信州松本旅行記2022年3月-21
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
採掘当時が想像できない穴!
ここは長野市松代町の山の下に掘られていた、「松代象山地下壕」という戦時中に政府中枢機関の移転先となった地下壕である。しかし完成前に日本が敗戦してしまったので工事は途中で終了となり、今ではその跡地がそのまま一般公開されている。
住所:長野県長野市松代町西条479-11
営業時間:9時~16時頃(※休み:第3火曜日及び年末年始)
電話番号:026-224-8316
入場料:無料
※駐車場は「代官所町駐車場」(無料)を利用してください
松代象山地下壕の見学!
その地下壕の坑道内には、このように削岩機ロッドで空けられた穴の跡が多々見られる。この松代象山地下壕は堅い地盤だった事もあって選ばれた土地でもあったので、このような穴を空ける作業だけでも、かなりの苦労があった事だろう。
日本軍はサイパン島を連合軍に奪取され、遂にB29での射程距離に日本本土が入ってしまった。しかし、既にその当時の日本軍の力ではサイパン島を奪取できる余力が無かった為に、来たる本土決戦を受け入れて、その為に政府機関の中枢を攻められやすい東京ではなく、空襲にも耐えられるこの松代の地に移転する事となった。
もし、1945年8月に日本が降伏せずに、もう少し戦争が長く続いていたとしたら、首都機能がこの松代に移されていたのかもしれない。しかし、政府の中枢機関がここ松代に移転してきても、首都としての経済発展する立地でもなかったので、あくまでも日本軍中枢が逃げ込む地下壕止まりだった事だろう。
こちらの掲示板には、一般公開されていない”非公開部分”に残されている落書きの写真が展示されていた。1941年に真珠湾攻撃を起源とした『太平洋戦争』は、一時無敵とされた零戦戦闘機のおかげで日本軍が優位に立ったものの、無尽蔵の物資があるようにも思える連合軍の追い上げで、次第に窮地に追い込まれていった。
太平洋戦争末期に日本軍が窮地に追い込まれた事がよく分かるのが、「特攻」という捨て身の戦法である。「特攻」とは爆弾を搭載した零戦などの飛行機で、敵の戦艦に体当たりして炎上させて道連れにするという、”十死零生”の戦法であった。
人間爆弾みたいなもんだな・・・
序盤は想定以上に有利に戦況が進んでしまった為に、日本軍は努力を怠り、簡単に連合軍に勝てると大きく油断してしまう。その裏で敗北続きの連合軍は、無敵の零戦を徹底的に分析し、その弱点を見出していた。
そして無敵と思われていた零戦も、実際には無敵ではなく、極限まで装甲を減らした危険と隣り合わせのギリギリな戦闘機であった為に、その弱点が連合軍に突き止められると、次々に撃ち落されていく。そして空での優位性を失った日本は、連合軍の爆撃機によって、日本本土を焼き尽くされてしまうのである。
そんな本土決戦を視野に入れていた日本軍は、度重なる空襲でも大きな被害を受けないように、このような地下塹壕に避難しながら戦いを継続する事を計画していた。しかし、このような大規模な地下塹壕が造られるのは限られた場所だけで、他の場所は茂みに隠れたり位しか出来ないのであるが。。
こちらの部屋には、削岩機ロッドで空けた穴からダイナマイトを入れて、爆破した岩などを運び出す際に使われたトロッコの下に並べられていた枕木跡が見られる。その枕木は今では見られないが、その枕木脇に土砂が溜まって、その枕木跡がデコボコの穴となって残っているのである。
この地下壕は平成元年に地元の人が”この負の歴史を忘れないように”という想いから動いて、一般公開された施設となっている。ここは単に日本軍が避難先の地下壕として作っただけの場所では無く、朝鮮から連れられて来た朝鮮人が強制労働させられた場所でもある。
この付近に総延長約10kmも掘られたという地下壕も、一般公開されているのはたった約500mだけ。仮にその全てを公開したとしても同じような坑道が続くだけで、特に変化のある部屋も無い為に、その一部を公開しているだけとなっている。
坑道内には、このように非常用の電話ボックスも設置されている。ただ、外線に繋がる訳ではなく、受付の小屋に繋がるだけの電話だが。
一番奥の「測点跡」にて
そして坑道内を進んで行くと、こちらの「測点跡」の部屋にブチ当たる。どうやらここが約500mの地下壕の最終到達地点で、これ以上先には進めなくて、折り返し地点となっているようだ。
この付近に造られた地下壕は、碁盤の目のように縦横に整った坑道が造られていた。アリの巣のように複雑に入り組んだ地下道ではなく、日本人っぽく整った地下壕だったようだ。
このように金網の奥には、まだまだ奥へと続く坑道が見えている。この見学通路の20倍以上の坑道が掘られた松代大本営地下壕では、その作業に駆り出された強制労働者の苦労も、このような景色だけでは簡単に想像できない。
特にこの地下壕が掘られた1944年後半から1945年にかけては、日本軍が窮地に陥っていた時代であり、「インパール作戦」での大敗北や、沖縄本土決戦などで満足に後方支援する事も出来ずに、最前線で戦う兵士を無駄死にさせていた頃である。
この塹壕が掘られていた頃は、もう日本軍の参謀たちは狂っているかのように、兵士を駒のように敵陣に無謀に突進させて、無駄死にさせていた頃でもある。その為に、この地下壕で強制労働させられていた朝鮮人なども、使い捨ての駒のように扱われていた事だろう。
江戸時代には諸外国との公な交易をしていなかった日本だけど、明治時代に入ってからは急激に西洋化に舵を切り、日露戦争で大国ロシアを破った事により、アジア地方でも頭1つ飛び出た優れた国に躍り出た。そして、朝鮮半島や中国大陸にも進出していき、連戦連勝で軍部も抑えが効かなくなってしまう。
そんな浮足立っていた日本軍の前に立ちはだかったのが、大国アメリカとヨーロッパ諸国であった。昔から多くの戦争を繰り返して来たヨーロッパ諸国は、長期化する戦争に慣れており、国内だけでしか戦いをしていなかった日本は世界的な戦争の経験が足りない事もあって、ちょっと連勝しただけで慢心してしまい、それが仇となってしまうのである。
そんな日本軍の衰退を、肌で感じる事が出来た松代大本営地下壕。ただ、その後の日本人達が苦労して一生懸命働き、またその戦争時代の悲惨な体験を教訓として、繰り返さないようにという思想を強く持ち続けてくれていた為に、我々世代が戦争という体験をせずに済んでいるのである。
先人の苦労に感謝だな!
この松代地方で、3つの山の下に大きな地下壕が掘られている。その地下壕の中でも、中に入って見学できるのがこの松代大本営地下壕だけとなっている。ただ、ポーランドの「ヴィエリチカ岩塩坑」のように、”観光地”という場所でもなく、”負の歴史遺産”を体感できる場所となっている。
その地下壕近くには、こちらの「竹山随護稲荷神社」があった。こちらの神社は戦国時代の有名な武将「真田 昌幸」の孫にあたる、「真田 信親(さなだ のぶちか)」が江戸屋敷内に鎮守として祀ったのが起源となっているという。
その後に海津城へと移され、更には先程チラっと立ち寄った「恵明禅寺」の境内に遷座される。しかし、明治時代に入ってから”神仏分離”によって引き離されて、明治時代中頃に現在地に本殿が建立されたという。
神社と言いながらも、人間の都合で振り回されるんだな・・・
静かな雰囲気の松代町だけど、なかなかに趣もあってじっくり見て行けば、色んな歴史と出会えそうな場所である。しかし、今日はこの松代町だけではなく、長野市内の善光寺なども巡る予定となっているので、そんなにここで時間を費やす訳にはいかなかった。
こちらは途中にあった、松代藩の中級藩士の邸宅跡である「山寺常山邸」。敷地内は無料で見学できるようになっていて、また邸宅跡ではあるものの、建物を見る場所というよりは、庭園を見学する場所となっている。
このような場所もじっくり見学すると、いくらでも時間を費やしてしまうので、これから移動すべき場所もある事なので、手短に入口から見える景色だけ堪能する事にした。
ここを訪れたのが3月だった事もあって、このようにまだ葉っぱや花が咲いた木々は見られずに、まだ冬のように木の枝だけが悲しく広がっている景色となっていた。しかし、日本の庭園は四季を楽しむように造られており、この時期にしか見れない景色も、また乙なのである。
という事で簡単に松代町を散策して、レンタカーを駐車していた「象山記念館」に戻ってくる。朝に到着した時はまだ閉まっていたけど、地下壕を見学し終わってから戻ってきた時には開館していた。
しかし、この訪問時にはあまり佐久間象山という人物に興味を抱けなかった事もあって、この象山記念館内の見学はスルーして次の目的地に向かうのであった。。
松代町に来て、佐久間象山を勉強せずに帰るとは何と罰当りな・・・
こんな旅はまた次回に続きます!
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