ニッカウヰスキー余市蒸留所ガイド付きツアーで昔ながらの製法を見学

北海道/札幌旅

 旅行期間:2020年9月1日~4日

 

竹鶴政孝のこだわりが詰まった工場

余市の町にあるニッカウヰスキーの工場1

さて今日は一旦余市町にやって来てから小樽の街を見に行ったけど、15時からのニッカウヰスキー余市蒸留所のガイドツアーを予約していたので再び舞い戻ってきた余市町。そして今回は満を持して工場横にあった、ガイドツアー予約者専用の無料駐車場に車を停める。ここに到着したのが14時50分という、ジャストタイムであった。

 

ニッカウヰスキー余市蒸留所にて

余市の町にあるニッカウヰスキーの工場外観

この外観は一見英国風のお城みたいにも見える「ニッカウヰスキー余市蒸留所」。何故このような外観をした建物となっているかは、そのニッカウヰスキーを創業した竹鶴政孝という”日本ウイスキーの父”とも呼ばれる男のこだわりが込められているからである。

 

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の入口から入った、工場内の景色

こちらはそんな英国風のお城の門をくぐって見えた、ニッカウヰスキー余市蒸留所敷地内の景色である。今まではこの敷地内は一般に開放されていて、ガイド付きツアー以外の自由参加も可能だったが、この時はコロナ禍の影響で自由見学は禁止となっていて、敷地内に入るにはこのガイド付きツアーを申し込まないと入る事が出来なかった。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の入口

こちらのお城のような造りになっている建物は、正確に言うと英国風ではなく、創業者の竹鶴政孝が留学したスコットランド風の建築物となっている。余市蒸留所内にはこの正門などを始め、9棟の建造物が国の”登録有形文化財”にも登録されている。昭和9年(1934年)という時代にこのようなスコットランド風城門という外観は、この北の大地では特に異様な建物だったのだろう。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所を内側から見た景色

ちなみにここでのガイド付きツアーは枠さえ空いていれば、無料で案内してくれる。そして最後にアルコールの試飲も出来るが、ここでもその試飲は有料となっている。なおこの余市蒸留所ではお酒を飲めない人も、アルコール造りの見学と共に、歴史的な建造物の見学をするにも、もってこいの場所でもある。

北海童子
北海童子

酒好きが北海道に来ると、サッポロビール博物館とこの余市蒸留所に行ってるドウ!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の工場サイン

ウイスキー造りの工場というと昔に大阪府にある「サントリー山崎蒸溜所」を訪れた事が1度だけある。そんなサントリー山崎蒸溜所はサントリーの創業者である鳥井信治郎氏が、本格的な国産ウイスキー造りを目指して立ち上げた工場。そしてその工場を立ち上げる際にスコットランドからウイスキー造りの職人を招聘しようとしたら、日本国内にそのノウハウを勉強した人物が居てると教えられる。そのウイスキー造りに長じていた人物が、このニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝であった。なお、鳥井信治郎は竹鶴政孝がスコットランド留学する前に、摂津酒造で働いている時から既に顔見知りであり、竹鶴政孝がスコットランド留学する際にはわざわざ港まで見送りに来たという。

 

 

余市蒸留所の「お客様待合室」にて

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室

まずは入口でガイドツアーの受付をして15時からスタートの為に、一旦この「お客様待合室」で案内してくれるガイドさんを待つように指示される。この「お客様待合室」が造られている建物も内観だけ見るとあまりそう感じないけども、登録有形文化財に指定されている建造物である。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室にあった、ニッカウヰスキーのシンボルマーク

「お客様待合室」に入ると、

メグちゃん
メグちゃん

ニッカウヰスキーにようこそ~!

まず出迎えてくれるのはこちらの美人さんで・・・・・ではなくて。。

今ではニッカウヰスキーのイメージとしても直ぐに顔が浮かぶ、俗に”キング・オブ・ブレンダーズ”と呼ばれる、右手にウイスキー、左手には麦の穂を持った洋風なオジサンの絵である。なおこのデザインは創業当時からのものではなくて、1965年に発売された新製品「新ブラックニッカ」のラベルに採用されたのが、この始まりとなっている。そしてこの人物のモデルについては色んな説があるらしいけども、今ではウイスキーブレンドの先駆者でもあったスコットランド人「W・P・ローリー(William Phaup Lowrie)」とされているようだが、その真相は今となっては定かではないようだ。。

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内の景色

待合室に入ると壁だらけに、このニッカウヰスキーに関連する説明板パネルが並んでいるのが見える。ウイスキーが何よりも好きなマニアからすると、垂涎の資料なんだろうけども、そこまでウイスキーが好きな人間ではないので、ほどほどに写真を撮る程度に収める。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内の景色1

個人的にウイスキー自体は嫌いでもなくて、ロックで飲むのは好きなのであるが、どうも水割りで飲む味があまり好きではない。それはいいウイスキーを飲んだことが殆どない為かもしれないが、他にも要因がある。

というのも前に仕事で中国出張した時に、このウイスキーを飲み過ぎて失敗した経験があるからだ。。

 

ウイスキーのイメージ

そして中国での視察を終えてその晩に現地工場の社長とご飯を食べに行った際に、盛り上がってその社長が家からわざわざウイスキーのボトルを取り寄せてきた。そして中国に仕事で出張した事のある人なら分かると思うが、中国流の食事時もてなし作法は次々とお酒を飲んで乾杯する事なのである。ショットグラスにストレートで注いだウイスキーを飲むと、中国であろうがそれなりに美味しいのであった。

しかし中国流ではこの1杯だけで終わる訳ではなくて、次々に相手1人ずつと乾杯していかないといけない。こちら側はボクを連れて行ってくれた日本人社長がいたが、彼は何回も経験しているので早々と上手い事身を引き、いつの間にかコッチ1人に対して相手は3人がかりで戦う事となった。そして相手が3人という事は1巡するのに相手は1杯ずつでいいけど、こっちはそれぞれ毎に飲まないといけなく1巡に3杯も飲まないといけない。

という事で世渡り上手ではない日本人が迎えるこの結末は、だいたい想像が付く通りとなってしまう。ボクの場合は酔いつぶれて泥酔して周りの人に絡みまくり、翌日は激しい二日酔いで仕事にならなかった事を今でも思い出すのである・・・。

メグちゃん
メグちゃん

まあ何事も経験あるのみだよ~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていた説明

こちらには国の登録有形文化財に指定された、余市蒸留所内の9つの建造物の説明が載っている。あくまで敷地全体が国の登録有形文化財に指定されている訳ではなくて、現役で稼働する工場でもあるので、新しい設備などもある影響で建物毎に登録有形文化財に別個に指定されているようだ。

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていた説明1

結果的には北海道で竹鶴政孝が造り出したニッカウヰスキーが生まれて、今では全国に8つの工場がある。その中でも特に注目されるのが昔ながらの製法にこだわりを見せていた竹鶴政孝が、旧式の蒸留釜を使っているここ余市蒸留所宮城峡蒸溜所だという。会社が発展してくると段々と効率のいい機械や製造工程が導入されるが、ウイスキー造りに命を懸けていた竹鶴政孝は、そんな効率よりも真のウイスキー造りに妥協しなかった結果である。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていた説明2

一口にウイスキーというけども、このパネルのように実はウイスキーにも種類がある。大きくは「モルトウイスキー」「グレーンウイスキー」という2種類のウイスキーに分類される。

「モルトウイスキー」は大麦麦芽(モルト:malt)のみが原料になっているもの。
「グレーンウイスキー」は大麦麦芽が約20%、トウモロコシなどの穀物(グレーン:grain)が約80%の割合となっている。
※ちなみに「グレーン:grain」という英語は、トウモロコシを差す単語ではなくて、トウモロコシ・ライ麦・小麦・大麦などをまとめて穀物(grain)と表現しているようだ(国によって認識は変わります)。

そしてそのまま仕上がって出荷されるものもあるし、一旦ブレンドして再貯蔵されるウイスキーもあるという。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていた説明3

ニッカウヰスキーの歴史は創業した竹鶴政孝の歴史でもある。広島で酒造業をしていた家に3男(男4女5人の9人兄弟)として生まれた竹鶴政孝は、上の兄弟が相次いで家業を引き継ぐ事を嫌った為に代わりに継承する事になった。そして醸造の勉強をする為に大阪高等工業学校(現在の大阪大学)で、当時はそこに唯一あった醸造科に入学して酒造りを学ぶ。そして大阪高等工業学校を卒業して大学時代に興味を持った洋酒造りで当時は有名だった、現在の大阪市住吉区にあったという摂津酒造(のちに宝酒造に吸収される)に売り込みをかけて、その摂津酒造の常務が大阪高等工業学校醸造科一期生だった縁もあって摂津酒造で働く事になる。

 

大阪市住吉区にある、摂津酒造跡地の「神の木公園」

大阪市住吉区にある、摂津酒造跡地の「神の木公園」

その摂津酒造で竹鶴政孝は希望通り洋酒づくりの担当となり、真面目な働きぶりもあって早速主任に抜擢される。なおサントリー創業者:鳥井信治郎と出会ったのはこの頃で、鳥井信治郎が洋酒風葡萄酒を摂津酒造に外注製造させていた。当時はまだ洋酒造りの技術が低かった時代で、他のメーカーが造る葡萄酒は殺菌が不十分だった為に、夏場になるとお酒が発酵し中身が膨張して栓を吹き飛ばして噴き出す事が起こっていた。しかし竹鶴が担当した葡萄酒では徹底して殺菌されていたので全く噴き出る事が無かったという。これに感激して鳥井信治郎は竹鶴に感謝を述べたという。

 

大阪市住吉区にある、摂津酒造跡地の「神の木公園」の景色

大阪市住吉区にある、摂津酒造跡地の「神の木公園」

 

その当時はまだ偽物まがいの国産風ウイスキーが日本内に出回っていた時代で、摂津酒造は将来的に伸びると考えた本格的な国産ウイスキー造りをする為に、洋酒担当だった竹鶴政孝をウイスキー造りの本場であるスコットランドに研修させる事にした(なお竹鶴の真面目な働きを評価していた摂津酒造の社長:阿部喜兵衛社長が、彼の娘婿として竹鶴を選んで将来的に摂津酒造を継がせる考えもあったとか)。そのスコットランド留学で大学での勉強だけではなく、単身ウイスキー工場に乗り込み、約2年間に渡ってその造り方を3箇所の蒸留所実習で学んだ。なおこのスコットランド留学の際にのちに彼の妻となる、通称:リタというスコットランド人女性と出会うのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所で配られた敷地案内地図

さて工場見学に回る前にこちらの手書き「余市蒸留所:案内図」を見て、ちょっとだけ見学前に工場内の様子を想像してみる。ニッカウヰスキーの社員が手書きしたような図だけど、素人が書いた物には見えない程にうまく書けている図となっていたので、デザイナーか絵描きが書いたものだろうと予測する。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていたウイスキー

そして待合室にはこのように余市で造られているウイスキーや宮城で造られているウイスキーなどが、展示されているのが見える。ウイスキーは蒸留して出来上がったアルコール状態では色や深みが無くて、数年間樽に入れて熟成して初めて味や色の深みが出てくるのである。だから他の蒸留酒には無い茶色い色合いや匂いや味の深みという要素は、醸造時に生まれるものではなく、その熟成時に保管されるオーク材が主に使われる樽の中で得られるものなのである。

メグちゃん
メグちゃん

なるほど、だから他の蒸留酒ではあまり聞かない熟成年月が表示されているのね!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていたウイスキー1

スコットランド留学してウイスキー造りを学んできた竹鶴政孝は、大阪の摂津酒造に戻って国産ウイスキー造りを目指す。しかしその頃は第一次世界大戦が終わって数年が経っており、戦争中に他国へ軍需物資をどんどん輸出してバブル景気になっていた日本が、軍需物資の需要が全く無くなって逆に戦後恐慌という大不況に見舞われていた頃。産業の繁栄衰退というものも面白いもので、需要がとても大きい時はどんどんその産業が伸びていくけど、その産業が大きくなり過ぎると逆にその需要が全く無くなってしまうと、それを当てにしていた膨大な人達の仕事が無くなって大不況が訪れるのである。。

だから会社も売り上げがメインの得意先に大きく依存し過ぎると、共倒れになるってよく上司が言ってましたね・・・

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の待合室内に展示されていたウイスキー2

そんな不景気な時代に突入し国産ウイスキー造りを目指していた摂津酒造は、残念ながらウイスキー造りを断念してしまい、竹鶴政孝も居場所が無くなり退社する事に。そしてそれから竹鶴は生活の為に、大阪市内の中学校で化学を教える教師などをしていた時代もあった(当時リタの知人であるイギリス人が、校長をしていた「桃山中学校」にて)。そんな後に現在のサントリーである寿屋という酒造会社になりつつあった会社が、国産ウイスキー造りを目指してスコットランドで実際にウイスキー造りを学んだ浪人:竹鶴政孝に白羽の矢が立つのである。

 

大阪市にある「桃山中学校」で一時教員をしていた竹鶴政孝

大阪市にある「桃山中学校」(現在の桃山学院高校)

そして寿屋のウイスキー造り責任者に任命された竹鶴政孝であるが、気候的にスコットランドと条件が近い北海道での生産を理想としていたが、寿屋の社長だった鳥井信治郎から「流通先に近い場所で生産を、そして見学がしやすい場所」という要望があり、竹鶴政孝自身は反対したが今の山崎蒸留所にウイスキー工場が造られる。そしてその山崎蒸留所で1929年に”初めての国産ウイスキー”である「サントリーウヰスキー:白札」が発売される事になるのである。

 

 

ガイド付きツアーのスタート

ニッカウヰスキー余市蒸溜所のガイドツアーがスタート

そして15時の時間通りにガイド付きツアーがスタートする。なおコロナ禍前まで行われていたガイド付きツアーは30分以上は案内するものであったが、コロナ禍の影響でガイド付きツアーながらも約15分程度と短くなっていて、それ以降は自由に各自見学するシステムになっていた。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所のガイドツアーがスタート1

この余市蒸留所は国の登録有形文化財になっているけど、まだここで実際に昔の製法で未だにウイスキーが造られている、現役のウイスキー工場だという。ただ流石に工場が操業しだしてから80年以上が経過しているので、昔ながらの設備を一切そのまま使っている訳ではなく、新しい設備が導入されている施設も敷地内に存在している。この敷地内で国の登録有形文化財に指定されていない建物は、そういった新しい設備が導入された比較的新しいものなのかもしれない。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟

そしてまずガイドさんに案内されたのが、この余市蒸留所で一番重要な設備と工程が行われる建物である。このニッカウヰスキー余市蒸留所見学のメインは、これから見る「蒸留棟」と言っても過言ではない。だからガイド時間が短くなっていた2020年のコロナ禍でも、この施設だけが実際に中に入っての説明があった唯一の設備であった。

 

余市蒸留所の「蒸留棟」にて

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟に入る

ウイスキー造りの製法は、まず麦芽をデンプンで糖化させて麦汁という液体に変える事から始まる。

モ~モ~子
モ~モ~子

これはビールでも同じ製法が使われていて、ここまでは一緒ですね~!

そしてその麦汁に特別な酵母菌を加えて発酵させると、アルコール分が8%前後になった液体となる。その出来上がったアルコール液体では水分が多過ぎるので、ここにある単式蒸留器という設備で加熱して蒸留させる(水分とアルコールを分解)。しかし1回だけの蒸留工程では元々の3倍程度である25%前後のアルコール分にしかならないので、その蒸留作業を繰り返し行って約70%前後のアルコール液体にさせるのである。

メグちゃん
メグちゃん

これでウイスキーの原液となる訳ね~!

仁義スカンク
仁義スカンク

アルコール度数を高めるのは、腐りにくく保存期間を長める為プ~~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟に入る2

世界中でも珍しい設備であるこの余市蒸留所の蒸留棟は、このように昔ながらに石炭を燃やして加熱している点にある。昭和前半までは蒸気機関車などでも石炭が使われていたけど、時代が進む毎にもっと使い勝手がいい物が出てきているのに、この余市蒸留所では創業者の竹鶴政孝の信念が込められている場所だけに、頑なにその製法を守り続けている。なおこの日は釜が動いていなかったけども春や秋などの製造シーズンでは、実際に目の前でこの石炭を燃やしている光景が今でも見られるという。

メグちゃん
メグちゃん

焼肉や焼き鳥も炭で焼くと、美味しく感じるよね~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内の景色

こちらの蒸留棟に設置されているのは、全て昔から使われ続けている単式蒸留器が7台である。しかも見ても分かる通り、それぞれの単式蒸留器には日本ならではのしめ縄が巻かれているのが見える。これは日本酒醸造会社の息子でもあった竹鶴政孝が、小さい頃から見てきた日本人が酒造りの無事を神様に祈願してきた伝統の名残りだそうだ。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内の景色1

ガイドツアーではバスガイドのような出で立ちをした、ニッカウヰスキーのお姉さんが簡単にウイスキー造りの工程などを説明してくれる。なおウイスキー造りの工程であるが、アルコール分が70%を超えた状態に蒸留した後は、オーク樽内にウイスキー原酒を入れて数年間保存してその間に原酒が呼吸しながら熟成していくという。そして一定期間熟成させたウイスキー原酒だが、実は同じ原酒であっても、また同じ場所に同じ年月保存されていても味わいや香りに差が出てくるという。

というのも原酒を入れていた樽の個性がそれぞれに違って、それら違う樽に保存されていた為にバラツキが出て仕上がるという。だからそんなバラついたウイスキー原酒をそのまま流通させるのではなくて、一旦何点かの原酒を混ぜて販売するウイスキーの平均点的なレベルに統一するという。そしてそのままではアルコール分が70%程と高すぎるので、水を加えてアルコール度数を40%程まで下げてやっと販売される製品となる。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内の景色2

こちらは「ポットスチル型蒸留器(Pot still)」と呼ばれる、単式蒸留器である。

まずはこの単式蒸留器の設備で行われるのは、

①「ポット」(pot):原料を加熱する工程 ※石炭で加熱するのは世界でも稀
②「スワンネック」(swan neck):加熱されて水分と切り離されて蒸発していく
③「ラインアーム」(lyne arm):蒸発したアルコール分がスワンネック先端の凝縮器へと送られる
④「コンデンサー(凝縮/液化器)」(condenser):蒸発したアルコール分を冷やして、凝縮(液化)させる

という工程を経て、蒸留前のアルコール度数が約3倍になる液体へと変化するのだ。

 

 

モ~モ~子
モ~モ~子

人類って、ここまでしてもお酒が飲みたいんだね~~!

仁義スカンク
仁義スカンク

人類はアルコールを一種の薬だと信じている節があるプ~~!

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内の景色3

この蒸留器には単式蒸留器連続式蒸留器というものに分かれる。このアナログな単式蒸留器に比べて連続式蒸留器は、繰り返しその蒸留作業を行わなくても、その器械内で2~3回分の蒸留が行える。ただしそんな生産性のいい連続式蒸留器では、逆に単式蒸留器ならではの”独自の味わい”が付かずに、クリアで味気ないアルコールに仕上がるという。

 

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内の景色4

そしてこの蒸留棟では奥まで入れなかったが、この中央奥に見える年代物のような外観をしている単式蒸留器がここで最も古いものだという。このポットスチル型単式蒸留器は元々竹鶴がサントリーの工場長として働いていた時に、他の設備はイギリスに発注しても、肝心のこの蒸留器だけは当時大阪にあったという「渡辺銅鉄工所」で造らせた。そしてこの余市工場でも使うポットスチル型単式蒸留器は、その渡辺銅鉄工所で造らせたという。(なお山崎蒸留所の初代ポットスチル型単式蒸留器は、今では使われておらず敷地内に展示されている)

 

なおこの国産ポットスチル型単式蒸留器を造らせる際には、竹鶴がスコットランド留学時に書き記した”竹鶴ノート”の記述を参考にして図面を作って指図したという。このように竹鶴政孝が汗水垂らして取り組んでいたウイスキー造りの製法が、今でもこの余市工場では頑なに守られているのである。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内で実際に使用されている石炭

その竹鶴政孝のこだわりが残っているのが、この世界的にも稀な石炭を使って「ポット」(pot:原料を加熱)している点にある。だからこの余市蒸留所で最低限のガイドツアーによる説明時間しかなかったけど、その目玉でもあるこのポットスチル型蒸留器だけは欠かせない名物設備だったのである。ただ昔ながらの石炭を燃やす方法なので効率が悪く、石炭1トンに対して約半分の500リットルしか蒸留できないとか。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所の蒸留棟内で実際に使用されている石炭1

昔は蒸気機関車や大型客船なども、このように石炭を燃やして蒸気機関を動かしていた時代があった。その時代には前回の九州旅でも見たように、筑豊エリアで産出した石炭などが小倉に運ばれて、そこから全国に出荷されていて大量に流通していた時代であった。今では映画の中でしか見れない場面であるが、かの大型客船で沈没したタイタニック号もこの石炭による蒸気機関船で、積み込まれていた大量の石炭が燃えて防水隔壁が破損してそれが原因で沈没したという説もあるという。

 

ニッカウヰスキー余市蒸溜所内を進む

人類の歴史にはお酒は欠かせないものである。ちなみに人類が造った世界最古のお酒は蜂蜜から造られた蜂蜜酒だそうで、結婚した新郎新婦が結婚初夜にその蜂蜜酒を飲んで精力を付けて小作りを励んだ為に、「ハニー・ムーン」という言葉が生まれて、日本ではそれが「ハネムーン」という語源になっているとか。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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