竹鶴政孝の夢の楽園だった、ニッカウヰスキー余市蒸留所の景色とは?

北海道/札幌旅

 旅行期間:2020年9月1日~4日

 

竹鶴政孝の夢だった場所

ニッカウヰスキー余市蒸溜所内を進む

前回に引き続き、北海道余市町に造られている「ニッカウヰスキー余市蒸留所」内のガイド付き見学ツアーは続きます。国産ウイスキー造りに携わり、国産第1号のウイスキーを造った竹鶴政孝がその勤めていた酒造会社であった寿屋(現:サントリー)を退社して、自分の理想とするウイスキー造りの拠点としたのがこの余市町であった。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所にて

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を見学

そんな本格的な国産ウイスキー造りが行われるまでの日本国内では、単なる輸入アルコールにウイスキーっぽく見せる為に砂糖や香料を加えた模造ウイスキーが多く流通していたという。しかし明治時代を過ごした後に大正時代を迎えて、日本の産業は瞬く間に西洋と肩を並べる程の工業水準へと到達していく。そして人々の生活水準も上がってくると、憧れの品であった西洋のお酒であるウイスキーも本物が飲みたいと思う時代に差し掛かってきたようだ。

なお江戸時代後期に浦賀に乗り込んできたペリーは、江戸幕府の役人達との交渉の際に、彼らを自船に招待して接待を行ったという。そしてその時に江戸幕府の役人たちに飲ませたお酒が、このウイスキーだったと言われている。

 

 

「大日本果汁」の旧事務所にて

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の旧事務所跡1

現在のサントリーの前身である寿屋という会社を辞めて、北海道のこの地余市町で本格的な国産ウイスキー造りに着手したニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝であるが、最初にここで興した会社はウイスキー会社ではなくて「大日本果汁株式会社」というジュース会社であった。というのもウイスキーという物は蒸留過程を経て高濃度のアルコールが出来上がっても、それではまだ幼い子供が生まれたような状態で、味わい深い商品になるには一定の熟成期間を要する飲み物なのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の旧事務所跡

こちらの杭には余市町指定文化財として「大日本果汁株式会社」の名前が入っている。こちらの建物はそんな日本果汁株式会社の事務所だった建物である。そのようにウイスキー造りではすぐに売り上げが立たなくて、最低でも5年は寝かせておかないといけないので、その代役とばかりにこの余市町の名産であるリンゴを使った、リンゴジュースをメインで販売する会社として最初は稼働したという。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を見学1

こちらは今では樽造りの製造過程が見られる「旧混和棟」という、昔は原酒がブレンドされていた建物であるが、ここは入れないようになっていて素通りだった。そして今回の見学枠は15時スタートの最終枠で、工場が閉館になるのが16時という事であまりゆっくりと場内を見て回る時間もなかった。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を進む

こちらの建物は「発酵タンク室」で、麦芽がデンプンによって加糖されて麦汁となった液体に、独自の酵母菌を加えて発酵させる場所である。この設備での発酵段階を経てやっとアルコール分が生まれる訳であるが、それでも一般的に飲まれているウイスキーとは比べ物にならない程に味も薄い、ウイスキーとは程遠いアルコール分の液体になっているそうだ。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を見学2

それにしても工場内にはこのように木や緑がいっぱい植えられているので、天気が晴れている日はそんな景色がより綺麗に見える。ここを訪れた2020年9月2日はまだまだ暑い日差しが照り付けていた時期だけど、本州や九州に比べると湿気が少なくてカラッとした気候の北海道だけに、少し涼しくて気持ちいい感じの気候となっていた頃。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を進む2

こちらは「リタハウス」と名付けられた、元々はニッカウヰスキーの研究室だった建物である。なおこの「リタ」という名前はニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝の奥さんとなった、スコットランド人の「ジェシー・ロバータ・カウン(Jessie Roberta Cowan)」という女性の愛称だった名前である。駆け落ち同然で周囲の反対を押し切って竹鶴政孝と結婚し、彼と一緒に日本にやって来て長年共に生涯を過ごす事になるのである。

メグちゃん
メグちゃん

NHKドラマ『マッサン』では、そんな仲睦まじい姿を見て羨ましいと思ってたよ~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を進む1

ニッカウヰスキー創業者である竹鶴政孝という人物は、こだわりが強くてブレない人間だったらしく、寿屋(現:サントリー)で国産第1号ウイスキー造りに成功するものの、本人が求めていたスコットランド風の本物のウイスキーではなく、当時の社長であった鳥井信治郎が”日本人向きなウイスキー”を求めて造らせたものであった。そんな会社の方針に相違を感じた竹鶴政孝は、自分の求める本当のウイスキー造りをする為に寿屋を退社する(約10年に及ぶ契約期間が終了したから)。

日本人の舌に合う物を求める商売人:鳥井信治郎と、本場スコットランドの本物の味を再現したい職人:竹鶴政孝の違いですね!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を進む

そしてその後に「大日本果汁株式会社」として余市町に工場を創業した竹鶴政孝であるが、このジュース造りにも彼のこだわりが発揮される事になる。この余市町は全国的にはあまり知られていないがリンゴの産地でもあり、至る場所でリンゴが造られていた。そこで竹鶴政孝は中途半端なリンゴジュースではなく、果汁100%のストレート・ジュースを造る事にした。そして余市町のリンゴ業者に「持ってきたリンゴは全て買い取る!」と伝えた為に、この工場の周りにはリンゴを納品する馬車で溢れかえっていたとか。

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内を進む3

しかしその当時はまだ一般的には本格派志向の文化が少なくて、このようなジュースも100%果汁の値段が高いジュースではなくて、清涼飲料に少しの果汁を加えて「リンゴジュース」として発売されていた安価な商品がメインだった時代なので、この本格派100%ストレートのリンゴジュースは全然売れなかったという。しかも果汁100%のジュースだけに1本のジュースには5個分の果汁が使われていたが、そんな果汁の成分が凝固して濁っているようにも見えたとして、購入者や販売店から返品が相次いだという。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内に置かれている樽

だから今では大きな会社となって世界から称賛される国産ウイスキー造る事となった会社の原点は、いきなり余市町のリンゴでつまづいたスタートから始まったのである。今でこそ無農薬栽培やオーガニック栽培などの謳い文句で、健康にいいからと価格が少々高くても売れる時代になっているが、当時はまだまだそんな健康志向など全然なくて、逆に健康を害するような環境下に置かれても工業化を進めていた時代である。

生まれてくるのが早過ぎたのかもね・・・

メグちゃん
メグちゃん

時代が彼に追いつけなかったという事ね!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内に置かれている樽1

大体大きな成功を収める人の過去には、その前に大きなトラウマになるような失敗例が必ず付き物である。そのような目の前に大きな壁が立ちはだかった時に、「何としてでも前に進む!」という気持ちを持って、その失敗の教訓を生かして進んだ者だけが栄光を掴めるのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内に植えられている植物

そんな返品だらけのリンゴジュースの積みあがった在庫と、どんな状態でも買い取ったというリンゴの在庫が常に高く積まれていた、大日本果汁株式会社創業時のこの場所だったのであろう。しかしそんなどん底な状態まで追いつめられても竹鶴政孝は、彼が理想にしていたスコットランド風の本物のウイスキー造りへの道を断念する事は無かった。そのような成功も裏では彼を支援していた後援者が、彼を信じて支援し続けた影響もあったのであろう。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の見学は進む

そしてこの余市町に工場を創業してから約5年後の1940年に、熟成期間が終わった商品として販売できるウイスキーが誕生する事になる。そんな苦労の末に販売にこぎつけたウイスキーの名前を、当時の会社名を省略して呼ばれていた「日果(にっか)」を取り入れて、「ニッカウヰスキー」と名付けたのである。

 

【ニッカという名前に決めた理由】
①横書きにしても片方からしか読めないから
②三文字は語呂が良くて、広告などで小さなスペースで済むから
③三文字の為に狭いスペースにも大きく表示できるから
メグちゃん
メグちゃん

へ~~「ニッカ」にはそんな理由もあったんだね~!

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の見学は進む1

そしてそんな苦労の果てに仕上がったウイスキーはちょうど太平洋戦争直前の時期であり、軍国主義全盛だった大日本帝国下で第一号ウイスキーが発売された約2か月後には統制品となってしまって、自由に販売できなくなってしまう。しかし統制品となってしまったから、逆に売れ行きが良くなかったウイスキーが全て買い取られる事になった。竹鶴政孝が幸運だったのはそんな本格的な国産ウイスキーを欲しがっていたのが、大日本帝国の海軍将校達だったからである。

というのも幕末になると薩英戦争でその海軍力の凄さを体感した薩摩藩などが、自前の海軍を設立して海軍兵士候補生をイギリスに留学させて、イギリス海軍の教えを徹底的に学ばせたのである。それもあって明治初期に海軍大将になったのは薩摩藩出身者が多く、彼らはイギリスで好まれていたウイスキーやワインを特に好んでいたのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内にある、旧竹鶴邸

なおこちらの建物は「旧竹鶴邸」で建物内は見学できないけど、玄関ホールのみ公開されている。なおこちらは余市町で竹鶴夫妻が実際に暮らしていた家で、後になってからこの工場内に移築されたものである。

 

外国産ウイスキーも太平洋戦争直前では敵国製品して輸入が禁じられた為に、それらのウイスキーを手にする事が出来なくて困った大日本帝国海軍の幹部が、このニッカウヰスキーなど国産ウイスキー工場(サントリーも)を海軍監督工場とした。そうして国産ウイスキーが海軍将校に優先的に割り当てられる事になり、その原料である麦芽なども統制下でありながらも支給される事になり、統制品となってしまった為に逆にウイスキー製造という事業が支障なく存続して行えるようになったのである。そして結果的には敗北した日本軍を占領したGHQの司令部が、国産ウイスキーを大幅に購入した事も後の成長に繋がるのであった。

メグちゃん
メグちゃん

当時の海軍将校たちがウイスキー好きじゃなかったら、日本のウイスキー造りが頓挫していたかもしれないのね!

昔から腐らないお酒が水代わりに船に積まれていた事が、ニッカウヰスキーの存続に繋がる訳で!

マトちゃん
マトちゃん

イギリスではなくロシア海軍に留学に行っていたら、今頃日本でも日常的にウォッカが飲まれていたハズヨ!

 

 

 

ウイスキーが入った樽が熟成されている「貯蔵庫」にて

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫

こちらの建物はウイスキー造りでも重要な、ウイスキー原酒が樽に詰められて5年以上もの熟成期間を過ごす為の場所である。なおあまりウイスキーにこだわって飲んだ事が無いけども、ボクは会社員を辞めた後に半年間だけ大阪ミナミの、俗に”接待を伴う飲食店”と表現される夜のお店で働いていた時がある。そんなお店で働いている時に、お客さんが持参したウイスキーを飲み比べした事があった。

 

その時に飲み比べしたウイスキーは「サントリーウイスキー山崎」で、通常一般的に販売しているのは12年熟成されたもの。しかしそのお客さんが持ってきたのはこちらの「サントリーウイスキー山崎18年」のリミテッドエディションという限定品で、1本7~8万はすると言っていた。そしてそんなお酒の封を開けて「飲み比べてみい!」と言われて、山崎の12年物と18年物を飲み比べてみた。

すると6年熟成期間が違うだけで香りから全然違っていて、芳醇な奥行き深い香りとなっており、それを口に含むと12年物とは比べ物にならない位に、口の中にその芳醇な香りが広がったのを覚えている。そんな18年熟成物の山崎と12年物を比べてしまうと、12年物が全然味気ないお酒に思えてしまう位に違いを感じたのであった。。

でもそんないいお酒もちょっと飲んだだけで、後はショーケースに置かれたままとなってました・・・

メグちゃん
メグちゃん

男は見栄張る為だけに、そんな高級なお酒を買っちゃうのよね~!

モ~モ~子
モ~モ~子

高価なお酒を飲みたいというより、お店で自慢したかったんだろうね・・・

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫の内観

そしてそんな「貯蔵庫」に入ってみると、ガイドのお姉さんが言っていた通りに、樽に入れられているウイスキーの香りが充満しているのが分かる。ウイスキーはアルコール発酵させられて蒸留過程を経た後にこのように樽に詰められるが、樽では完全に密封されている訳ではなくて、水分は漏れないけど空気は僅かな隙間から出入りするようだ。気温が温かいと樽内のウイスキーが膨張して樽の外に気化した成分が染み出て、逆に気温が寒くなるとがウイスキーが収縮して外気が樽の中に入ってくるという。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫の内観1

そのような現象がウイスキー業界では「寝かせたウイスキーが呼吸する」と、まるでウイスキーが生きているかの如く表現されるものとなっており、ウイスキー造りの伝統ともなっている。なお湿気がある場所だとウイスキーが気化しにくく、このような熟成期間中に呼吸が行われにくくなる。なので現サントリーの社長だった鳥井信治郎の指示で関西に蒸留所を造る事を、竹鶴政孝は反対したとされている。

仁義スカンク
仁義スカンク

地球上の物は全て生き物だからね!ただプラスチック以外は・・・だけどプ~~~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫の内観で臭いを嗅ぐ

ここ貯蔵庫ではそんなウイスキー樽から吐き出された、気化されたウイスキーの匂いが現に漂っているのである。そしてそんな気化されたウイスキーは勿論樽の中には帰る事が無いので、ウイスキーは熟成すればするほどにその樽内の量がどんどんと目減りするのである。だからさっきの山崎じゃないけど、たった6年の熟成の違いで販売できる量が減ってしまう事もあって、熟成期間が長いウイスキー程にかなり割高な値段で流通される事にも繋がっているのである。

なお余市工場内には26もの貯蔵庫があって、1つの倉庫に眠っているウイスキー原酒を販売金額にすると100億円を超えるという。なので古い原酒などは貴重な財産であり、またそれぞれの貯蔵庫では万が一の事態に備えて各年代の樽を均等に保管しているという。

メグちゃん
メグちゃん

100億円の価値がある貯蔵庫に居ると知っていたら、もっと緊張していたかもね~!

 

ウイスキー博物館に展示されている、15年熟成樽のウイスキー量

ウイスキー博物館に展示されている、熟成樽毎のウイスキー量

なおこちらは後程見学する、敷地内にあるウイスキー博物館に展示されている、5年/10年/15年熟成樽のウイスキー量を可視化できる展示である。このように熟成期間が長い程に樽内のウイスキー量は減っていき、15年物の樽はその量が半分にまで減ってしまっていた。なおこのようなウイスキー原酒が蒸発してしまう事を「エンジェルズ・シェア(天使の分け前)」と呼んでいるそうな。そんな生産効率よりもスコットランドで造られていた、伝統的なウイスキー製法を頑なに守って製造を続けた竹鶴政孝は、「ウイスキーも生き物である」と言っていたそうだ。

エロ坊主オジサン
エロ坊主
オジサン

蒸発した酒、勿体ないな~!どうせ酔っ払いは、味より量を優先するけ!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所の見学はそろそろ終わり

そんな風に貯蔵庫で1人ウイスキーの匂いを嗅いでいると、見学ツアーは無情にも先に進んで行っていた。

なお昔は「造石税」(1石は180Lの酒)と呼ばれる明治11年(1878年)に制定された酒税の影響で、お酒は完成品となった段階で酒税が科せられる訳ではなくて、原酒が完成した際に徴収される事になった。なので日本酒は江戸時代では何年か熟成させているものもあったが、この造石税によって熟成させる前に税金が取られてしまう事もあって、置けば置くほどに資金繰りが悪くなるので日本酒が熟成される事が無くなったという。

そして何故この造石税が制定されたかというと、当時は日清戦争や日露戦争など他国との戦争を想定して資金稼ぎをする必要があったからだ。その為にこの造石税によって政府は潤沢なる資金を調達できたが、酒造りをする人には苦しい税法となっていた。特にウイスキーでは原酒を最低でも5年間は熟成させないといけないので、国産ウイスキー造りをする際に鳥井信治郎や竹鶴政孝はまずこの造石税を「出庫税」(完成品になってから課税)に改めて貰うように、何度も大蔵省に出向いて役人を説得したという。

メグちゃん
メグちゃん

そんな苦労もあって、ウイスキーは出庫税として認められたそうよ~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫の建物

その後、大日本果汁株式会社(のちのニッカウヰスキー)への出資額約70%を提供していた、加賀証券の社長だった加賀正太郎氏が死期を悟って自分の死後に所有株式が転売される事を危惧して、当時の朝日麦酒(現:アサヒビール)にその所有株式を全数譲渡する。そしてニッカウヰスキーの半数以上の株式を保有したアサヒビールは、ニッカウヰスキーの販売を手伝い売り上げを伸ばす事に貢献する。そして2001年にはニッカウヰスキーの株式全数を取得してアサヒビールの完全子会社化となり、ニッカウヰスキーの株は今では上場廃止となっている。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫が改造された博物館

さて駆け足で回ってきた余市蒸留所の見学でもあるが、コロナ禍の影響でたった15分間だけのガイドツアーはここで終了となる。なおこの15時からの案内枠は当日最終枠でもあり、工場が閉まる16時までの残り45分間は自由に見学していいとの事。そして大体の人は右手に見える「ウイスキー博物館」に進んでニッカウヰスキーの試飲をするか、このまま奥に進んだ所にある売店に向かうかという2パターンの行動をするそうだ。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所のガイドさんと記念撮影

そして同行するメグちゃんの計らいにて、バスガイドのような出で立ちをしていたニッカウヰスキーのガイドさんとのツーショット写真を撮る事に。このコロナ禍によって人々はマスクを着用するようになってしまったので、このように旅先で出会った女性の顔があまり見えなかった事が、コロナ禍で唯一残念に感じた事であった。。

メグちゃん
メグちゃん

そんな贅沢な事言うから、お相手が見つからないのよ~!

 

 

「ウイスキー博物館」を訪問

ニッカウヰスキー余市蒸留所内ある貯蔵庫が改造された博物館の入口

そしてお世話になったガイドさんとの記念撮影も終わった後の楽しみは、このウイスキー博物館の見学ではなくて、こちらの看板にもあるように、ニッカウヰスキーの試飲である。

酒飲みがそのアルコールを造る工場に行く理由は、たった1つである!

忙しいクマ
忙しいクマ

そりゃあ、お酒の試飲をする為やな!

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の博物館へと入る

ただあまりゆっくりとしていると、このウイスキー博物館内にあるウイスキーの試飲コーナーが閉館前に閉まってしまうとの事で、ちょっと急ぎ気味に歩みを進める事にした。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の博物館入口の景色

そしてそんな急ぐ気持ちでウイスキー博物館内に入ると、まずはこのようにニッカウヰスキーの樽達が目に飛び込んでくる。勿論このようなウイスキーを入れる樽も、ここで造られていたものである。ウイスキーを造るには、まずその前にウイスキー原酒を入れるこのような樽がどうしても必要なのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所内の博物館入口の景色1

さてウイスキー博物館の入口には、さっきも見学したポットスチル型の単式蒸留器が中央に置かれているのが見える。そして中央奥にはここでも”キング・オブ・ブレンダーズ”という西洋人オジサンのイラストが、「ここに来たら絶対ウイスキーの試飲をしていけよ~~!」って言っているように見える瞬間でもあった。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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