北海道/札幌旅行記
旅行期間:2020年9月1日~4日
札幌の経験値が増えた旅
さて新千歳空港内での散策で飛行機やチョコレートについて有意義な歴史を学べた後は、もう国内線の飛行機に乗り込むだけとなってしまいました。特にそんなに動かなかったのでお腹も減る事がなく、新千歳空港内にある「北海道ラーメン道場」でのラーメンを食べる事は次回に繰り越し。
新千歳空港から伊丹空港へ
この旅行記は2020年9月1~4日に行った際のもので、これが公開されているのは今から約9ヶ月前の出来事である。旅行記というブログもなるべく旅行後のリアルタイムな時期に公開するに越したことはないのであろうが、旅行の順番に長々と公開していっているのでどうしてもこれだけ旅行時期とは遅れてしまう。そして旅行から半年ほど経った時点でその時の様子を振り返りながら旅行記を作成していると、やっぱりその時の細かい事などを忘れている事がある。しかしその旅行時に撮影した写真を見返して、その当時に気付けなかった事柄などを調べながら旅行記を作成していくと、まるで2度目のその旅行をしているかのように復習しながら旅行しているような感覚にもなる旅行記作成ブログなのである。
という事でこんなブログとお付き合い頂き、誠にありがとうございます!
空港に到着するまでは荷物を増やしたくないと思っていたけど、国内線ターミナル内に入ってしまうと気が緩んでしまうのか、今日の午前中に訪問した「白い恋人パーク」に感謝の気持ちを込めて、白い恋人のお菓子を購入してしまった。そしてとりあえず今回の旅では最後となる、”北海道限定品”の「サッポロクラシック」をゆっくり1人で味わう事にする。
今までの旅行では海外旅行が多かったから、国際線のように約2時間前には飛行場に到着して、出発1時間前頃からの搭乗開始に慣れていた。しかし国内線では出発の30分前までに飛行場に到着しとけばいいし、出発15分前から搭乗開始というのもザラにあったので、イマイチそんなゆっくりな感覚に慣れる事が出来なかった2020年。
そしてやっとJALの飛行機が準備出来て、搭乗開始となる。国内線の飛行機は基本的に同じ路線をピストン輸送しているので、その飛行機が空港に到着して乗客を降ろしてから、機内を清掃する時間などがどうしても必要になる。飛行機を見ると何故か乗りたくなってしまう気持ちが強く湧いてくるけど、それを耐えながら搭乗開始時刻になると、そんな耐えた事など全く顔に出す事なく搭乗ゲートを進んで行くのである。
基本的には伊丹空港から国内線で飛び立つ事が殆どだった2020年コロナ禍での国内旅行だったけど、沖縄や新千歳空港行は普段から客が多いからか、このように3列+3列=6列のちょっと大きめの飛行機だった。そしてここ機内でCAさんにさりげなく「白い恋人パーク」で購入したキャンディーをプレゼントすると、とても喜んでくれた。こんな500円前後のお菓子を1つプレゼントするだけで、場合によっては搭乗しているCAさん達がそれぞれにわざわざ挨拶しに来てくれたりする(挨拶してこない場合もたまにあります・・)。
でもこの2020年に1度だけANAの国内線に搭乗した時に、CAさんにお菓子をプレゼントしたら、その時だけは何故かその後に誰も挨拶にすら来なかった。まあコッチの都合で勝手にCAさんにお菓子をプレゼントしているだけなので、それに対して必ずしも挨拶をしなければいけない訳でもないのだが、やっぱりこういった小さな心遣いに対する感謝の気持ちを伝えるという行動1つを取っても、JALとANAの差を体感したように感じたのであった。。
そして大阪の伊丹空港に到着すると、既に真っ暗だった。それよりも空港のバス乗り場に向かうと、北海道に比べて湿気が多いだけにムワ~~っという、まるで熱帯の国にやって来たかのような気候を肌で味わった。だから近年は温暖化の影響で北海道の夏も気温が上がり続けているらしいが、ただ本州などに比べると湿気が少ない北海道は圧倒的にまだまだ夏を過ごしやすい避暑地であるというのを体感した2020年9月の札幌旅であった。。
<まとめ>
今回の札幌旅はまず島松川沿いの『旧島松駅逓所』から始まる旅であった。昔は旅の宿となっていた建物跡であるが、北海道では有名なあのクラーク博士がアメリカに帰国する際に、有名な言葉を学生たちに向かって言った場所ともされている為に、ここのクラーク博士の記念碑が造られているから立ち寄った場所。
そんな札幌旅で3日間も現地を案内してくれた札幌市民のメグちゃん。その出会いは2019年2月に訪れたモロッコ旅行のツアーに参加していた事によるものだった。前回の九州旅でも遥か彼方の北欧で出会ったオジサンと旅行したり、アフリカ大陸のモロッコで出会った人と札幌旅行をしたりと、旅をしだした頃は全然考えてもいなかった出会いから発展していった2020年の国内旅行。
楽しかったよ~、また来てね~!
2020年の国内旅行では主に自分1人で旅する機会が多かったけど、地元民に案内してもらうと地元の人気店などに連れていってくれるのがとてもありがたい事でもある。北海道ローカルチェーン店は本州の人間には全然知られていないけど、この『回転寿司トリトン』に代表されるように、とても美味しかったり、お店の人もとても気さくでアットホームな雰囲気を楽しめる場所が多かった。
そして札幌観光では外せない、1番の人気観光地と言っても過言ではない『さっぽろ羊ヶ丘展望台』。てっきり無料で行ける場所だと思っていたけど、実際には羊などを飼育している畜産物実験場の中に造られている観光地だったので、その場所に入る料金が必要だった訳である。
札幌だけではなくて北海道旅行の象徴的にも使われている、さっぽろ羊ヶ丘展望台に設置されているクラーク博士の像。今では札幌市内にこの銅像含めて3体の像が設置されているが、この銅像が一番古い像ではない。しかし観光客からすると「えっ、クラーク博士の像って他にもあるの??」と思ってしまう程に、ここのクラーク博士像だけが有名になってしまっている。
一番古いクラーク博士の像が設置されている場所は、アメリカから1年間だけ休暇を貰ってやって来て校長先生として教えていた『旧札幌農学校』(現在の北海道大学)だった場所。そんな胸像は第二次世界大戦中には軍隊に兵器を造る為の原料として没収されてしまい、今見られる胸像は戦後に復元されたものである。そしてポプラ並木がある場所という事で観光客にも人気となってしまった北海道大学で、観光バスの乗り入れが規制されてしまい、多くの観光客達がクラーク博士の存在を知る機会が減る事を危惧して、代わりに「さっぽろ羊ヶ丘」に新しくクラーク博士の像を造った。
そんな新しい像が大人気になってしまったね~!
そしてここ最近になってから、札幌の街のシンボルでも『札幌時計台』2階には、新しい樹脂で造られたクラーク像がベンチに鎮座している姿も見られる。これまではイマイチ見学しても面白みの無かった『札幌時計台』だけど、クラーク博士とのツーショット写真を撮れるという事で、今までよりも訪れる観光客を楽しませる事に貢献している事であろう。
そしてビール好きからすると、札幌旅では欠かす事が出来ない『サッポロビール園/サッポロビール博物館』の見学。単なるビール会社だった訳ではなくて、明治政府による近代日本化に向けて造られた会社でもあった。今では何気なく飲まれている国産ビールも、その裏では江戸末期に海外に密航して留学してきた人達の力が大きく貢献するのである。
サッポロビールは元々は北海道を開拓する事を目的に、明治政府が造った「開拓使」という組織が造らせた会社なので、このような『サッポロ 開拓使麦酒仕立て』という商品が今の時代になっても造られるのである。
ただそんな「開拓使」にまつわる歴史ではなくて、別の意味で世間の注目を浴びる事になった『サッポロ 開拓使麦酒仕立て』だった。。
そしてサッポロビール博物館を見学した後は、サッポロビール園に併設されているビアレストランで、ほぼ初体験のジンギスカン鍋を食べた。関西ではあまり食べる機会が少ない羊の肉を使うジンギスカン鍋だったけど、想像以上に羊肉の臭みが無くて、こんなに美味しいとは思わなかった。
昔とは違って、今はと~~っても美味しくなっているジンギスカン料理プ~!
そしてちゃんと札幌の街の夜景スポットも満喫した。こちらは札幌の南西側にある『藻岩山展望台』からの景色である。北海道でも最大の都市である札幌の、その中でも一番の歓楽街としても全国的に有名なススキノの街が、特に中央部分の光り輝いているエリアである。ただしこのコロナ禍によって多くの飲食店などがダメージを受けた為に、これから数年の間で大きく街の景色が変わるかもしれない。
今回は9月1日の夜に藻岩山展望台を訪れた訳だが、自分的には「まだまだ夏!」というイメージで半袖シャツ1枚で展望台を訪れたが、さすが北の大地である北海道の、しかも山の上だけに吹き付ける風はとても冷たかった。なので、もしこれから行かれる人があれば長袖を羽織っていく事をオススメする。
そして今回初めて訪れた、北海道でも屈指の観光地として人気の『小樽運河』。このような景観が見られるのも昔に港町として大きく発展し、その落差で後年に大きく衰退した事が、今の観光名所となる小樽の街を創り上げる事になった。元々は今の川幅の倍の広さがあった小樽運河であるが、今位の20m幅位が観光地としてはちょうどいい感じなのかもしれない。
そんな小樽の街では明治から昭和初期の、小樽の街が最盛期にあった時代に造られた建物が今でも多く残されている。そんな建物は色んな商店と今では化しているが、その中でも『オルゴール博物館』では今ではめっきり見る事が出来なくなった”平盤式のディスク型オルゴール”を拝見できた。後のレコード盤やCDディスクをイメージさせるディスク型オルゴールも、今ではすっかり廃れてしまった遺物である。
そんな小樽のアーケード商店街の入口にこのようなパネルが設置されていた「榎本武揚」という人物は、幕末から明治維新の時代に興味が出だした2020年に初めて知った人物だった。それも江戸幕府の悪あがきをする最後の抵抗勢力としての存在と思っていたけど、榎本武揚もヨーロッパへ留学した経験があり、その有能さが認められて明治政府に重用された人物でもある。そんな榎本武揚が小樽の場所を払い下げで購入し、開拓していったのである。
そんな小樽の街で廃線となっていて、今ではこのようにそんな歴史など全然知らずに興味も無くて、ただ写真を撮るだけの為に若者達が群がる場所となっていた、北海道で一番最初に鉄道が敷かれた『旧手宮線跡』。この線路は札幌で採れた石炭などを本土へ運び出す際に、榎本武揚が小樽を港として強く推薦した結果、造られた鉄道であった。
まあボクもここを通っていた時は、そんな歴史は知らなかったのですがね・・・
こちらは北海道西側の日本海側に飛び出ている岬「積丹半島」(しゃこたんはんとう)の北端にある『島武意海岸(しまむいかいがん)』。先住民族として暮らしていたアイヌ人達が付けた名前の場所が多い北海道では、このように当て字のような名前が付けられていて、北海道民でなければ読み仮名が全然分からない場所だらけ。
北海道の日本海側では、昔はこの海岸一面にニシンが群がって、海岸部分ではそんな群れに押し出されて陸を飛び跳ねる大量のニシンが見られていたという。だからこの『島武意海岸』の展望台などとなっている場所は、この海岸の景色を眺めたい人が造った場所ではなくて、そんな大量のニシンが獲れる場所だったから漁師が開拓した、ニシン御殿の夢の跡である。ただ近年にはそんな大量のニシンを見かける事は、殆ど無くなっているという。
そして札幌ラーメンでも3本の指に入る程の大人気店『麺屋 彩未』も訪れた。こちらは札幌味噌ラーメンを代表する名店『すみれ』で、修業した大将が調理しているラーメン屋である。
札幌市内の住宅街の一角にある店舗の周りにはオープン30分後の11時30分頃で、なんと既に20人程が待つ程の超人気店。ただし並んでいる時から先に注文を聞いてくれるので、約30分経過後に店内に入れたが、あまり待ち時間も掛からずにラーメンを提供してくれた。
その30分並んで出てきた、『麺屋 彩未』の味噌ラーメン。たぶんこれほどの人気店であれば30分並んでの入店は、まだ早い方だと思う。
札幌ラーメンでは多いちぢれ麺。ラーメンは普通に好きだけど、ラーメンマニアの部類までいかないので、どちらかというとここのお店で頼んだ瓶ビールに付いてきたタンブラーが、凍らされていた方が鮮明に記憶に残っているのであったが。。
こちらは札幌市内の西側にある、1972年札幌オリンピックの際に会場としても使われた『大倉山ジャンプ競技場』。今では何気なく目の前に見えている大きなスキージャンプ台だけど、スポーツ好きな皇族の熱に触発された財閥の方々が、ど~~んとお金を出して造ったもの。
そんな風に『大倉山ジャンプ競技場』などの練習場所などを提供してくれた人達のおかげがあって、1972年札幌オリンピックではスキージャンプで表彰台を日本男子が独占するという、奇跡的な快挙を成し遂げた。勿論当の選手たちが汗水流して厳しいトレーニングを経た結果であるが、その前提にはジャンプ台を建設するに至る人達の努力無くしては語れない。
札幌ススキノの街には「成吉思汗」と書かれたお店だらけで、てっきり一大ジンギスカン鍋チェーン店があるのかと思ってしまった。しかし「成吉思汗」はジンギスカンという言葉の漢字だった事を、今回の札幌旅では勉強出来たのである。
そしてアルコール好きが北海道に来ると、迷わず頼んでしまうのが「サッポロ クラシック」ビールである。たまに大阪でも北海道展などが開催されていると出会える事があるけど、”北海道限定”という言葉が脳内でこの「サッポロ クラシック」をより美味しく感じさせるのかもしれない。
そして雪が多く積もる北海道ではあまりテーマパークがあるという印象が無いけど、北海道土産でもお馴染みの「白い恋人パーク」は、札幌を代表するテーマパークとする構想があるという。今でも楽しめる工場となっている場所だけど、10~20年後にはひょっとしたらディズニーランドやUSJのようなテーマパークに肩を並べている可能性が考えられる場所である。
新千歳空港内は結構広くて色んな売店や「北海道ラーメン道場」という北海道を代表するラーメン屋さん10店舗が出店しているコーナーなどもあったりで、飛行機の待ち時間に退屈しない場所。それ以外にも『大空ミュージアム』というちょっとした飛行機関連の博物館が設置されていて、過去に造られた特徴的な飛行機の模型などを見て、飛行機業界の歴史を垣間見れる場所となっていた。
そして普段なら営業しているロイズチョコレートの売店に吸い込まれるハズだったが、この時は半分が閉鎖していたので、代わりに『ロイズチョコレート・ワールド』の奥に造られていたチョコレート関連雑貨などの博物館的な場所を見学した。
ここではチョコレートがこの約500年の歳月を経て、今では簡単に甘いチョコレートが食べれるに至る歴史の説明などが展示されていた。そしてチョコレートの歴史を調べると、昔は今のように甘くて固形のチョコレートが食べられていなかった事実も知る事が出来た。
アメリカ大陸で採れていたカカオの実は、元々は単に磨り潰されて水に混ぜて飲んでいた、薬のような飲み物だった。アメリカ大陸にいた原住民はカカオの実を”神様からの贈り物”と呼んでいたりで、神聖な貴重品として扱っていて、貨幣代わりにもカカオの実が使われていたという。
そして今回の札幌旅で一番印象に残り、そして後でこのブログ造り時にも勉強になったのが、この『ニッカウヰスキー余市蒸留所』の見学であった。この工場を見学する前までは、実はニッカウヰスキー創業者である竹鶴政孝という人物については、全然知見が無かったのである。まして普段はテレビドラマなども見ないので、数年前にNHK朝ドラとして放送された『マッサン』という作品も、全く知らなかったこの時。
今ではニッカウヰスキーのシンボル的存在ともなっている、こちらのステンドグラス風の”キング・オブ・ブレンダーズ”という西洋のオジサンデザインは見た事がある位の初心者であった。
しかし旅行後半年ほど経ってからこの札幌編旅行記を作成している時に、この竹鶴政孝という人物について調べてみると、広島県出身だけど大阪に住んでいた時期があって、しかもその大阪に住んでいた所がボクが昔住んでいた場所に近くて、ボクのオヤジが事務所を構えていた直ぐ横の場所にも住んでいた事もあるという事実を知って、より親近感を勝手に覚えてしまった。
それによってより興味を持って竹鶴政孝という人物を調べると、単身スコットランドのウイスキー蒸留所に乗り込み、国外秘とされていたウイスキー造りを実際に体験してそのノウハウ全てを持ち帰り、日本国産ウイスキー造りに尽力した人物だった。当初は後のサントリーとなる寿屋に10年契約で招かれて国産ウイスキーを造るのであるが、日本人向けのウイスキー造りを掲げた鳥井信治の元を去り、スコットランド風の本物のウイスキーを造る為に北海道余市の場所に工場を造った竹鶴政孝。
ただそんな竹鶴政孝がスコットランドに約2年程も留学に行けたのは、第一次世界大戦中に起きた軍事物資需要バブルで栄えていた日本経済の後押しと、竹鶴政孝が高校(現在の大阪大学)を卒業後に入社した摂津酒造が将来的に国産ウイスキーの需要増を感じていた当時の社長:阿部喜兵衛の将来的な投資のおかげである。ただし竹鶴政孝がウイスキー造りのノウハウを学んで帰国する頃には、日本は大戦バブルが崩壊していて、摂津酒造も最低5年間は商品とならないウイスキー造りに難色を示して、結局は摂津酒造でのウイスキー造りは叶わずに退職してしまう。
そんな竹鶴政孝が働いていたという摂津酒造の跡地が家から歩いて行ける範囲にあるという事で訪れてみると、NHKドラマ『マッサン』で注目を浴びた事もあって昔は無かったこのような記念碑が現場には建てられていた。普段は全然見ないNHKのドラマだけど、この時はその社会への影響力の大きさを肌で感じた瞬間でもあった。
そして摂津酒造を退職後は大阪で化学の教師などをしている時期もあった竹鶴政孝に、後のサントリーの創業者である鳥井信治郎が三顧の礼までして彼を迎え入れて、今の大阪府三島郡にある「サントリー山崎蒸溜所」の工場長として赴任し、国産第1号ウイスキーの製造に関わった。
しかし日本人の口に合わせたウイスキーを造ろうとしていた商人:鳥井信治郎とは反対に、職人:竹鶴政孝は本場で学んだ本物のスコットランド・ウイスキーを造りたかった為に、10年契約が満了後に国内でウイスキー造りの理想の場所と考えていた、北海道の余市町にニッカウヰスキーを創業した。しかしウイスキーというものは醸造過程でアルコール飲料となっても、その時点では今のウイスキーに見られる深い香り・味・色などは付いていない。
それらの付加価値は実はオーク材で出来た樽の中に入れられて最低でも4~5年間熟成させる事によって、木樽の成分がウイスキー内に溶け出してウイスキーに混ざる事で出来るものである。だからそんな最低5年は商品化できないウイスキー造りに、反対する出資者などとの闘いの方が大変だったのかもしれない。なおこちらはそんな竹鶴政孝が辛抱して造り上げた最初のウイスキー『ニッカウヰスキー(第1号ウイスキー)』である。
ウイスキーの本場スコットランドでは日本のように原酒から熟成まで一貫して製造するメーカーは少なく、原酒のみを造って販売し、それを買った熟成メーカーが熟成させて売るという分業制が多かったという。しかしサントリーやニッカウヰスキーでは原酒造りから熟成まで、同じメーカーが一貫して行った。そんなウイスキー造りの極意を「子供が成長するのを見守るような、辛抱する気持ちが大事である!」と語っていた竹鶴政孝。
そして単身スコットランドに乗り込んで裸一貫でウイスキー造りを学んだ竹鶴政孝は、日本でもブレる事なく本場スコットランドのウイスキーを目指して奮闘して、今日では世界的にも注目を浴びる国産ウイスキーを造った偉大な人物であった。
このコロナ禍の前までは「旅行するなら、絶対に海外旅行だ!」と思い込んでいた。知り合いからは「国内にも色んな素晴らしい場所があるのに・・・」と言われていたけど、やっぱり言葉や文化や人種が全然違う海外の方が、自分の常識が壊される程の衝撃を得る事が出来て自分の成長に繋がると思っていた。
しかし2020年は早々とタイ・スリランカ・ロシアと行ったものの、そこで打ち止めとなってしまった。それ以降は国内にも新型コロナウイルス感染が拡がって緊急事態宣言が発令された。そしてその間はブログ造りをしていたので特に問題は無かったけど、その期間に全て旅行ネタを仕上げてしまったのでネタが切れてしまった。そのタイミングで北九州に住んでいる、旅で出会ったオジサンからの誘いを受けて九州を旅して、今回はその九州旅の一週間後に北の大地へやって来た。
そんな2020年コロナ禍下で国内旅行をして感じたのが「国内にも自分が知らないだけで、色んな偉大な人物が居た」という事だ。学校の教科書では特にその人物の細かい点までは教えずに、ただテストで出るからとその人物が教えられるだけ。それに今までの自分だったら、ここまでの歴史について興味も出ていなかっただろう。数年前に会社を辞める事なく続けていたら、こんな風に各地を旅行してそんな土地ゆかりの偉人達の歴史を調べる事も興味が出る事もなかっただろう。
そう思うと人間の生き方ってのは自由で、必ずしも社会の一員として働いていないといけない訳ではないという事が分かった。人によっては「生きる為にはお金が必要で・・・お金の為には働かないと・・・」という決まったかのような台詞が聞かれる。しかし実際に本当に生きるだけにそこまでのお金は必要ではない。このコロナ禍で分かった事は人間はどんどん欲望が出てくる生物なので、お金があればある程に贅沢してじゃないけど、本来の人間が生きるという事に全く”不要不急な”事に無駄金を使っているという事。
だから周りの社会やその社会に生きる人達の生き方に流されずに、自分らしい生き方を見つけて自分の人生を生きないといけない。そこには周りではなくて自分の、自分自身に対する強い気持ちが必要になる。そして迷った時も自分で模索しながら進む道を見つけないといけない。でも歴史に埋もれてしまっている偉人達も過去に、実際にそのように自分の生き方を貫いて生きていたのである。
今回たまたまニッカウヰスキーの工場見学に連れていってもらった事から、この竹鶴政孝という人物について知り、そしてとても興味を抱いたので彼について書かれている書籍や自伝などを数冊読んでみた。そして彼の残したニッカウヰスキーのウイスキーを飲むと、1人の人間が意地を貫き通した結果が凝縮したウイスキーだった。そんなウイスキーを飲みながら、自分の人生で残すものが社会に影響があるかは全然分からないが、自分の生き方を貫く事の大事さを大きく感じた札幌旅であった。
2021.2.24
という事でますます日本全国に旅に行きたくなったので、まだまだ旅行記は続けます!
いつかはウイスキーのように、人間的にも熟成するといいね~~!
<完>