真田家の居城だった信州上田の「上田城跡」で、真田幸村の銅像に出会う【信州松本旅行記35】

信州松本旅行記2022年3月-35

旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)

大阪と同じ作者!

上田城跡 二ノ丸橋から本丸へと向かう 東虎口櫓門

ここは長野県上田市にある、戦国時代に真田家の当主となった真田昌幸が築城した「上田城跡」。ただ真田家は関ヶ原の戦いで西軍に加担した為に、領地没収となって真田昌幸とその次男:真田幸村は高野山に流されてしまう。

その為に江戸時代にこの上田城を居城としていた上田藩は、真田家以外の藩主が長く治める事になった場所でもある。

 

【上田城跡/上田城跡公園】

住所:長野県上田市二の丸6263番地イ
電話番号:0268-23-513
入場料:上田城跡公園は入園無料
※櫓や博物館は入場料が必要

 

 

 

上田城跡の見学!

長野県上田市 上田城跡 顔出しパネル

真田家というと「真田 幸村」という武将が現代ではとても有名になっているが、江戸時代前までは無名な存在であり、その父:真田昌幸が徳川家康が特に警戒する程の武将だったとされている。

真田家は幸村の祖父にあたる「真田 幸隆(さなだ ゆきたか)は武田信玄の家臣として仕え、その息子の「真田 信綱」(長男)「真田 昌輝」(次男)「真田 昌幸」(三男)共に武田家臣として優れた働きをしていたとされる。

 

長野県上田市 上田城跡 顔出しパネル 昌幸Ver

そして真田幸隆の次に家督相続をしたのは長男:真田信綱で、次男の真田昌輝と共に『武田二十四将』にも数えられる程に優れた存在だった。

しかし、武田信玄亡き後に家督を継いだ武田勝頼が起こした『長篠の戦い』で、武田軍は織田信長&徳川家康の連合軍に大敗を喫し、その戦いで真田信綱と真田昌輝が共に戦死してしまう大惨事となった。

その為に三男であった真田昌幸が真田家の家督を継いで、激動の時代を舵取りしていくのであった。

 

長野県上田市 上田城跡 顔出しパネル 幸村Ver

真田家当主となった真田昌幸は武田氏滅亡後は織田信長に従属するが、早々に本能寺の変が勃発して、以後は周囲の状況に応じて北条氏・徳川氏・上杉氏などコロコロと鞍替えし、最終的には天下を統一した豊臣秀吉に君従する事になる。

そして真田昌幸の次男であった真田幸村は、父:昌幸が転々と主君を替える際に毎回人質として送り込まれていた。その為に今となっては英雄のような存在になっている真田幸村も、若い頃はず~~っと人質生活ばかりであった。

鹿角クン
鹿角クン

昔は嫡男以外は、期待されてなかったな!

 

長野県上田市 上田城跡 東虎口櫓門

そして上田城跡の東側に造られている、こちらの立派な「東虎口櫓門」は平成6年(1994)になって復元された門となっている。この上田城も明治時代を迎えての廃城令を受けて、多くの建造物が民間に払い下げられる事になる。

 

長野県上田市 上田城跡 南櫓

こちらはその東虎口櫓門脇の南側に造られている「南櫓」。この南櫓は明治時代に入ってから民間に払い下げられ、上田市内の遊郭へ移築され、貸座敷として使われ続けた経歴を持つ。

 

そして戦前に東京の料亭に移築される話が持ち上がり、その際に上田市民からこの櫓保存の声があがり、最終的には結成された”上田城址保存会”の集めた資金で櫓が買い戻されて、1948年に元々建っていたこの上田城東虎口に移築復元される事になった。

 

長野県上田市 上田城跡 北櫓

こちらはその南櫓と同じ運命を辿った、北側にある「北櫓」の建物。他にも民間に払い下げられた櫓が4棟あったけど、その行方は不明となっているようだ。

この南櫓と北櫓が遊郭の建物として使われていたという事に少々驚くけど、結果としては遊郭の建物として使われ続けた事によって、この上田城跡に戻る事に繋がったのである。

おやきマン
おやきマン

運命って、どこでどうなるか? 分らんじゃん!

 

長野県上田市 上田城跡 東虎口櫓門へ進む

上田城跡では唯一江戸時代から現存する「西櫓」以外に、南櫓と北櫓が移築されて戻ってきた。それ以外にはこの「東虎口櫓門」だけが、昔の写真などの資料を参考にして復元されている。なお、行方不明となった4つの櫓は、未だ復元されていない。

 

長野県上田市 上田城跡 東虎口櫓門前の「真田石」

戦国時代に主君を転々と替えた真田昌幸率いる真田家は、豊臣秀吉に君従していた事もあって、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に加担した。しかし、真田昌幸の長男:真田信之は、豊臣秀吉の命で徳川家康の”与力大名”となって、家康側の東軍に加担する事になる。

 

長野県上田市 上田城跡 東虎口櫓門前の「真田石」 説明

関ヶ原の戦いで真田昌幸&次男:幸村と、嫡男:真田信之は違う道を選ぶ事になる。そして関ヶ原の戦いではこの上田城に籠城した真田昌幸親子が、徳川秀忠の大軍を相手に善戦し、関ヶ原参陣を遅らせる活躍をした。

しかし、西軍は敗北し、江戸に幕府を築いた徳川家康によって、真田昌幸親子は高野山の九度山に幽閉されてしまう事になる。

 

長野県上田市 上田城跡 東虎口櫓門前の「真田石」 眺める

真田昌幸親子を流罪とした徳川家康は、憎き上田城を破壊させて、その跡地を沼田城を治めていた真田信之に任せた。

そして真田家を継ぐ事になった真田信之は、1622年に松代藩に転封となり、その際にこの大きな「真田石」を松代城に持って行こうとしたけど、ビクともしなかったという伝説が残っているそうだ。

鹿角クン
鹿角クン

江戸時代なら本気で運ぼうとしたら、出来そうに思うけどな!

 

 

上田城跡内の真田神社にて

長野県上田市 上田城跡内 真田神社の鳥居

復元された東虎口櫓門をくぐって本丸内へと進んで行くと、いきなり鳥居が見えてくる。本丸というと他の城跡とかでは荘厳な天守の建物が建っていた場所が多いが、ここ上田城では徳川家康の手によって城が取り壊された後に再建されてからの歴史では、本丸に天守が存在していたという事実は残っていない。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社の入口

戦国時代に真田昌幸が上田城を築いた時の記録は、殆ど残っていないという。その為にこの上田城では天守跡などは残っておらず、代わりに明治時代に建立された「真田神社」が鎮座している。

 

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社鳥居の注連縄

この真田神社は明治12年(1879年)頃に設置の許可が下りて、その頃に上田城を長く治めていた藤井松平家を祀る為に「松平(しょうへい)神社」として建立されたのが起源となっている。その後に歴代上田城主を合祀するようになって「上田神社」と名前が変わった。

しかし、同じ名前の神社が存在していた為に同名だと紛らわしいという事で、それから更に上田城を築城した真田家の名前を取って「真田神社」と改称して今に至っている。

鹿角クン
鹿角クン

仙石家や藤井松平家の印象が消えてしまったな・・・

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田家の兜オブジェ

その真田神社の鳥居をくぐって境内に入ると、こちらの大きな兜のオブジェが見えてくる。

こちらの赤くて鹿の角が両脇に付いていて、更に正面に”六文銭マーク”まで見えるので、真田家でもあの”有名な武将”が所用していた兜のオブジェだと思われる。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田家の兜オブジェ2

その兜オブジェを正面から見てみると、真田幸村が所用していたとされる『鹿角脇立朱塗兜』を再現したオブジェとなっているのが分かる。ただ真田神社はあくまでも歴代上田城主を合祀している神社であり、真田幸村自体はこの上田城主にはなっていないので、ちょっと場違いな印象も感じてしまうかもしれない。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社からの景色

この上田城本丸跡からは千曲川が見られたが、今では北陸新幹線の高架線路が延びている為に、千曲川よりも北陸新幹線の走る車両に目が行ってしまう場所となっている。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 絵馬が飾られている参道

こちらは本堂へ向かう参道の脇にあった小径で、赤い枠で囲まれた中に思い思いにメッセージが書かれた絵馬が掛けられている光景が見えてくる。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 絵馬が飾られている参道 揺れる絵馬

そして風が吹くと、このように掛けられている絵馬がカタカタと風に揺られて、中には絵馬同士でブツかって音を奏でてもいた。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 絵馬が飾られている参道 真田家の絵馬

この真田神社は、徳川軍の大軍を2回も撥ねのけた城だった事から、”落ちない”神社として受験生などから人気があるという。個人的にはこのような古来の宗教による”願掛け”は全く信じないのであるが、「溺れる者は藁をもつかむ」じゃないけど、受験生やその親などがこのように絵馬を飾って願掛けしに来ているのだろう。

 

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 絵馬が飾られている参道 揺れる絵馬

他の神社では風鈴に吊るした紙に願掛けして、風鈴の良い音色を響かしている神社もあるけど、このように赤い絵馬同士がブツかって奏でた音も、また乙な雰囲気となっている。

鹿角クン
鹿角クン

信じる者は救われるだな!

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 戦国無双のパネル

そして道の脇には見た事のある絵が飾られていた。こちらは『戦国無双』という、現:コーエーテクモゲームスが2004年に発売を開始した”戦国時代風アクションゲーム”の中に出てきた、真田幸村の絵である。

 

なお、元々は『真・三國無双』という、中国の三国志に登場するキャラクターがメインの格闘アクションゲームがヒットした事を受けて、その流れを受けて国内の戦国時代のキャラクターに置き換えたゲームである。

 

【戦国無双1 真田幸村ゲームプレイ】 動画

 

ただ、2021年に発売された第5作目となる『戦国無双5』では、今までのキャラクターのビジュアルが一新された為に、このパネルにも描かれている凛々しい真田幸村の姿は消えてしまったようだ。。

 

個人的には『戦国無双』というゲームは殆どした事がなく、『三國無双シリーズ』しかプレイした事がないので縁遠い作品であるが。。

 

なのでゲームよりも、その後にパチンコ台とタイアップして2010年に発売された『CRびっくりぱちんこ戦国無双』の方が思い入れが強いのである。

 

【CRびっくりぱちんこ戦国無双MAX EDITION】 動画

ただこの台はあまり勝ったイメージがないのだが・・・

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 桜形の絵馬

そして真田神社では、真田幸村風の絵馬と共に、このような桜デザインの絵馬まで飾られていた。個人的にはこのような受験で神頼みをした経験がないだけに、このような絵馬をわざわざ購入してまで飾る人の気持ちが理解できない。

オカン
オカン

ホント、この子、全く将来の事考えてなかったんです!

まあ、今もなんですが・・・

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 心願成就の文字

そして本堂へ向かう参道途中には、こちらの白い枠で造られた「登竜門」なる門らしき物も設置されていた。まさか、この枠をくぐれば”願いが叶う”なんて思う人は居ない事だろう。

冷静に考えて、もし、この門をくぐるだけで願いが叶うとすれば、世の中は収集がつかなくなってしまうのだが。。

鹿角クン
鹿角クン

だから、信じる心が大事なんだな!

 

【眞田神社ライブカメラ】 動画

鹿角クン
鹿角クン

眞田神社の様子は、ライブカメラでいつでも見れるよ!

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 本殿

そして短い参道を進んで行くと、真田神社の本堂が見えてくる。昭和28年(1953年)に松平神社から「上田神社」と名前が代わり、続いて約10年後の昭和38年に「真田神社」となった。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 本殿3

本来は7代に渡って上田藩を治め続けた”藤井松平家”を祀る神社で、更には上田城の歴代城主を祀る神社となった真田神社。しかし今となっては「真田神社」という名前もあって、”藤井松平家””仙石家”の祀られている人物が追いやられている印象を受ける。。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 本殿脇ののぼり

そして更にはこの真田神社で祀られていなかった「真田 幸村」の像まで、敷地内に設置されているのだ。普通の神社だと、その神社で祭神となっている神様の像を設置しているのが一般的なのであるが、それらの祭神の銅像を差し置いてでも真田幸村の銅像を建立したのには、それなりの訳があるのだろう。

 

真田幸村の銅像!

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田幸村の銅像

その真田神社の本堂脇に、長い槍を持った「真田幸村」の銅像が設置されているのが見えてくる。

 

この銅像は2020年に新しく造られて設置された物らしく、2016年に放送されたNHKの大河ドラマ『真田丸』が人気を博した事もあって、観光客などから真田幸村の銅像設置の声が挙がっていた事もあり、約1500万円の寄付などを募って建立されたという。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田幸村の銅像2

江戸時代初めに起きた、天下分け目の大決戦『大坂の陣』で活躍し、憤死して華やかに散ったとされる真田幸村。

 

その後に『真田三代記』『真田十勇士』などの小説で人気を博した為に、徳川家康に特に警戒されていた父:真田昌幸以上に人気者となってしまった。ただ、個人的には、いきなり真田幸村の銅像を作るのではなく、まずはこの上田城を築いた真田昌幸の銅像を作ってからにすべきだと思うのだが。。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田幸村の銅像 アップ

真田幸村の銅像というと、大坂の陣で憤死した大阪市内に既に2体の銅像が建立されているので、それもあってこの上田城の真田幸村の銅像に違和感を感じたのである。。

鹿角クン
鹿角クン

真田幸村公の銅像は、何個あってもいいもんだな!

 

 

大阪市天王寺区玉造にある「三光神社内」に設置されている、真田幸村の銅像

大阪市天王寺区玉造にある「三光神社内」に設置されている、真田幸村の銅像

ちなみにこちらの真田幸村の銅像は、真田丸からの抜け穴が通じていたとされる、真田山付近の「三光神社」に設置されている物。

オカン
オカン

鹿の角が生えた兜を被ってなかったら、武田信玄みたいに見えるな・・・

 

大阪市天王寺区逢阪にある「安居神社内」に設置されている、真田幸村の銅像

大阪市天王寺区逢阪にある「安居神社内」に設置されている、真田幸村の銅像

そしてもう一体の真田幸村の銅像が設置されているのは、大坂の陣の際に真田幸村が戦死した場所とされている「安居神社」内にある。

 

なお、上田城跡の真田神社に設置されている真田幸村の銅像は、この大阪の安居神社に設置されている銅像を製作した「播間 公次」さんが、青年時代の真田幸村をイメージして作った物である。

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田幸村の木碑

現代に伝わる過去の歴史というのは”真実”を詳細に必ず伝えている物ではなく、あくまでも後年になってから脚色された内容の記述が多い。特に江戸時代以前には詳細な記述がされた歴史書もそこまで現存しておらず、またその歴史書もその時の支配勢力に検閲されて、都合の良い歴史に書き換えられている事が多いのである。

鹿角クン
鹿角クン

歴史は人が創ったものだな!

 

長野県上田市 上田城跡内 真田神社 真田幸村の木碑2

真田家というと、上田城を築いて徳川の大軍と対等に渡り合ったとされる戦を率いた「真田昌幸」や、松代藩主の藩祖となって、現代にまで真田家を存続させる礎を築いた「真田信之」などが、本来は真田幸村以上に敬われる存在なのかと感じる。

しかし、そこまで歴史に興味がない人からすれば、世間が脚色した小説やドラマなどで華々しく散ったとされる「真田幸村」しか知らない人が多いのかもしれない。。

おやきマン
おやきマン

とにかく真田家の名が残っている事が大事じゃん!

鹿角クン
鹿角クン

地味な真田信之が主人公の大河ドラマだったら、視聴率は稼げてないだろうな・・・

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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