信州松本旅行記2022年3月-27
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
江戸時代でも90歳!
こちらの寺は、長野市松代町でも千曲川近くに造られている「大鋒寺」。松代藩初代藩主:真田信之が90歳を越えてやっと藩主引退が江戸幕府に許されて、隠居先としていた場所。 真田信之の遺言により、その隠居先にこの「真田林 大鋒寺」が建立される事になったという。
住所:長野県長野市松代町38
大鋒寺の見学!
そして寺の境内を進んでいると、寺の人から「この門の先に真田信之公の霊廟がありますよ!」と声を掛けられた。
真田信之の霊廟というと、先程訪れた長国寺にも造られていたはずだが、霊廟というのも1つだけとは限らないようだ。
その霊廟は真田信之が隠居先とした書院が建てられていた場所らしく、晩年を過ごした場所にある霊廟の方がよりその荘厳な雰囲気を感じそうにも思える。
なお、先程訪れた長国寺では真田家の歴代藩主の墓や藩主の霊廟を見学するのは有料だったけど、ここ大鋒寺では特にそのような拝観料も不要で見学できるようになっている。ただし、霊廟は扉が閉められているので、内部までは見学する事ができないのであるが。。
こちらの建物がその「真田信之の霊廟」であるが、期待していた豪華な装飾類は一切見られずに、普通の建物の外観となっていた。初代藩主は幕末から明治時代にかけて、神様のように祀られていた時期もあったようだけど、長国寺の霊廟とは違って予算も少なかったのかもしれない。
大事なのは、故人を想う気持ちだな!
そしてその霊廟の脇に「真田信之の墓」と書かれた案内板も見えてくる。長国寺にも真田信之の墓はあったけど、お墓という物はたった1つという訳ではなく、過去の偉人は何個もお墓が設置されていたりするので、墓が複数存在するのも特に珍しい話ではない。
現代人は「真田」という歴史上の人物を思い浮かべるとしたら、まず真っ先に「真田幸村」という名前が頭に浮かんでくる事だろう。真田幸村は”大坂の陣”や『真田十勇士』などですっかり有名になってしまった武将だが、その歴史的な華やかさの対局に居たのが、その兄だった真田信之だろう。
真田家は戦国時代に武田氏の傘下にあったが、武田家が織田軍に滅亡されてからは、織田軍に君従した。しかし、織田軍も武田家滅亡から僅かな月日で”本能寺の変”が起こって壊滅してしまう。それ以降は北条氏とも手を組んだりした真田家は、天下の覇者となる豊臣秀吉の傘下に下る事になった。
豊臣秀吉への忠義を誓っていた事もあって、関ヶ原の戦いでは豊臣家の跡取りである豊臣秀頼側に付いて、真田家は徳川家康を敵に回す事になった。
豊臣側に付いた武将の多くは、豊臣秀吉時代に恩義を感じていた武将ばかりであったが、残された豊臣秀頼には天下を動かす才能が感じられなく、まだ年も若かった事もあって、時代の先を読む武将は老獪で経験豊富な徳川家康側に付くようになっていった。
豊臣秀吉への忠義心は立派であるが、秀吉が亡き後に天下取りの最有力候補が徳川家康だった事もあり、真田家の嫡男として長男の真田信之は、父と弟の進む道と違う方向に歩む事に決めるのである。
周囲の諸大名も豊臣家への恩義はあったものの、冷静にこれからの時代を支配するであろう徳川家康に、急接近する者も多かったようだ。真田信之の父:真田昌幸と弟:真田幸村は説得しても考えを変える性格でもなかったので、真田信之はもし東軍が勝っても真田家が将来に生き残る選択肢を選ぶ事にした。
昔はお家存続が、何よりもの宿命だったな!
真田信之のお墓を拝観!
そして真田信之のお墓の門には、このように真田家家紋『六文銭マーク』が見られる。父と弟を敵に回してでも、真田家を残す事を最優先にした真田信之は現代となっては見事な選択であり、情に囚われずに、真田信之が冷静に時世を判断していた事が理解できる。
松代藩祖でもある真田信之は松代藩では神様とほぼ同等の存在に昇華した事もあって、このように墓の中にもまた鳥居が建てられているのが見える。そして江戸時代になって徳川家康に許された真田家当主として、90歳を越える大往生となった真田信之の墓が目の前に見えてくる。
父と弟との人生を断ってまで徳川家を選んだ真田信之の選択は徳川家康に認められ、信濃上田藩主を経て、1622年にここ松代藩主へと移封されてくる。そして何と藩主引退が91歳という、考えられない程の長期政権だった。
当時は藩主が隠居して跡継ぎが家督を継ぐのも、全て江戸幕府の許可が必要であった。真田信之はそんな高齢になるまでに何回も江戸幕府に隠居届けを提出したものの、受理されずに藩主隠居を引き延ばされていった。
その裏には江戸幕府もドッシリとした組織ではなく、要職を狙う人間によって、足の引っ張り合いが日常的に行われていた。真田信之は戦国時代からの生き残りで、また歴代将軍に厚い信頼を寄せられていた人物でもあったので、いざという時の為に幕僚からすれば居て欲しい存在だった事だろう。
その為に91歳という超高齢な歳まで藩主で隠居出来なかったという真田信之が、それだけ江戸幕府から大きな信頼が寄せられていたという事の裏返しのようにも感じる。
関ヶ原の生き残りは、それだけ凄い存在だったんだろうな!
真田信之のお墓の前には、このように5円玉が綺麗に6個置かれているのが見える。真ん中に穴の空いた日本の硬貨は、50円玉と5円玉があるけど、50円玉だとさすがに盗む輩がいるので、5円玉となっているのだろう。
それと上列と下列で、表裏反対にして置かれているのも興味深い。ただ一見几帳面な人が置いたように整っていた5円玉の六文銭だけど、よ~~く見るとちょっと硬貨毎にズレがあったりで、ちょっと大雑把な性格の人が置いたのかもしれない。。
ボクなら、もっと揃えて置きますよ!
王子はこう見えて、意外と細かい性格やけ!
そして脇には「鈴木 右近」という、真田家に仕えた家臣の墓も置かれている。
この鈴木右近は真田信之より18歳ほど若く、有能だった為に真田信之に重宝されていた。そして真田信之の嫡男:真田信吉が沼田城主に任命されると、その補佐役として沼田城に出向したものの、真田信吉に対して厳しい口を利いた事でそれを咎められて出奔して浪人となってしまう。
しかし、後に再び真田信之に家臣として登用されると、91歳まで藩主を続けた真田信之を支え、信之よりも早く死なない事を誓って真田家に尽くした。そして91歳でやっと隠居となった真田信之の屋敷の近くで鈴木右近も隠居生活を始め、その2年後に亡くなった真田信之を見届けて、その数日後に殉死したのである。
江戸時代初期までは、仕えた主君が亡くなると、その家臣団が主君の跡を追うように殉死するのが一般的な事だった。しかし、全国の藩を束ねる江戸幕府からすると、藩主が亡くなるとそれに合わせてその藩の中枢だった家臣達も殉死して消えてしまうと、その後の藩運営に大きく支障をきたす事になる。
その為に徳川家康の孫である保科正之が殉死禁止を幕府に提言して、以降は殉死が禁止される事になる。しかし、長年奉公してきた尊敬する主君が死ぬと、家臣達も昔からの風習に従って自分も死にたかったようだ。
真田信之も自分が死んだ際の殉死は固く禁じたが、長い年月を共にした鈴木右近からの陳情だけは断る事が出来ずに、特例として殉死を生前に認めたとされる。
古代エジプトでも、王様の脇に兵士が眠ってたな!
そして境内には、こちらの「真田幸村の記念碑」も置かれているのが見える。ただ真田幸村は関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家に刃向った逆賊だったので、徳川家の天下だった江戸時代ではなく、明治時代以降に建てられた事だろう。
そして江戸時代の松代藩は、真田家で10代もの藩主が守り続ける事になる。ただ途中で真田信之からの男系の血は途絶え、後半の藩主は譜代大名の井伊家や、白河藩から松平定信の長男を養子に迎え入れたりして、外様大名ながら”譜代大名格”という立ち位置を強くしていった。
そんな真田信之の墓や霊廟がある大鋒寺の、向かいにあった家の壁には真田家の藩主などではなく、20世紀に大人気となったアニメのキャラクター達の顔が手書きで描かれているのが見えた。
敢えて、真田家から遠いキャラクターにしたんだろうな!
なかなかに味わい深かった「真田林 大鋒寺」。車を停めている駐車場まで向かう道の途中に、このような石碑が置かれていた。山本勘助の墓に導かれてこの周辺を訪れたのであるが、ブラ歩きする事で真田信之ゆかりの寺を見学する事が出来た。
こちらは騎馬に乗った真田幸村・・・ではなく、古代インドの”破壊神”のようにも見える。
それはさておき、人間という生き物は長く耐え忍んでお家存続に大きく貢献した「真田信之」よりも、大坂の陣で派手に戦功を挙げて戦死した華やかな「真田幸村」を好む。真田幸村の勇敢に戦っての戦死の方が、91歳まで藩主を地道に続けての死よりも遥かにドラマ性があるのだろう。
しかし、その死から数百年が経つと、その血を代々子孫に残した方が冷静に考えて貢献度が大きいように思えるのである。。
真田信之公主演の大河ドラマを作ってもらおうじゃん!
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓信州松本旅行記:初回↓↓