信州松本旅行記2022年3月-29
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
雪解け水が滴る!
さて、長野県内でも江戸時代から多くの参拝客で賑わう、「善光寺」を訪れます。
今回の長野県旅では、江戸時代からの現存天守でもある「松本城」と、三谷幸喜作品のドラマ『大空港2013』 のロケ地となった「松本空港」を訪れるのが目的だったけど、話に聞くところによると、この善光寺は外せないとの事で寄り道したのである。
善光寺は寄り道ではなく、メインで訪問する場所じゃん!
善光寺の見学!
勿論オカンはこの善光寺の存在を知っていたが、日本の歴史に全然興味が無かったボクにとっては、初めて知った寺だった善光寺。しかし、その歴史を調べてみると、仏教のメッカ的な存在でもあり、日本で最古の仏像が保存されている由緒ある寺だった。
訪れたのは3月10日で松本市内からやって来る途中にはあまり雪は見られなかったけど、標高が高い長野県ではこのようにまだ雪が残っている姿が見られた。寒いというよりも空気が冷たい印象を受けた長野県だけど、標高の高さが大いに影響していたのかもしれない。
先程まで訪れていた松代町周辺では全然雪が積もっている光景が見られなかっただけに、松代町よりも北側にある善光寺は雪が降り易い環境なのかもしれない。
そして境内を進むと、このように立派な外観をした荘厳な建物が見えてくる。
この建造物が『国宝』にも指定されている善光寺の本堂で、江戸時代の1707年に完成した建物となっている。日本最古の仏像が収蔵されている善光寺では、過去に何度も本堂が焼失したりしており、この建物は創建以来12回目に再建された建物となっているという。
フェニックスのように復活を繰り返す善光寺じゃん!
1700年頃に当時の本堂が大火災で焼失してしまい、約2万両を越える浄財が寄進されて再建された善光寺の本堂。
1847年5月に発生したマグニチュード7を超えたとされる『善光寺地震』では、ちょうど善光寺の御開帳の時期で多くの参拝客が集まっており、死者の数は約1万人前後だと推定されている。ただその大地震でも本堂は倒壊せず、善光寺の御開帳は中止となってしまったが、建物は何とか大地震を耐え抜いたようだ。
善光寺でも有名な儀式である『御開帳』は、7年に1度の大イベントとなっている。ちなみに”7年に1度”とあるが、この数え方は開催された年から数える”数え”となっている為に、実質は6年に1度となっている。
善光寺の御開帳は本来は2021年に実施予定だったが、2020年に発生した新型コロナウイルス感染の影響により1年延期されていた。そして新型コロナウイルスに世の中が慣れてきた事もあって、翌2021年に例年よりも1ヶ月開催期間を延長した事によって、大勢の観光客が訪れて経済効果も大きかったという。
沢山おやきが売れてうれしいじゃん!
この訪問はその御開帳のある2022年だったけど、その御開帳が開催される約1ヶ月前だった。
というのも元々その御開帳を目当てにしていた訳でもなく、またビックイベントで大勢の人混みの中を行き来するのが嫌でもあったので、この時期に訪問したのであった。
新型コロナウイルスが全世界に感染を広めて、人間の接触が断たれてしまうと、このような昔から伝わってきた仏教などの参拝などの恒例行事が悉く中止に追い込まれてしまった。それだけに新型コロナウイルスの台頭は、世界的に今までの人類が培ってきた宗教を全否定するかのような影響を与える事に繋がった。
こちらは翌月に御開帳という大イベントを控えていた本堂。戦後の1953年に本堂が国宝に指定されたが、長野県にはこの善光寺本堂を含めると、10個の国宝が存在している。
ちなみに今回の旅最中で訪れた長野県の国宝は、この善光寺と、松本城と、旧開智学校である。
そしてこの仏教寺である善光寺の珍しいポイントが、『無宗派の寺』である。
その辺で訪れる寺はほぼ「○○宗」と、何かしらの宗派に属している寺ばかりを見かけるけど、この善光寺はどの宗派にも属さないという寺になっている。
宗派が分かれる以前に創建された寺だからじゃん!
こちらは「経蔵(きょうぞう)」という、1759年頃に建立された五間四方宝形の建物。建物内には仏教の経典が数多く収容された輪蔵があって、それを回すだけでその仏教経典を一読したと同じ効果があるとされている。
※経蔵内の参拝は、大人300円/高校生100円/小中学生50円(セット券あり)
その経蔵の正面には、「傅大士(フダイシ)」という輪蔵を考案した人物の像も見られる。輪蔵に収められている仏教の経典は約6000冊もあるというので、まず一般の人が読破する事が難しい為に、簡単にその恩恵を得られるようにしたようだ。
そしてその脇にあったこちらは「輪廻塔(りんねとう)」という、石碑の中に設置された回転盤を手で回す事によって、徳を積めるという物。またその脇には『南無阿弥陀仏』の文字が彫られているのも見える。
昔から仏教の教えが日本人に浸透している事もあって、寺を訪れた人の多くがこのように自然に輪廻塔を見ると手を触れてしまうようだ。
ただ新型コロナウイルスの影響で、このように知らない他人が手で触っている箇所は、コロナウイルスに知らず知らずのうちに感染してしまう可能性があるので、触らないに越した事はないのであるが。。
しかし、オカンはこのように平気で輪廻塔に触れて、嬉しそうに回している姿を見せる。
回すだけで御利益があるんやデ!
ちなみにこの松本訪問の約1ヶ月前に、オカンは新型コロナウイルスに感染してしまった。そしてその煽りを受けてボクも”みなし感染”という事で、一緒にコロナウイルスに罹患してしまった。
しかしオカン曰くは「どこで感染したか、全く検討がつかんのや!」と言っていたけど、そういう人間程にこのように知らず知らずのうちに多くの人が触る物を触っているのだが。。
私が悪いんやないで!私に罹ったコロナウイルスが悪いんや!
江戸時代中期に建立された経蔵も、歴史的な建造物として”国の重要文化財”に指定されている。昔に建立された寺院などの建物は木造建築物ばかりだったので火事に弱かったけど、何度も焼失を繰り返して善光寺は火災対策を講じて、火事防止に取り組んだ為にこのような歴史的な建造物が現存しているのだろう。
そして御開帳というと、国宝の本堂内に保管されている『一光三尊阿弥陀如来』がお披露目されるのであるが、実際にはその本尊は一般公開されずに、その代わりに「前立本尊」という一光三尊阿弥陀如来と全く同じ形をした物が一般公開されるという。
そして善光寺の本尊は一般人だけではなく、寺にいる住職や僧侶も見られない”秘仏”となっているので、現代に生きる人間でその本尊を実際に見た事のある人が居ないとされている。
なので、「誰も見た事が無いという事は、本尊が存在していないのか?」という噂が昔からあって、江戸時代にもその噂を確かめに役人が送られてきたという。しかしその役人が記した書物には本尊の所在は明記されておらず、真相は闇の中となっている。
真相は”逗子”の中じゃん!
信じる心が大事なんじゃ!
そして山門の脇には長野市指定建造物となっている、「石造宝篋印塔」という古そうな墓石が2個設置されている。
この「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」とは、古代中国の仏教より伝来した供養塔で、日本全国でもよく見られる建造物である。
この宝篋印塔は1379年頃に建立されたとされている。ここで供養されているのは「佐藤兄弟」で、源義経の家臣だった兄弟「佐藤継信/忠信」が『屋島の戦い』で討ち死にしてしまい、それを哀れんだ母親が善光寺を参拝して供養塔を建立したとされる。
なお、佐藤継信は『平家物語』の中では義経を狙った矢を身代わりで受けて戦死したとされている。昔の兵士軍団の中では、その属している大将の功績が兵士達の一番の勲章でもあったので、自分の身を犠牲にしても大将を守る事が当然だったようだ。
そして戦では若い人々が多く亡くなったが、若くして亡くなる人ほどにその将来が嘱望された。実際に生きて功績を多く残した人よりも、これから多くの功績を打ち立てるハズだったと思われる人の方が、より盛大に祀られる事が多いのである。
善光寺も御開帳の時期になれば、全国から多くの参拝客が訪れる。新型コロナウイルスの影響で人々が密な状態を避ける時代となっているものの、大きな経済効果も生み出す善光寺御開帳は、地元商店などの経済界も長年待ち焦がれている大イベントである。
なお、雪が山門や本堂の屋根に積もっている時には、その雪が解けて滑り降りてくる可能性があり、その対策として山門内の通行が規制されていた。普段雪が積もる場所に住んでいないと、このように屋根に積もっている雪が落ちてくる危険性も認識していないのに気付くのである。
昔から多くの参拝客がやって来た観光名所ともなっていた所は、主にこのような寺院が多かった。そしてそのように参拝客が多い寺院を要する江戸時代の藩は、その多くの参拝客によって多大な経済効果を享受して、それが大きな収入源となっていた藩もあったようだ。
そして寺側からしても、大きなイベントを行う事で多額の寄与が発生し、建物の補修などに賄う費用を回収できる。その為に新型コロナウイルス騒動で恒例行事の殆どが中止となってしまって、全国の寺院などが財政的に苦しくなってしまっていただけに、このような大イベントは新型コロナウイルスに打ち勝つという気持ちもあった事だろう。
そして山門の先には、善光寺の長い参道が見えてくる。昔から多くの人々が通ってきた参道だけど、昔の善光寺の本堂は今の位置ではなく、もう少し南側に建てられていたという。
ブラタモリで解説してたな!
こちらは1750年に再建された国の重要文化財にもなっている「山門」で、約100年程前の改修工事で元々の”栩葺(とちぶ)き”から”檜皮葺き”に変更されたが、2007年の修復工事によって当初の”栩葺き”に戻されているようだ。
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓信州松本旅行記:初回↓↓