局経営はあまりうまく行かなかった。竹鶴もニッカウヰスキーを創業して念願のウイスキー原酒が仕上がった際には、摂津酒造に対して「このウイスキー原酒を好きに使ってくれていいです!」と書簡を出したが、摂津酒造はそんなウイスキーを使う事なく宝酒造に吸収されて、大阪工場だったこの地も今では団地の一角にある公園と化している。
ただそんな歴史の闇に埋もれてしまった摂津酒造の跡地は、意外な機会を経て日の目が当たる事になる。というのも2014年にNHK連続朝ドラで放送された、ニッカウヰスキー創業者である竹鶴夫妻をドラマにした『マッサン』の影響である。そんなドラマの放送により全国的に竹鶴政孝という人物に再び注目が集まり、その大阪時代にも注目が浴びて竹鶴がスコットランド留学を終えて日本に帰国してから100周年を記念して、こちらの記念碑が建てられる事になったようだ。
それまではこのような一介の酒造会社である摂津酒造の名前なんて世に残る事が無かったが、さすがに全国放送のNHKだけあってその影響力がこのような記念碑を造らせるに至った訳である。そしてそんな摂津酒造も歴史的に見ると、今の世に残る名酒を生み出した訳ではないけど、竹鶴政孝という日本ウイスキーの歴史を変えた人物を輩出した会社という事で歴史に残る事になるのである。
ただそんな摂津酒造跡がある「神ノ木公園」も、このようなあまりいい場所ではない集団住宅の合間にある公園内にチラっとあるだけである。こんな場所には余程の竹鶴政孝マニアしか、わざわざ訪ねて来ない場所である。なのでボール遊びをする子供達に使われないようにと、この記念碑の周りに抵抗するように4つの植鉢が置かれているのである。。
そんな神ノ木公園の端っこには、このように盛り上がったタイルで埋め尽くされた、摂津酒造の井戸跡だった場所があった。何故この場所が盛り上げて造られているのかは分からなかったけども、野球小僧の為にマウンドもどきとして造られていたのかもしれない。
確かにこの周辺で壁に向かってボール投げをする少年たちがいたが、残念ながらこのマウンドもどきは使われていなかった。もしボクがこのボール遊びをする少年だったら、こんなマウンドはまず使う事が無いだろうとも思った井戸跡であった。。
竹鶴が化学を教えていた「桃山中学校」
そして次にやって来たのが、こちら大阪市阿倍野区にある「桃山中学校」(現在の桃山学院高校)。ここは摂津酒造を退職して無職だった竹鶴が、その妻であるリタの知り合いだったイギリス人が校長先生をしていたコネがあって、ここ桃山中学校で後にサントリーとなる寿屋の鳥井信治郎にスカウトされるまで化学を教えていた場所である。
この桃山中学は今の桃山高校で、イギリスのキリスト教系学校である。摂津酒造を退職した後に浪人となっていた竹鶴のその才能を、ここで化学教師として教える事になる。しかし時を同じくして国産ウイスキー造りを諦めた摂津酒造とは反対に、国産ウイスキー造りに突き進もうとしていた寿屋の鳥井信治郎(後のサントリー創業者)。周囲の反対を押し切って最低5年間は利益が出ない国産ウイスキー造りで、まずはイギリスからウイスキー造りの技師を招聘しようと商社経由に相談した。
すると逆に「日本に本場スコットランドのウイスキー造りを学んで、帰った若者がいるではないか?!」との返事があり、顔見知りであった鳥井信治郎は竹鶴の自宅がある帝塚山を訪れて、日本産ウイスキー造りに参加するように熱く語って説得した。そして鳥井信治郎の”三顧の礼”(三国志で劉備が軍師:諸葛孔明を自軍に引き入れるのに、3回訪問して説得した)になぞらって3回通った熱意の甲斐があって、竹鶴は国産ウイスキー造りを使命として10年契約で寿屋に入社するのであった。
そして現在の桃山高校に掛かっていた横断幕には、この高校を卒業(95期生)した「川越宗一」さんが作家デビューした2018年に松本清張賞を受賞した次の作品『熱源』で、「第9回本屋が選ぶ時代小説大賞」や「第162回直木賞」を受賞した事が書かれていた。
そんな竹鶴政孝ゆかりの大阪の地を訪ねた夜は、「さすがにニッカウヰスキーを飲まないと・・・」と思って酒販店にウイスキーを買いに行く。こちらは1965年に発売された、ニッカウヰスキーでもモルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドした「新ブラックニッカ(スペシャル)」である。このラベルに印刷されている”キング・オブ・ブレンダーズ”というオジサンが世の中に出た最初の商品でもある。
なお酒販店には大きな瓶しか無かったので、近くのスーパーで180ml入りの小瓶を購入。今までの人生で何回も飲んできたウイスキーだけど、この竹鶴政孝関連について勉強した後のウイスキーは感激を感じる味になっているハズである。
そんな竹鶴政孝ゆかりの大阪市住吉区を訪れたついでに、住吉区図書館で竹鶴政孝関連の書籍を5冊借りる事にした。そんな大きな図書館ではなかったけど、思った以上に竹鶴政孝関連のウイスキー関係の書籍が置かれていたので、思わずこれだけ借りてしまったのである。
ついでに竹鶴に国産ウイスキーを造らせた、鳥井信治郎の書籍も借りました!
という事で今まで全く興味が無かったウイスキーと竹鶴政孝。しかしこれらの書籍を読むと「ウイスキーってこんなに奥が深いモンなんだ~!」と思ってしまう程に、目から鱗が落ちたのである。そういう意味では北海道旅行で行ったニッカウヰスキー余市工場見学は、ボクの人生に衝撃と新たな視野を見出した訪問となったのである。。
なお次回はいつも通り、普通に旅行記となります!
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