信州松本旅行記2022年3月-22
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
残った真田家!
「松代大本営地下壕」という戦時中に掘られた大きな地下壕跡を見学した後に、かつて江戸時代にこの地を治めていた松代藩の居城が置かれていた、松代町の中心地にやってきた。
正面に見えている建物は「真田宝物館」という、江戸時代に松代藩を治め続けた真田家の宝物などが寄付され、展示されている博物館。しかし、内部の写真撮影が禁止となっている事もあって、この建物の見学は行わなかったが。。
真田家の勉強をしないとは、馬鹿者だな!(怒)
松代町にて
その真田宝物館の玄関脇に、こちらの胸像が設置されていたので、近くに行って眺めてみる事にした。
こちらの像は真田家12代当主である真田 幸治氏の銅像で、昭和41年に同家に伝来した大名道具の数々を長野市に寄贈したという。
真田家というと、戦国時代末に大阪の陣などで活躍した「真田 信繫(幸村)」がとても有名だけど、この松代藩を治めた真田家は、その真田信繫の実兄である「真田 信之(さなだ のぶゆき)」から継がれた家系である。
真田 信之は西軍に加担した弟と父親の代わりに、どちらが勝っても真田家が残るようにと徳川家康の東軍側に付いたのである。そして目論見通り、東軍が勝利した事によって真田家は生き残り、明治時代を迎えるまで松代藩を守り通す事になった。
生き物は、生き残る事が最大の宿命じゃん!
そして近くの公園を散歩していると、こちらの銅像が見えてきたので近寄って眺めてみた。
こちらは「恩田 民親(おんだ たみちか)」(1717~1762年没)という江戸時代中期に松代藩家老の家に生まれた人物で、困窮し財政難に陥っていた松代藩を立て直した人物だったという。
江戸時代は全国の藩でもその殆どが財政難に陥っており、それが江戸幕府の狙いでもあった。そして江戸中期頃から全国の藩は大きく借金が増えていき、その膨大な借金の金利が払えなくて、更にそれで借金が雪ダルマ式に増えていき、首が回らなくなってしまう事が多かったようだ。
全国の藩では同じような財政改革が行われていったけど、後から歴史を見ていると偉大な人物が出てきて、財政改革を断行して改善した美談ばかりが残っている。しかし、実際には財政改革も失敗した事が多く、この松代藩も恩田民親の前任者2人の政策が失敗している。
この記念碑が建立されているのは、その恩田民親の屋敷があった場所だったようだ。
そして恩田民親の前の財政改革を託された人物は、賄賂などの汚職に手を染め、余計に松代藩が荒廃してしまう原因にもなったようだ。なので恩田民親が財政改革の責任者に任命されると、一切の賄賂を禁止し、汚職に手を染める者を厳しく処断した。
それと共に”質素倹約”を奨励し、地道に人々の意識を改善し、新田開発に力を入れたり、新しい産業を生み出す事に注力し、財政再建を行っていったという。
そしてその恩田民親の邸宅跡付近には、こちらの「真田邸」という明治時代以降の真田家当主の邸宅だった建物がある。
この真田邸は幕末に参勤交代が緩和された事により、それまで江戸に在中していなければならなかった大名の妻子が国に戻れる事により、その為に新しい御殿として城の外に造られた建物となっている。
この真田邸は、1864年に松代藩9代藩主「真田 幸教(さなだ ゆきのり)」が義母の為に建てたとされている。
それと松代藩の中心地であった松代城建造物の中で唯一残っているのが、この真田邸だという。
なお、この真田邸という御殿も、昭和41年に真田宝物館に寄付された宝物と共に寄贈されている。
「旧樋口家住宅」の見学!
ただ真田邸は入館料が必要だった為に、結局入らずに周辺をブラブラ歩いていると、こちらの「旧樋口家住宅」という昔の日本家屋らしき場所が見えてきた。
旧樋口家は松代藩の家臣として、”藩の目付役”などを務めてきた上級武士だった。この住宅の建物があるのも、松代城からも近く、真田邸の真横だった立地からも、その待遇の良さが想像出来る。
それとこの旧樋口家住宅は、何と”入場料が無料”だったので、ちょっと中を見学させてもらう事にしたのである。
こちらの主屋の屋根は茅葺屋根となっていて、いかにも古そうな雰囲気を醸し出している。なお、詳しい建造年は不明だが、1862年に修理されている記録が残っているので、それ以前に建てられたと考えられている。
ちなみに旧樋口家住宅に残る「主屋」「土蔵」「長屋」は長野市の文化財に指定されている。
その主屋は綺麗に改装されていて、内部にお邪魔してもその古さを全然感じない内観となっている。また建物内部は土足厳禁ながら自由に見学できるようにもなっており、松代町の郷土文化を学べる場所にもなっている。
ここを訪れたのは2022年3月10日だった事もあって、つい先日終わった『雛祭り』用に飾られていた雛人形も、そのまま展示されているのが見られる。
そしてその隣には、古そうな鎧兜がそのまま飾られている。ただ記念写真用に自由に着ていい鎧兜ではないと思うので、ただ見学するだけであるが。。
そして室内には『さるぼぼ』と呼ばれる、猿の赤ん坊を模った魔除けの人形が飾られているのが見える。この飛騨地方では奈良から伝わった魔除けの人形が『さるぼぼ』として多く普及し、今では観光地などでよく見かける事が出来る人形ともなっている。
こちらには地元の団体が書いた絵が、展示されているのが見える。
ただITが急速に発展していく現代では、人が絵を描くのではなく、人工知能の「AI」が絵を作成してくれるサービスが最近多く出てきている。自分の求める絵のキーワードを入力すると、AIが瞬時にそのイラストを作成して提示してくれるのだ。
何でもロボットやAIにしてもらうと、人間は何をすればいいの??
普段は旅先でお菓子などにしか興味を示さないオカンであるが、この『さるぼぼ』にだけは興味をとても示していた。
どうやらオカンは昔に白川郷に行った事があるらしく、その際にこの飛騨地方名物ともなっている『さるぼぼ』のキーホルダーを購入していた事もあって、思い出深い物となっていたようだ。
さるぼぼ、可愛いやん♪
この旧樋口家住宅の中庭はこのような日本庭園が広がっているが、江戸時代には質素倹約が奨励された事もあって、このような景色を楽しむ場所ではなく、畑として活用されていたという。
またこの松代町内では「泉水路」と呼ばれる、隣の家の池と水路が繋がっている仕組みとなっていた。今ではお隣と会話もしないような時代になっているが、江戸時代には庭の水まで共用する程に人の繋がりが密接だった事が分かる。
こちらは土蔵を利用した資料館となっている。建物内部には自由に立ち入り出来るが、内部の写真撮影は禁止されていた。
水は昔から貴重品でもあったので、住民達はなるべく汚さずにみんなで分かち合っていたようだ。こちらは真田邸の壁周辺であるが、道路沿いには車止めとしてか、六文銭マークが入った小さな石が建てられているのも見られる。
松代藩の中心地だった松代城はほぼ昔の姿が失われてしまったけど、城下町の雰囲気は江戸時代の香りが感じられる。ただ、その建物の脇には道路が敷かれており、付近をそこそこに車が行き交う為に、江戸時代の雰囲気に埋没する程ではなかったが。。
そんな松代町内を歩いていると、壁の隙間から銅像の後ろ姿が見えた。その後ろ姿だけでは誰か分からないけど、遠眼鏡を持って、脇には地球儀も置かれていたので、この松代町が生み出した偉人の「佐久間象山」と推測される。
ちなみに、この銅像を作成したのは長崎出身の「富永 直樹」(1913~2006年没)で、富永は東京美術学校彫刻科に入学して、同郷の北村西望に師事して、のちの多くの彫刻作品を生み出している。
その富永直樹の彫刻作品の代表作の1つであるのが、長崎のグラバー邸に設置されている、こちらの「トーマス・ブレーク・グラバー之像」である。グラバーというと、スコットランド出身の武器商人で、武器以外にも多くの工業機械や船の輸入に関わり、明治時代の日本近代化に大きく貢献した人物である。
背中が見えていた佐久間象山の銅像は、こちらの「長野市立松代小学校」敷地内に設置されていた。ただ、小学校の敷地内だったので、勝手に入るのを憚った為にその正面からの写真を撮れなかったのであるが。。
ちなみにちょっと調べてみたら、この佐久間象山の銅像は平成2年(1990年)に「川中島古戦場史跡公園(八幡原史跡公園)」に設置された物となっていた。川中島古戦場史跡公園とは、あの有名な武田信玄と上杉謙信が一騎打ちで刃を交えたとされる跡地であるが、そんな場所に佐久間象山の銅像が設置された事に対する不満の抗議の声も挙がっていたとか。
そのような背景もあり、この2022年に建造から約30年が経過した事もあって、竹中銅器によるメンテナンスと共に、佐久間象山が開校させた藩校跡地に移転されたようだ。
意外と長野県内でも、象山は人気がないじゃん!
銅像も何でも造ればいいもんでもないんだな・・・
そして松代城跡の方に向かって道を進んで行くと、道の脇にこちらの「火の番所」と呼ばれる建物が見えてくる。平穏な時代になった江戸時代に、城下町に住む人々を苦しませたのが火事であった。
江戸幕府のあった江戸でも大火事が何度も発生しており、途中から『火消し大名』と称される特別な任務を帯びた大名仕事が生み出された。外敵の脅威に悩まされなくなった江戸幕府も、木造建築物が立ち並ぶ町で発生する火事には苦しめられた。
そしてそのような火事を防止する歴史を引き継ぐように、防災関連の展示がされていた建物だった。
こんな旅はまた次回に続きます!
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