諏訪湖の畔にある「高島城」は、鉄筋コンクリート造りで再建された復興天守【信州松本旅行記39】

信州松本旅行記2022年3月-39

旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)

富士山も見える・・?

諏訪市 高島城前の階段

今回の旅の最終目的地であった、長野県諏訪市の諏訪湖の畔に立つ「高島城」。正確には「高島城跡」で、今見られる天守の建物は1970年に再建された鉄筋コンクリート造りの『復興天守』となっている。

 

【高島城跡】

住所:長野県諏訪市高島1-20-1
営業時間:9時~17時頃
電話番号:0266-53-1173
入館料:大人310円/小人150円

 

 

 

高島城内の見学!

諏訪市 高島城前 復興の記念碑

そんな復興天守となっている高島城天守の前には、このように『復興碑』という大きな記念碑が設置されているのが見える。戦後の日本国内では高度経済成長と共に、かつての姿を取り戻す”復興”という意識が国民に強かった為に、この高島城の復興が叶った日には市民は大いに感激した事だろう。

 

諏訪市 高島城前の階段で記念撮影

長野県は日本国内で最も標高が高い県で、松本市に到着した初日に途中で気分を悪くして倒れる寸前までいったオカンも、この3日目となる最終日にはすっかり空気が薄い環境にもやっと順応して、元気な顔をしていた。

オカン
オカン

ここで最後、やっとこれで大阪に帰れるゾ~!

 

諏訪市 高島城を手前から眺める

江戸時代に存在していた高島城天守は、今の復興天守と同じ3層になっていたという。ただ、予算的な事もあってか、復興された天守は鉄筋コンクリート造りの建物となっており、屋根も柿葺ではなく、銅板となっている。

 

諏訪市 高島城の天守入口に進んで行く

今の大阪城もそうだけど、外観を昔の建造物に似せた鉄筋コンクリート造りの城も、色々な批判はあっても、長年その場所に鎮座し続けるとその光景が日常となってしまう。そして新しい世代からすれば、その鉄筋コンクリート造りの城が”大阪城”だという認識になっていくので、時間と共に”その時代の城”として存続していくのだろう。

 

諏訪市 高島城の天守入口から見える諏訪湖の景色

ただ天守や櫓は昔風の建物を再建出来ても、江戸時代初期にはこの本丸の直ぐ脇まで諏訪湖の水域だったという景観は、もう今更復元はできない。その為に今ではこの復興天守のすぐ下を車が走る道路が設置されていて、城からの景観としては昔の雰囲気は見られなくなっているが。。

 

 

高島城内にて

諏訪市 高島城内 諏訪藩の甲冑

そして高島城内に入城する。城内では写真撮影が禁止されているゾーンもあるので、城内に展示されている品々の写真撮影に制限が課されており、注意が必要である。

 

諏訪市 高島城内 諏訪藩日根野家の歴史

かつてここにそびえていた高島城天守は、1590年代に豊臣秀吉の家臣だった「日根野 高吉(ひねの たかよし)が約7年の歳月を掛けて、新しく築いた平城だった。その日根野家は高吉の跡を継いだ「日根野 吉明(ひねの よしあき)時代の1602年に、諏訪家の復帰により、今の栃木県である『下野壬生藩』に移封される。

そして日根野吉明は1614年に現在の大分県である『豊後府内』に移封され、1656年に死去したが、跡取りを残せなかった為に改易処分となってしまった。ただ日根野家一族は大名ではなくなったが、石高が少ない旗本として江戸時代を通じて存続し続けたのである。

 

諏訪市 高島城内 諏訪藩の家紋

中世時代にこの諏訪湖周辺を治めていた「諏訪家」は、武田信玄の侵攻によって宗家が滅亡してしまった。しかし従弟筋は諏訪神社の神官として残り、武田家が滅亡後は再起を図り、後に徳川家康の家臣となって諏訪湖周辺を再び治める事になった。

 

諏訪市 高島城内 高島藩の文書

そして諏訪家が治めた「高島藩(諏訪藩)」は、初代藩主となった「諏訪 頼水(すわ よりみず)時代の江戸時代初めから、10代を掛けて明治時代を迎えるまで治め続ける事になる。江戸時代の約270年間を10人の藩主で守り通した高島藩は、藩主1人平均約27年の在位という、全国的にも安定した政権が行われていた藩でもあったようだ。

鹿角クン
鹿角クン

諏訪湖の綺麗な水が、長寿に効いたのかもな!

 

諏訪市 高島城内 高島城復興の説明

この高島城再建は、市民運動の高まりによって約9000万円近くの寄付金によって工事が行われた。この天守再建は、単に観光客を増やすという目的ではなく、諏訪市民にとっての”アイデンティティー”を表すシンボルという位置付けだったのだろう。

 

諏訪市 高島城内 上に登る階段

この復興天守は鉄筋コンクリート造りの建物なので、内部の階段はこのように普通のビルの階段のように歩きやすい階段となっている。江戸時代から残る『現存天守』では、嫌がらせにも思える程の急勾配の階段が設置されているが、出来ればこれから造られる可能性のある復興天守内の階段も、それに準じて傾斜のキツい階段の設置を個人的に希望するのである。。

オカン
オカン

ワタシはエレベーター付の復興天守を希望します♪

おやきマン
おやきマン

オラホは、おやきの売店がある復興天守を希望するじゃん!

 

諏訪市 高島城内 最上階に登る階段

城内は確か2階部分がまるまる写真撮影禁止となっていたと思うので、一応見学はしたものの、どんな史料を見学したのかという記憶は今ではその一切が抜け落ちてしまっている・・・。

という事で足早にも、3階の最上階に到着したのである。

 

 

高島城の最上階から見える景観!

諏訪市 高島城内 最上階に置かれていた城の模型

最上階フロアには、江戸時代の高島城を再現した模型が置かれていて、この天守の脇に小さな小天守のような櫓が建っているのも見られる。そして本丸の中央部分には本丸御殿のような建物も見られるけど、それらの建物の復元は現段階ではまだされていない。

 

諏訪市 高島城内 最上階に到着

そして最上階の3階には、外側に高欄が造られていてベランダのように外に出れるようになっている。このような「高欄」という設備は天守閣の建物に付き物だったイメージがあるけど、どうやら一般的な設備ではなく、限られた贅沢な城の天守にのみ設置された物だったようだ。

 

 

最上階からの眺め! 動画

 

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える光景

この高島城がある諏訪市は平均標高が約700mとなっている、国内では標高が高い部類に入る都市なので、最上階の外に出ると、ちょっとヒンヤリした空気に触れた感じがした。

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える橋

そして天守最上階からは、内堀に架かっている「冠木(かぶき)橋」なども見られる。この冠木橋やそれを渡った先に構えている冠木門は、この天守が再建された時に合わせて造られた物となっている。

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える光景3

そして諏訪市は周辺を山で囲まれた盆地なのであるが、不思議な事に富士山のある南東の方角にはその山脈が見られずに、上手い具合に渓谷が出来ている。その為に天気がいい日には、富士山の姿を眺める事が出来るというのだが、このように今日は”天気がいい日”では無かったようだが。。

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える富士山の方角

高島城から富士山までは約150km離れているが、この時は富士山側がモヤッていたにも関わらず、ほんの少しだけ富士山の面影が見えてきた。スマホの写真でここから見える富士山を撮影してみたけど、中央付近にホンノリと山っぽい物体が辛うじて確認できるような。。

オカン
オカン

言われてみれば、富士山っぽく見えるな!

鹿角クン
鹿角クン

天気がいい日だと、もっとハッキリ富士山を見れるんだな!

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える光景2

そして諏訪藩というと、初代藩主の諏訪頼水時代に、徳川家康の庶子(側室の子供)で6男「松平 忠輝(まつだいら ただてる)が越後国高田藩主から改易されて、以後蟄居された場所でもあった。松平忠輝というと、昨日訪れた松代藩の前身である川中島藩の藩主を務めていた時期もあった人物である。

ただ、皮肉にもこの高島城内に幽閉された松平忠輝は、なんと92歳頃まで生きて、家康の息子の中でも最後まで生き残って長寿を全うしたようだ。

鹿角クン
鹿角クン

諏訪湖の綺麗な水で、長寿となったんだろうな!

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える光景4

徳川家康の息子というと、征夷大将軍を継いだ2代目「徳川秀忠」が有名で、更には”御三家”と呼ばれた尾張名古屋藩祖:9男「徳川 義直」、紀伊和歌山藩の初代藩主祖:10男「徳川 頼宣」、常陸水戸藩の初代藩主:11男「徳川頼房」などと、その後の江戸時代に大きな影響を与えた人物ばかりに思っていた。

 

諏訪市 高島城内 最上階の窓枠

ただ歴史をちょっと調べてみると、徳川家康の次男として生まれて、本来は征夷大将軍を継ぐ可能性が高かった「結城秀康」は、弟の秀忠にその座を奪われ、越前北荘藩主に68万石で転封された。

 

結城秀康は側室から生まれた子供だった為に、将軍の座を与えられなかったとも言われているが、武勲に優れた人物でもあったとされている為に、家康の考える江戸時代を長く統治する老中政治に向かないだろうとして、排除されたという説が根強い。

 

諏訪市 高島城内 最上階の欄干から見える諏訪湖

そしてその結城秀康の長男で越前松平家を継いだ「松平 忠直(まつだいら ただなお)は、越前北荘藩主の座に就いたものの、後に気性が悪いなどの問題から改易処分となってしまっている。

なお、松平忠直が改易処分となりその身を預けられたのが「豊後国府内藩」で、その藩主がこの高島城を築城した日根野家の跡取り「日根野吉明」であった。その為に日根野家は江戸幕府から大きく信頼されていた証であったとも考えられる。

 

諏訪市 高島城内 最上階内の景観

このように江戸幕府は徳川家康の子孫やその親類筋で政権を固めた政治を行っていたように思うけど、その中でも将来に綻ぶ可能性のある芽は、自分の実の息子であろうとも、シッカリと摘み取っていた事が分かる。

 

諏訪市 高島城内 本丸公園の日本庭園

特に徳川家康が開いた江戸時代は、それまでの武家政権というよりも、平穏な政治体制に移行する新時代でもあった。その為に戦国時代のように気性が荒くて戦にうってつけのような当主よりも、慎重に優れた家臣の意見を尊重し、政治手腕に優れた新しいタイプの当主が求められる時代になっていった。

 

諏訪市 高島城内 本丸公園の日本庭園 説明

その為に将来の反乱分子になりえる可能性があった6男の松平忠輝を、改易処分にしてまで表舞台から消し去った。しかし、それから300~400年が経過した現代から振り返ってみると、そのような英断が江戸時代を約270年という長期政権にしたのである。

 

諏訪市 高島城内 本丸の日本庭園の景色

「馬鹿な将軍でも側近連中がしっかりしていれば、幕府は安泰」というスローガンだったのかもしれない。しかし、人類の歴史というものは日本国内だけでなく、古代中国や古代エジプトや古代ローマ帝国など、どんな大国となった強国も必ず内部崩壊してその政権は崩れ去る事を繰り返している。

 

諏訪市 高島城内 本丸の日本庭園の景色2

若い頃から人質に出されて、何回もの死闘を潜り抜けて、耐えに耐えて念願の政権を奪取した”超苦労人”の徳川家康でも、江戸時代中期以降の江戸幕府が腐っていく事を食い止める策を事前に打つ事は出来なかった。

しかし、”腐る”という事は”終わり”ではなく、その次に台頭してくる新しい世代にバトンタッチする必須な儀式的なものであり、防腐処理しても必ずいつか腐っていく日が待ち受けているのである。

おやきマン
おやきマン

おやきは腐る前に食べてな!

 

諏訪市 高島城内 本丸に置かれていた像「いちか」

そして高島城跡本丸に設置されていた、こちらの銅像は「細川 宗英(ほそかわ むねひで)という諏訪市出身の彫刻家によって製作された、『いらか』というタイトルが付けられた作品だった。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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