酸欠に注意!高度の高い松本城で感じる日本の美しさ【信州松本旅行記9】

信州松本旅行記2022年3月-9

旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)

空気が薄い松本市!

松本城 大天守内 4階 御座間 内観

長野県松本市が全国に誇れる”国宝”ともなっている、松本城の天守閣。徳川幕府の譜代大名が治めた城だけあって、五層六階の大きな天守閣となっている。

ただ、内部の見学は急勾配の階段を上り下りしないといけないが、その苦労に見合うだけの満足感を得れる場所となっている。

 

【松本城】

住所:長野県松本市丸の内4番1号
営業時間:8時30分~17時頃(※年末のみ休み)
電話番号:0263-32-2902
入場料:大人700円/小中学生300円

 

 

 

松本城の天守閣内を見学!

松本城 天守内 4階から降りる階段

急勾配の階段が特徴的な江戸時代から現存する天守の建物だが、これでもまだ各段に滑り止めが取り付けられ、手摺も用意されているので、昔に比べれば恐らく昇り降りしやすくなっているハズである。

 

松本城 天守内 3階に降りる

最上階まで見学した後に帰るルートはコロナ禍の為に決められた順路を進んで行く必要があり、その指示に従って進んで行くと、入口から入ってきたルートと違う道を進まされる。

松本城の大天守は戦国時代後半に築城されたと考えられており、これから進む場所は江戸時代に増築された「辰巳附櫓(たつみ つけやぐら)という建物になっている。

 

「辰巳附櫓」に進む!

松本城 天守内 3階 通路を進む 辰巳附櫓

この松本城は豊臣秀吉が覇者となった戦国時代後半に、江戸に移封された徳川家康を監視する城として築城された。

しかし秀吉亡き後の時代に狡猾にも全国を支配する事になった徳川家康が築いた江戸幕府の城となり、一転西側を睨む城となった。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 説明

江戸時代中頃から松本藩の藩政が行われていた「二ノ丸御殿」は、明治9年に全焼してしまって、その跡地に松本裁判所が造られた。

その後、昭和53年に松本裁判所が三の丸跡に移転した為に、その空いた跡地で”二ノ丸御殿跡の発掘調査”が行われた。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示品2

その発掘調査で、地面の下から数多くの出土品が発見された。

こちらに展示されていたのは、「煙管」「碁石」「古銭」などで、この地が松本藩の中心部ともなっていた事もあって、他にも色々な物が出土しているようだ。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示品

また皿などの食器と共に「灯明皿」という、江戸時代に夜間照明となっていた、菜種油を注いで木綿の芯を置いて火を灯していた皿が大量に発見されている。

現代みたいに照明のスイッチを押せば簡単に電気が点く時代ではなかったので、貧しい庶民は暗くなったら早く寝るしかなかった事だろう。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示品3

こちらは「碁石」で昔から特にルールなども変わっていない、シンプルな卓上ゲーム。

現代ではデジタルな世界になっても液晶内の碁盤を使ってゲームしている人もいるけど、やっぱり現物の碁石を触って指す感覚はデジタルの世界では超えられない。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示品 城の図面

こちらは発掘調査が行われた「二ノ丸御殿跡」絵図である。

敷地は約6000㎡もあった御殿で、藩政を行うだけではなく、藩主が普段住まいするプライベートな場所としても使われていた。

 

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 渡り廊下

このような廊下を進んで辰巳附櫓へと向かう。

この松本城の天守閣は”複合連結式天守”であるが、”複合連結式天守”というと守りを堅くする為に他に櫓などを連結させて強化するイメージがあるけど、この辰巳附櫓と更に先にある月見櫓は接待用の建物として造られたとされている。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示室

江戸時代の1630年代に建造されたとされる辰巳附櫓と月見櫓は、大坂の陣で敗北した西軍の残党などの脅威も取り除かれて、平穏な時代を迎えだしていた頃だったので、それまでの防御優先の建物構造はあまり見られないという。

どちらかというと接待目的で建造された建物だったので、他の建物に見られるような「石落とし」「狭間」などが見られないという。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示室 火薬入れ

こちらでも引き続き『赤羽コレクション』の、鉄砲本体ではなく、それに付随するパーツの展示品が見られる。

右手に見えるのは「口薬入れ」で、この「口薬」とは鉄砲の銃身奥に詰め込んだ火薬ではなく、火縄の火を引き金を引いた際に点火される為の火薬で「火皿」という部分に入れられていた。

 

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示室 火薬入れ3

こちらは銃身の奥に詰められた火薬を入れた、角製の「火薬入れ」となっている。上で見た「口薬」と成分は同じ火薬だが、「口薬」の方がより粒が細かかった。

そのように同じ火薬でも用途が違った為に、簡単に使い分けが出来るようにと、入れる容器が違っていたのである。

鹿角クン
鹿角クン

火薬は雨に濡れたらダメだから、このような水に強い容器に入れられていたんだ!

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 展示室 火薬入れ2

そして火縄銃に必須な「木綿の火縄」も展示されている。火縄銃の性能において、この火縄の質が大きく左右していたようで、当時高級品だった木綿を大量に使用した火縄だと命中精度が上がったという。

しかし、大量生産するには木綿だけの火縄は高くついたので、竹や麻などを混ぜた物で使う場合が多かったとされる。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 花頭窓

こちらの窓は「花頭窓(かとうまど)という、鎌倉時代に中国大陸から伝わってきた窓のタイプ。

日本人は独自の文化を築いてきたように思ってしまうけど、実際には中国大陸からの伝来品などに大きく影響を受けている。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 玉箱

こちらは”葵の御紋”が正面に大きく入った、松本藩で使っていたという「玉箱」である。

「玉箱」というと火縄銃などに使っていた”弾”を入れて運ぶ為の箱であるが、鉄砲に使われた玉には火薬が入ってなかったので、特に水に濡れてもそこまで影響しなかったのかもしれない。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 玉箱2

鉄砲の弾というと先が尖がっていて、錐揉み回転しながら飛んでいくイメージがあるけど、戦国~江戸時代まで国内で使われていた弾は、実際には「弾丸」ではなく丸い「玉」だったのである。

 

ちなみに現代に使われている銃身に螺旋状の溝が刻まれて、銃弾が錐揉み回転しながら飛んでいく技術は、1850年代に『ミニエー銃』として実用化されていくのである。

 

松本城 天守内 辰巳附櫓 遠眼鏡

こちらは現代の世では”望遠鏡”と呼ばれる、遠くを眺める時に使用した「遠眼鏡」

望遠鏡は戦国時代末頃にヨーロッパで開発され、江戸時代初期には海外からの献上品として、時の将軍に贈られてきていたという。

 

 

「月見櫓」にて

松本城 天守内 月見櫓の入口

そんな展示品などを見ながら更に進んで行くと、目の前に明るい部屋が見えてくる。

こちらが「月見櫓」で、江戸時代1634年頃に時の将軍:徳川家光を接待する為に建造された建物だとされている。

 

松本城 天守内 月見櫓 内観

江戸時代に入ってから建造された建物だったので、他の建造物と違って分厚い壁に囲まれた部屋ではなく、銃や矢を敵に向けて発射する”狭間”という穴も見られない。

逆に全く壁が見当たらなくて、戦いの事を全く想定していない部屋となっている。

 

松本城 天守内 月見櫓 内観2

このような構造を見ていると、天守の建物というよりも、大名庭園などに造られている御殿屋敷の建物の内観にも思える。

他の天守内ではこのような景観をわざわざ楽しむだけの部屋が見られないだけあって、将軍をもてなす為に特別に築かれたという匂いが伝わってくる。

 

 

月見櫓からの景観! 動画

 

 

松本城 天守内 月見櫓から眺めた内堀の水面

この松本城の天守閣内は通常は夜間立ち入り出来ないので、実際には月見見物は出来ないけど、代わりに本丸の高台からの見晴らしの良い景色が待ち受けている。

この月見櫓から内堀を眺めてみると、外側に立って天守閣を眺めていた時には気付かなかったけど、かなりの広さの堀となっている。

鹿角クン
鹿角クン

敵が攻め込みにくいように造った内堀だからね!

 

松本城 天守内 月見櫓 内観 戸

このような引き戸しか外部を隔てる物がなく、まさに天守閣内に造られた”御殿”のような部屋となっている。

正確には天守ではなく、天守に取り付けられた”別室”だったので、いざ敵が攻め込んできた際には大天守の中に逃げれば良かったのだろう。

 

松本城 天守内 月見櫓 天井裏

そんな景観を楽しむと共に、天井裏に伸びる大きくて太い梁を眺めるのも個人的には楽しいポイントである。

特に縦の大きな柱が全く見られない月見櫓だけに、この梁が月見櫓を支えていると言っても過言ではない。

 

松本城 天守内 月見櫓 内観景色

高校生ぐらいの若者も城見学に来ていたけど、この年代だと江戸時代に造られた木造建築物の重要なポイントなどには目が行かず、外側に見える見晴らしだけに気を取られている様子が見られた。

かという自分もこの子達の年頃だと、こんな城になど全く興味を示さなかったのだが。。

オカン
オカン

いつから、こんな城好きな子になったのか・・・

 

松本城 天守内 月見櫓 明治時代の古写真

こちらは明治35年頃に撮影された、松本城天守の古写真が飾られていた。

明治時代になって取壊しの危機を逃れた松本城天守だけど、建物を綺麗に補修するという事がされていなかった為に、昔はこのように廃屋の外観となっていた時期もあった。

おやきマン
おやきマン

城の綺麗な外観は、お金をかけて補修してくれてるからじゃんよ!

 

松本城 天守内 月見櫓 明治時代の古写真2

明治時代には大天守が傾きだして倒壊する恐れもあったので、明治36年から約10年の歳月を掛けて『明治の大修理』が行われた。

そして今の城は昭和30年に完了した『昭和の大修理』のおかげで、このような美しい城の形が見られるようになっている。

 

松本城 天守内 月見櫓 酸欠で休憩するオカン

そんな月見櫓を見物していると、脇でオカンが座り込んでいる姿が見えてくる。

今日は朝早くから活動していた為に体がショックを受けて驚いてシンドクなっていたのかとも思ったけど、今考えてみれば、長野県松本市は平均標高が約590mもある高台なので、薄い空気に対応できずに酸欠状態でシンドくなっていたようだ。

オカン
オカン

ちょっと休憩・・・シンドイわ・・・

 

松本城 天守内 月見櫓 見学する若者達

個人的には標高約590mという松本市内を散策していても、全然シンドクは感じなかった。

しかし、過去に標高3000mを超えるボリビアのウユニ塩湖を訪れた時には、酸素がとても薄かった為に酸欠状態に陥り、酸素ボンベの助けを借りる事になった経験を思い出す。

 

松本城 天守内 月見櫓から眺める本丸御殿跡の原っぱ

この長野県は全国の中でも”最も平均標高が高い県”なので、普段ちょっと息苦しさを感じる人などが訪れる際には、体調管理に特に注意しておく必要がある。

昔と違って自分の体を使って歩いて移動する時代ではなく、快適な電車や飛行機や車などで簡単に標高の高い場所へ移動できる時代となっているので、標高の高さを甘く捉えている現代人が増えている事だろう。。

 

こんな旅はまた次回に続きます!

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