信州松本旅行記2022年3月-17
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
歴史より食べ物!
さて松本市内にある「松本市時計博物館」の見学で、最後の部屋となったのがこのように蓄音機やレコードが展示されていた部屋。
現代ではあまり見る事や聞く事の出来ない蓄音機だけど、アナログな音楽を聴く事が出来るアイテムとして、今では多くのコレクターに人気がある演奏機ともなっている。
松本市時計博物館の見学!
こちらは「ラッパ形蓄音機」という、大正~昭和時代初め頃に造られた物。
蓄音機は、レコード盤の溝に刻まれた凹凸をレコード針が空気の振動として音に変換し、その音を拡張機のような形をしたメガホンの原理で増幅する仕組みとなっている。
こちらは「木製ラッパ形蓄音機」という、同じく大正~昭和時代初め頃に造られた物。
古時計のようにゼンマイの力でレコード盤を回転させ、時計と同じような仕組みで半自動的に動く機械となっている。
このようにゼンマイ仕掛けの仕組みで、半自動化された機械が多く開発されていった
。18世紀に起こった産業革命以降、どの分野でも機械化が発展し、どこかの産業で素晴らしい仕組みが開発されると、その仕組みが他の産業界にも利用されていき、爆発的な進化を遂げていく。
それまでの音楽再生機器として人気を誇ったオルゴールから首位の座を奪った蓄音機も、戦後には新しい規格のLPレコードやテープレコーダー、そしてCD(コンパクトディスク)の開発によって、姿を消してしまう事になる。
こちらは蓄音機で使われていたレコードを入れる為の「レコードケース」となっている。
レトロな蓄音機はたまに見かける機会があるけど、このようなレコードを入れておく箱は初めて見た。ボクらの世代だったら、CDを入れるケースなどを使っていたけど、現代の若者にすればそれでも骨董品に思えるのかもしれない。
今はCDなんて買わずにダウンロードする時代だな!
昔から「丑三つ時」などという時間の呼ばれ方がしていたけど、まさに日本的な時間の呼び方である。
しかし、最近ではこのような干支での数え方をする事もなくなりつつあるので、将来の日本ではこのような時間の呼び方も消えていくのかもしれない。。
という事で、想像していたよりも濃厚な展示品だらけで、とても勉強になった「松本市時計博物館」。
人類が太古の昔から使っている道具の「時計」も、人類の進化と共にその姿や仕組みを換えつつも、人類に欠かせない道具としてこれからも使われていく事だろう。
善光寺街道の「中町通り」を散策!
そして松本市内を歩いていると、こちらの「⇒善光寺道」と文字が彫られた石碑が見えてくる。
善光寺というと長野県を代表する歴史あるお寺だが、この松本市ではなく、離れた長野市にあるので、ここから歩いて行ける距離ではないが。。
でも昔の人はここからでも歩いて善光寺に行ってたんだな!
善光寺へと向かう参拝客が通った街道として発展した、こちらの「中町通り」。
松本城下の町としても特に発展した通りで、江戸時代には呉服屋や酒屋など商店が多く並んでいた。
ただ明治時代になって、火災に悩まされた事もあって、なまこ壁を持つ蔵などが多く建造された為に、このような白い蔵の建物がよく見られる場所ともなっている。
昔から多くの観光客で賑わった通りも、古そうな昔からの建物が錆びついているようにも見える物もあったりと、なかなかに雰囲気がある通りとなっていた。
しかし、今ではこのように比較的綺麗に道や通りなどが整備されており、昔からの建物ばかりではなく、最近の建物なども見られて、そこまで江戸時代の雰囲気に没頭できる場所でもなかった。
そして松本市内でも特に”観光地、観光地”という雰囲気になっていた「中町通り」では、最近の若者向けのお店がそれなりに増えてきていた印象を受ける。
古くからの観光地では、年寄り向けの和菓子などのお店が多いが、この中町通りでは若者向けのカフェや、アイスやプリンを販売するお洒落な内装になっているお店を多々見かけた。
特に2020年に発生した新型コロナウイルスの世界的な感染で、このような昔からの観光地で商売を続けていたお店が閉店し、その跡地に新しいやる気のある若者がお店をオープンしてきている。
そして若者が運営するお店なので、必然的に若者向けのお店が増えており、このように見た目の可愛らしさや斬新さを前面に押し出したお店が多くなっている。
このような重厚な壁を持つ蔵の建物も、今ではコーヒー屋さんになっていたりと、時代の変化を感じさせてくれる。
昔のコーヒーは”いかにも喫茶店”という場所で飲むものだったけど、今ではお洒落な内観という物がコーヒー屋に求められる時代となっている。
そんな中町通りは綺麗な水が湧き出る松本市内でもあるので、車が行き交う通り沿いに設置されている井戸の水を、このように大きなやかんを持って汲みに来ている人の姿も見かけた。
大阪市ではまず井戸の水を飲めるという場所が無いだけに、このような井戸の水を汲む人の姿すら見かけないのである。。
井戸の水が飲めるというのも、有難い事だよ!
ただ、そこそこに観光客がブラブラと歩く「中町通り」も、一方通行で一車線ながらそこそこに車が通る道となっている。
なので、立ち並んでいるお店だけ見ていては危険で、しっかり道の脇を通って車にブツからないように歩かないといけない。
明治~大正時代に栄えた通りも、近代化と世代交代などの波を受けて、その発展が上手くいかない所も多い。
古い町並みを残すか、経済発展の為に古い建物を取り壊して、新しく再開発を行うか、難しい選択に思える。
こちらの建物は昭和2年(1927年)に建てられた、大正10年(1921年)に創業した「ミドリ薬局」。
独自の文化が花開いた”大正浪漫”を感じさせてくれるような外観となっており、2階部分にバルコニー風の装飾も見えて、レトロな佇まいを魅せている。
こちらは「おはきもの矢口本店」という、開業1647年の『下駄と草履の専門店』となっていた。
現代の日本人は殆ど下駄を履く事が無くなっているけど、日本独自の履物として外国人観光客から人気なんだとか。
日本人が興味を無くした、昔から使っていた物が外国人に人気なんだよ!
こちらは「松本市はかり資料館」の建物で、明治~昭和時代末頃まで営業していた「竹内度量衡店」の建物と資料を、松本市が引き継いで展示している資料館となっている。
そして普段の歩きだと直ぐに文句を言うオカンも、このような観光地っぽい通りでは、すぐに和菓子屋を見つけ出して、勝手に入ろうとする。
こちらは明治26年(1893年)に創業の和菓子屋「竹風堂」のお店で、”小布施栗菓子”が人気の長野県を代表する和菓子屋である。
なお、2019年にトルコ旅で知り合った”お父さん”が、ボクが写真集を送った代わりにそのお礼として送り返してくれたのが、この竹風堂の栗羊羹だったのである。
この栗羊羹が美味しかったのは、覚えてるで♪
それとこの街道は旅行客が江戸時代から多く通っていた事もあって、旅籠屋(旅館)も多く立ち並ぶ通りでもあったようだ。
人通りの多い場所では、その道を通る観光客に向けての業種の店が増えていき、現代でも若者向けのお店が増えているという事は、若者が多い通りとなっているのかもしれない。
ただ、このような昔の海鼠壁の建物も、観光客が通る道沿いはそこそこ補修されているけど、脇道側の壁は古ぼけて汚れた壁のままとなっている所もチラホラと見られる。
古い建物は壁が汚れたり崩れたりしてくるので定期的な補修は欠かせないけど、全てキチンと行うと費用が掛かって仕方ないので、まず目につく場所から優先的に行われるのだろう。
湧き水が豊富に出る松本市内だけあって、通り沿いにはこのような井戸ポンプが多々見られた。
ただ、個人的には車が通る道の下から湧き出る水は、綺麗な水ではなく、ちょっと汚れた水のように思えてしまうのであるが。。
このような昔からの観光客相手の通りなども、コロナ禍で大きくその様子を変えた事だろう。
そしてお店の経営者も入れ替わり、老人が経営する商店が消え去り、新しい若い世代の店が増えていくのだろう。
旧開智学校の跡地にて
そんな風に松本市内をブラブラと散策していると、こちらの「旧開智学校跡」という文字が入った碑が建てられている場所を見つけた。
先程、旧開智学校の校舎を外から眺めたけど、明治9年(1876年)に建造された時はこの場所だったようだ。
住所:長野県松本市中央1-21-3
その後、昭和37年(1963年)まで約80年間この場所で多くの生徒を迎え入れた「旧開智学校」は、1964年に今の場所に移転され保存された。
なお、この「旧開智学校跡」の場所は、その小学校が建てられる前までは、松本藩主だった戸田氏の菩提寺「全久院」があった場所だった。
しかし、明治時代に入って廃仏毀釈となって、その全久院が廃寺となり、その跡地を利用して学校が建造される事になったのである。
そして今回の松本旅(長野県)では、初日夕方から3日目の午後までレンタカーを借りる予定となっていた。ただレンタカーを借りる時間を、返却する3日目の午後の16時45分から逆算して、17時に設定していた。
レンタカーを借りる際には、そのレンタル代が6時間まで/12時間まで/24時間までとなって値段が上がる仕組みになっている場合がある。
その為に少しでもレンタカー代を安くする為に、16時ではなく、47時間55分のレンタル期間となる17時の時間に設定したのであった。
その為に16時過ぎでまだレンタカー屋に行くには早かったので、こちらの「果茶ROOM」というカフェで時間調整を行った。普段は休憩があまり無い旅ばかりなので、このようなカフェでの休憩に喜ぶオカン。
そして松本市内を散策していると、こちらの大相撲のポスターが貼られているのがよく見られた。このポスターに”新大関誕生”という文字と共に写真があったのは、「御嶽海(みたけうみ)」という長野県出身のご当地力士だった。
ただ、御嶽海は日本人とフィリピン人のハーフで、生まれたのはフィリピンで4歳頃に日本の長野県に移住してきたようだ。
それとこの訪問時はご当地力士が”新大関誕生”という快挙を成し遂げて喜びに満ちていた長野県だったが、2022年秋場所で負け越して、残念ながら大関から陥落してしまっている。。
年齢的に再昇格は難しいかもな・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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