信州松本旅行記2022年3月-20
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
もぐらのように!
ここは長野市内でも、南側に位置する長野市松代町。
江戸時代の儒学者で思想家でもあった「佐久間 象山」の出身地としても有名な場所であるが、そんな場所に太平洋戦争下に日本帝国軍が隠れて大きな施設を建造しようとしていた場所でもある。
松代町にて
この松代町は山間の静かな町という雰囲気で、午前9時過ぎに訪れた事もあって、とても静かだった。
またコロナ禍でもあったので、他に観光客らしき姿の人も殆ど見かけずに、こんな所に本当に日本軍が掘った大きな塹壕跡があると思えない場所でもあった。
「恵明禅寺」に寄り道!
道を歩いていると、「本当に目的地があるのか?」と不安になりそうな道だったが、その途中にこちらの「恵明禅寺」という寺が見えてきたので、ちょっとだけ寄り道してみる事にした。
この恵明禅寺は、禅宗の中でも『黄檗宗(おうばくしゅう)』という、京都府宇治市の「黄檗山(おうばくさん) 萬福寺」が本山となっている寺院。
その黄檗宗:恵明禅寺は信濃松代藩(真田家)の第3代藩主となった「真田 幸道(さなだ ゆきみち)」が、1677年に開基したとされている。
松代藩の真田家にゆかりのある寺なので、山門に”真田家の六文銭”の家紋マークが飾られていたという訳のようだ。
ただ建立から約150年後の1825年に本堂より出火して、山門以外の建物は全て焼失してしまったという。
その火災から約8年後の1833年に、信濃松代藩:第8代藩主の真田幸貫が再建したという。
真田幸貫公は、松平定信の息子だったじゃん!
そして左手には、この恵明寺を開基した真田幸道の正室として、迎え入れられた「豊姫(とよひめ)」の御霊屋である。
なお、この豊姫は宇和島藩第2代藩主:伊達宗利の娘であり、宇和島藩の伊達家はあの伊達政宗の長男からの家系で、豊姫は伊達政宗の曾孫に当たる。
今の愛媛県から嫁いできた豊姫は、嫁入りの際に「杏の木」を持ってきたとされている。
そしてその杏が松代の地に植えられて、後に専売品に指定される程に名産品となっていったという。
また、この恵明寺の山号が『象山』となっていた事から、この地で生まれた儒学者で思想家の「佐久間 象山」と名付けられたという。
象が住んでいる山かと思ってたな・・・
山号が『蟻山』だったら、「佐久間 蟻山」だったじゃん!(笑)
この松代の地を治めていた松代藩は、川中島藩としてスタートし、森家1代、長沢松平氏1代が治めた後に松代藩となり、越前松平家1代、酒井家1代を経て真田家が残りの江戸時代を治める事になった。
その為に真田家ゆかりの寺などでは、このように建物にも真田家の六文銭マークが見受けられる。
この辺りに日本軍が戦争時に隠れて大きな地下壕を掘った場所だという雰囲気が全然感じられないまま歩いて行くと、このように「象山地下壕」という案内板が見えてきた。
「松代象山地下壕」を見学!
そしてその案内板の矢印の方向には、こちらの小屋が建てられており、「松代象山地下壕」の見学受付施設となっていた。
ただ、こちらの施設は見学無料となっているので、受付で来訪者の氏名や住所を書くだけとなっている。
住所:長野県長野市松代町西条479-11
営業時間:9時~16時頃(※休み:第3火曜日及び年末年始)
電話番号:026-224-8316
入場料:無料
※駐車場は「代官所町駐車場」(無料)を利用してください
長野県に戦時中に政府の中枢施設移転の為に大きな地下壕が掘られたというのは知らなかったけど、2021年に再会した”エロ坊主オジサン”から教えてもらった場所だった。
ホンマ、長野県に来るんやったら、おススメの訪問先やけ!
この松代象山地下壕は1944年11月11日11時11分に工事が開始され、日本が敗北した1945年8月15日まで続けられ、約80%まで工事が進んだ段階で中止された。
そしてその掘り抜かれた総延長距離は、約10kmにも達するという。
その広大な地下壕の中で、平成元年にそのような歴史を忘れて欲しくない事もあって、この松代象山地下壕の約500mを一般開放して見学できるようになっている。
無料で見学できるのが凄いけ!
ただし、今から約80年前に突貫工事が掘り抜かれた地下壕だけあって、万が一地盤が崩落する可能性も無きにしも非ずなので、地下壕内の見学にはこのヘルメット着用が必須条件となっている。
帽子の上にヘルメット着けた方が、頭が痛くならんデ!
ただ無料の見学施設ともなっているので、常駐する係員のオジサンは入口の小屋内に居るだけで、特にこのヘルメット着用を手伝ってくれたりする訳ではなく、自分で着用する必要がある。
なお、頭が大きい目のボクにも合う、大きめのヘルメットも用意されており、すんなりとヘルメット着用して中に入る準備が完了となる。
では、入っていきます♪
この広大な地下壕は、1944年7月にサイパン島が連合軍によって陥落し、日本本土への飛行爆撃範囲となっていた拠点が奪取された事で、待ち受ける”本土決戦”に備えた地下要塞として突貫工事が進められる事になった。
この地下壕が掘られた時代は日本軍が連合軍に次々に敗退して押されていた頃だったので、満足な物資もないままに、過酷な強制労働を課されて掘られた地下壕でもあった。
そんな地下壕入口脇には、こちらの「朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」が置かれていた。
この地下壕突貫工事では作業者の内、約7割が朝鮮人、残りの3割が日本人となっており、ダイナマイトで坑道を爆破してから作業を進める際に、まず危険な最初の採掘作業を朝鮮人に行わせていたという。
戦争末期の日本軍は物資と共に精神面でも追い詰められており、このようなキチガイに近い広い地下壕を掘らせる為に、今では考えられないような無茶苦茶な強制労働が行われた。
その当初は8時間交代の3交代制が行われていたが、途中から12時間交代の2交代となり、満足に休みや食事が提供されないままに、穴掘りをさせたのである。
その為に、強制労働によって犠牲者も数百人出ており、命令を聞かない者は射殺されたりと、過酷な状況となっていたという。
松代大本営地下壕に入っていく!
そしてヘルメット着用を着用して、遂にその過酷な労働の末に掘られた地下壕へと足を踏み入れて行く。
つい最近までこのような地下壕の存在を知らなかっただけに、感慨深い一歩を踏み入れて行く。
松代大本営地下壕に入る! 動画
この松代大本営地下壕は戦時下で突貫工事でもあったので、現代みたいに重機で掘削した訳ではなく、ドリルで穴を空けて、そこにダイナマイトを突っ込んで爆破させて、掘り進んで行った。
そして掘削された岩や土は、全て手作業で外に運び出されていった。
中に入ると、このような洞窟らしい、ヒンヤリとした空気が漂っている。
この松代の地が政府機能移転先として選ばれたのに、空襲を受けても簡単に崩れない、堅い地盤があった為に選ばれたという。
それだけに労働者は採掘作業が大変だっただろうが、有無も無く労働せざるを得ない状況だったのであろう。
当時は追い詰められていた日本軍だったので、ちょっとでも嫌そうな素振りを見せるだけで銃殺されていたのかもしれない。
この当時の事を思うと、簡単に仕事を辞めれる現代が幸せだな!
このような人間が地中に掘った長いトンネルは、トルコでの「カッパドキア地方に造られた地下都市」や、ベトナムのベトナム戦争時に造られた「クチトンネル」などを思い出させる。
それらの現場を訪れた時には、「よくこんなモグラみたいな穴を、人間が掘ったな~!」と感心したけど、まさかこのように日本国内にもこれだけ広大な地下壕が掘られているとは思いもしなかった。。
灯台下暗しだな!
普段なかなかこのような地下壕跡に立ち入る機会が無いだけに、珍しく自分から楽しそうに坑道内を探検気分で歩いて行くオカンの後ろ姿。
インディージョーンズの世界やな♪
約80年前に掘られた地下壕だけど、平成元年に一般公開される際に簡単に崩れないように鉄骨などで補強されている。
そして奥まで照明が設置されているので、暗くて怖いという雰囲気の場所でもない。
そして所々に受付小屋へのホットラインとなる電話が設置されており、万が一気分が悪くなったりすれば、外部との連絡が取れるようにもなっている。
坑道は基本的に堅い地盤だったので、石見銀山などのように手作業で掘り進んだ訳ではなく、回転する鉄棒ロッドが付いた「削岩機ロッド」で岩に穴を空けて、そこにダイナマイトを入れて爆破して粉砕しながら掘り進めた。
その為に、特に堅い地盤に差し掛かると岩に突き刺したロッドが動かなくなって、そのまま先端のロッドが残されている箇所もあるという。
それと共にロッドで掘られた穴跡が、無数に残されている。
地下壕内の高さは大人が立って歩ける程の高さにはなっていたが、天井部分が補強されている箇所では、このように頭がギリギリな高さの部分もあった。
なので、ジャイアント馬場や、アンドレ・ザ・ジャイアント並みに背の高い人は屈みながら見学しないといけない場所でもある。
このような地下壕を通る時は、背が低くて良かったと思うじゃん!
現代に生きる日本人は、この日本という国がアメリカなどの連合軍を敵に回して、本当に戦っていたなどという現実を見た事もなく、また実感も無い世代ばかりとなっている。
しかし、今から約80年前には実際に日本人が外国に進出して敵を殺していた時代があり、その戦争の副産物としてこのような広大な地下壕が造られたのである。
そして何十万人という労働者が、汗にまみれながら過酷な労働の末に掘り進められていった地下壕。
今となっては、説明されなければ、単なる坑道にしか見えない穴であるが、多くの人命が次ぎ込まれたものの、無駄に散っていった場所でもあるのだ。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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