武田信玄の軍師だった山本勘助が戦死した、川中島にある墓を訪れる【信州松本旅行記26】

信州松本旅行記2022年3月-26

旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)

千曲川に川中島が!

松代町 松代藩鐘楼 建物

さて長野市松代町にある真田家の菩提寺だった長国寺近くで、美味しい山芋とろろ飯を味わって、車を停めている場所へと向かう。すると、道の脇にこちらの物見台のような鐘楼っぽい建物が見えてきた。

 

これは「松代藩鐘楼」という、真田家がこの松代藩に移封されてきた際に造られたとされる建物だった。ただ、この建物自体は火災で焼失した事もあって1801年頃に再建され、平成に入ってから改修工事が実施されているようだ。

また、鐘も取り付けられており、江戸時代には2時間毎に時報代わりに鳴らされていたらしい。この鐘は戦争中に金属回収令によって失われたが、これも平成になってから復元されている。

 

 

「山本勘助の墓」を目指す!

長野市松代町 千曲川近く 線路跡の原っぱ

そして松代町の中心地を後にして、Googleマップで見つけた「山本勘助の墓」が近くの千曲川沿いにあるようなので、寄り道する事にした。道沿いに「山本勘助の墓:駐車場」という案内板を見つけてやってきたら、駐車場というよりも、広々とした空き地に誘導された。

 

実はこの辺りは、かつてこの場所を電車が走っていた、長野電鉄:屋代線の「金井山駅跡」だった。

長野電鉄:屋代線は2012年に廃線となった為に、その線路跡は既に撤去されており、この時は自転車用通路みたいな道路を設置工事している途中だった。

 

長野市松代町 「山本勘助の墓」近くの路地

そして「山本勘助の墓へ⇒」という案内板を頼りに、その場所へと歩いて向かう。ただ、民家が立ち並ぶ狭い道だったので、車で向かうにはちょっと不向きな雰囲気でもあった。

 

長野市松代町 「山本勘助の墓」近くの墓

途中にこのような古そうな墓石が置かれている墓地も見えたけど、どうやらまだ後220mほど先のようだ。

なお、松代町の中心地から約4kmほど離れた千曲川沿いの場所で、近くにこれといった遺跡がないからか、ご丁寧にも「山本勘助の墓へ⇒」という案内板が数箇所に設置されていた。

 

長野市松代町 「山本勘助の墓」近く 千曲川堤防道路への登り坂

そしてその案内板に従って進んで行くと、このように千曲川の堤防道路へと誘導されていく。もっと簡単に墓に辿り着けるのかと思っていたけど、それなりに焦らして、こちら側を品定めしているかのようにも感じながら歩いて行く。

 

 

千曲川の堤防道路からの景色! 動画

 

 

長野市松代町 「山本勘助の墓」の看板 千曲川堤防

堤防道路の上へと駆け上っていくと、さっきまでの案内板に比べても大きな「山本勘助の墓⇒」という看板を見つける。最近は江戸時代の偉人ばかりの墓を見る機会が多いけど、久々に戦国時代の有名人の墓に出会えるという喜びが湧いてくる。

 

長野市松代町 千曲川堤防からの景色

そして楽しみにその案内板の矢印の方に目を向けるが、このように「山本勘助の墓」が見つけられなかった・・・。

周囲には畑ばかりしか見えずに、逆に遠くの方に見える、上の方が雪化粧された山が気になってしまった。

あの山は、推定するにスキーでも有名な白馬村が麓にある「白馬岳」だと思われる。

 

 

「山本勘助の墓」にて

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓

白馬岳に気を取られたものの、もう一度注意して周辺を見回してみると、斜面を駆け下りていった足元辺りにこちらの「山本勘助の墓」を発見出来た。

 

【山本勘助の墓】

住所:長野県長野市松代町156
電話番号:026-278-3824※信州柴阿弥陀堂

 

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 石碑

この「山本勘助の墓」は、元々この千曲川付近にお墓が設置されたが荒廃が進み、江戸時代中頃に松代藩士が近くにあった「信州柴阿弥陀堂」の境内に遺骨を移して墓石を新調した。

 

ただ後に千曲川の改修工事もあって「信州柴阿弥陀堂」は移転し、今ではこの「山本勘助の墓」だけが残されているようだ。

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 石碑の裏側

手前に設置されていた新しい石碑は平成19年に建立された物で、2007年に放送されたNHK大河ドラマ『風林火山』で主役となった山本勘助を記念して建てられた石碑となっていた。

 

NHK大河ドラマ『風林火山』は、小説家:井上靖の原作となっており、武田信玄ではなく、その軍師として活躍した「山本勘助」を主役に抜擢した作品となっている。

おやきマン
おやきマン

Gacktが上杉謙信を演じていたじゃん!

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 案内板

2007年に放送されたNHK大河ドラマでの反響はかなり大きかったようで、当初49回で終了となる所、メインの第4次川中島合戦のシーンを特別に1話増やした作品になったという。

鹿角クン
鹿角クン

NHK大河ドラマの影響はさすがに大きいな!

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 墓石

こちらの中央に見えているのが、山本勘助の墓石である。元々の墓石は上に載っている部分だけだったが、江戸時代に松代藩士が再建し、また土台を積み上げた為にこのように見上げる高さに今では設置されている。

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 墓石 アップ

個人的には戦国時代の有名な武将の歴史はそこそこに知っているけど、この「山本勘助」という人物は正直、殆ど知識は無かった。あくまでも武田信玄の有能な家臣の1人ぐらいの印象しか無かった。

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 墓石 道鬼の文字

そして上に載っている墓石には、『山本道鬼居士墓』と文字が彫られているのが見える。山本勘助は三河国(今の愛知県)で生まれ育ち、20代に全国を訪れて10年近く修行をした。そして実力を付けて三河国を治めていた今川氏に仕官しに行ったが、隻眼(片目がない)で見た目が醜かった山本勘助は今川氏に登用を見送られてしまった。

 

そんな誰も相手にしないような浪人となっていた山本勘助を引き入れたのが、甲斐の武田信玄であった。武田信玄は見た目などに惑わされずに、その者がしっかり実績を残せる人物だと見抜き、自軍に引き入れる事になった。

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 石碑

そして武田信玄の元で山本勘助は戦に参加して功績を挙げ、際立った戦法の発案などで評価を受け、武田信玄の軍師的存在にまで上り詰める。

また江戸時代に松代城となっていた「海津城」は、武田信玄の命によって山本勘助が築城した城だったという。

 

長野市松代町 千曲川沿い 山本勘助の墓 説明板

武田信玄は最大のライバルである上杉謙信と、この千曲川流域にあった島々などを巡って勃発した『川中島の戦い』の、その”第四次合戦”とされる1561年の戦いで、山本勘助は戦死している。

その戦では山本勘助が武田信玄に進言した「啄木鳥(きつつき)の戦法」が上杉謙信に見破られてしまい、劣勢となった武田軍を奮迅させるべく大立ち回りをした末に討ち死にしたと言われている。

 

 

近くにあった「大鋒寺」も訪問!

長野市松代町 大鋒寺 門

その「山本勘助の墓」を見学した後に、車を停めた場所まで歩いていると、こちらの古そうな寺が見えてきたので、これまたちょっと寄り道してみる事にした。

 

 

長野市松代町 大鋒寺 門脇の大きな松

こちらの「大鋒寺」という寺は、松代藩に移封されてきた真田家初代藩主:真田信之が隠居した際に、こちらに隠居先となる書院を建てて過ごした場所。

そして真田信之が亡くなり、その遺言でその隠居地跡に『真田林(しんでんりん) 大鋒寺』と号した寺を建立したとされる。

 

長野市松代町 大鋒寺 門脇の大きな松2

なお、松代藩初代藩主:真田信之が90歳を越える長寿だった事はさっき訪問した長国寺で教えてもらったけど、初代藩主:真田信之が家督を譲ったのは彼がなんと91歳の時だったという。

その為に、家督を継ぐハズだった嫡男は既に死去してしまっており、更にその嫡男の嫡男(孫)も死んでいて、仕方なしにその当時60歳ほどだった次男の「真田 信政(さなだ のぶまさ)が家督を継いで、松代藩第2代藩主となった。

 

長野市松代町 大鋒寺 羅鑑三

しかしやっと60歳頃となって松代藩主になった2代目藩主:真田信政は、その2年後に死去してしまう。

その際に真田信政が亡くなる前に産ませた、僅か2歳だった六男「真田 幸道(さなだ ゆきみち)が後継者として指名されていた。しかし、そこに沼田城主だった、真田信之の長男:真田信吉の次男だった真田信利が後継者候補として名乗りを上げ、幕府にそれを陳情した為に、江戸幕府を巻き込んだ家督争いに発展したという。

その家督争いは、まだ存命だった高齢の真田信之などの働きによって、最終的には当初の予定通りに2代目藩主:真田信政の六男:真田幸道が幼少ながら3代目藩主に就任する事になる。

 

長野市松代町 大鋒寺 説明板

こちらの説明板には、松代の民話となっている『不思議な銅鑵子(どうかんす)の説明が書かれていた。

真田信之が90歳を越えてこの地を隠居場所とし、長年連れ添った家臣:鈴木右近と共に、ある日近くの金井池に釣りをしに行った所、河童の顔のようにも見える「銅鑵子」を釣り上げたという。

※銅鑵子とは、銅で造られた茶釜の事

 

するとその物体(銅鑵子)が夜になると酒を呑んだらしく、鈴木右近が真田信之にその物体を差し出すと、真田信之が「ワシがその分の酒をたっぷり用意するから、大事にしなさい!」と言ったという。それは真田信之が仕組んでいた事らしく、長年世話になってきた鈴木右近に対しての、感謝の気持ちを表したものだったという。

おやきマン
おやきマン

人間ってこういう面倒臭い事するの、好きじゃん!

 

長野市松代町 大鋒寺 ヘビの瓦装飾

なお、真田信之は91歳という現代でも考えられない位に超高齢な歳まで藩主で居続けたのには、当時の江戸幕府第4代将軍「徳川 家綱(とくがわ いえつな)が10歳程という幼少だった為に、後見人として江戸幕府から慰留され続けていたという。

 

長野市松代町 大鋒寺 門

平均寿命が80歳代になった現代でも90歳を越えて現役でいる経営者はとても少ないけど、江戸時代は平均寿命が50歳も無かった頃だっただけに、真田信之も藩主を続ける事がとてもシンドかった事だろう。

それと共に80歳を越えた人物にまだ判断を仰がないといけなかった、当時の江戸幕府中枢の人物達の情けなさも表れているようにも思う。

鹿角クン
鹿角クン

80歳を越えても元気に生きて、周りに頼られるなんて幸せだな!

 

長野市松代町 大鋒寺 本堂の建物

という事で山本勘助の墓を求めてやってきた千曲川沿いの川中島周辺で、思いもよらず、真田信之の霊廟とお墓のある寺に辿り着いた。これも何かの運命かと思い、境内を見学してみる事にしたのであった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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