信州松本旅行記2022年3月-34
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
野沢菜のおやき!
さて松本旅(長野県旅)3日目の朝は、早々にホテルを発ち、真田家の旧領であった上田市の上田城跡を目指してレンタカーを走らせる。
松本駅周辺から上田城跡までは車で約1時間ちょいで行けるハズだった(Googleマップの経路情報にて)が、レンタカーに搭載されているカーナビの指示に従うと、遠回りのルートを走らされてしまったのである。
カーナビより断然、Googleマップのナビの方が精度高いよな!
「道の駅 あおき」に寄り道!
当初の予定ではそろそろ上田市付近まで来ているハズだったけど、カーナビの遠回りルートで山の中を走っていると、なかなか上田市まで辿り着けなかった。
途中で通るべき道を間違えていた事に気付いたものの、時は既に遅しで仕方なしにカーナビの示す道を進んでいると、こちらの「道の駅 あおき」があったので休憩がてら寄り道する事にした。
この「道の駅 あおき」が造られているのは長野県小県郡青木村で、その青木村は面積の8割が山林となっている事から農林業がメイン産業となっており、それと共に約1割の農業地などがある地域のようだ。
またこの「道の駅 あおき」は2017年にリニューアルオープンした建物となっているので、比較的新しい建物となっていて、村らしい古臭さは全然感じられない道の駅となっていた。
そして農産物直売所に入ると、まず長野県名物の「おやき」が見えてくる。長野県は標高が高くて寒く、また山に囲まれた土地が多くて稲作に向いていなかった事もあって、小麦や蕎麦などが主に栽培されてきた。
その為に保存食として、米の代わりに小麦粉や蕎麦粉を使い、それを練って伸ばした皮に野菜などを中身にして包んで焼いた「御焼き」が昔から食べられていたという。
「御焼き」は、日本イチ平均標高が高い長野県らしさが現れている食べ物じゃん!
そんな農産物直売所には、こちらの「値段の桁を間違えて表示しているのか?!」と一瞬思ってしまう程に、”いいお値段”をしている朝鮮人参も販売されていた。。
1本19,500円って・・・
朝鮮人参が入った「おやき」は見た事ない・・・
最近までこの朝鮮人参が何故これほどまでに”いいお値段”となっているのかを理解できなかったけど、朝鮮人参を栽培するにあたって、連作せずに約10年に渡って畑を休ませないといけないという事を知ると、それも納得の値段となるのであった。
そしてオカンはここぞとばかりに買い物モードに突入していたが、個人的にはお土産物を買いたい気持ちが無かったので、どんな商品が販売されているかを見ていく事にした。
個人的には中身の商品よりも、その外観を成すパッケージデザインを重視するボクの目が留まったのが、こちらの『チョコにおぼれてみたくて』というチョコクランチ菓子だった。
こちらは長野県上田市に本社を置く「豊上東山観光株式会社(豊上製菓グループ)」が製造している、”信州長野のご当地土産”となっている。
その隣には同じシリーズで『初めて会ったその日から』という、ホワイトチョコのチョコクランチにピスタチオの風味が加わったお菓子となっている。
お土産というのは「自分用」と「人にプレゼント用(バラ撒き)」とで分けて購入する人が多いのだが、こちらは知り合いにプレゼントする際のインパクトが強いパッケージとなっている。
個人的には印刷業経験者として、”プレゼント用のお土産は兎にも角にも外観のインパクトが一番”だと思っているだけに、非常に興味を惹かれた商品であった。
こちらも可愛らしい熊のデザインとなっていた『信州くまってる(8個入)』という、イチゴ風味のチョコクランチ菓子。
どうやらこちらも信州名物のチョコクランチ菓子という表示だったので、さっき見た面白いパッケージ商品を製造している豊上東山観光株式会社の商品だった。
そしてクマデザインだけではなく、『信州くまってる』からパッケージデザインと、チョコがホワイトチョコレートになっただけの『信州ねこってる(8個入)』という商品も置かれていた。
巷では、何でもかんでも猫デザインの商品を造れば売れてしまう程に猫ブームとなっている事もあって、クマと一緒に猫デザインのチョコクランチも一緒に販売されている光景が見られた。
そして全国で3番目に収穫量が多い長芋の生産地としても有名な長野県だけあって、このように立派な大きさをした長芋も販売されている。
ここで販売されていた長芋は、長野県でも中西部の東筑摩郡にある「山形村」で採れた物で、長野県内でも有名な長芋の産地となっているという。
長野県では北アルプス連峰などに囲まれている環境もあり、このような野菜が豊富に栽培されていて、野菜好きにとっては”日本イチ天国に近い県”にも思える様な、素晴らしい場所である。
そんな美味しい野菜を使った「おやき」も絶品じゃん!
その為に農作物直売所に置かれている、さっき見てきたお菓子などの商品よりも、このような美味しそうな野菜を見ているだけで楽しくなってしまう。この道の駅もGoogleマップのナビ通りに進んでいたとしたら、立ち寄る事が無かっただけに、ここにやって来たのも”野菜の神様”のお導きだったのかもしれない。
”おやきの神様”の導きかもしれないじゃん!
こちらは小さなカプセルに入れられた、プチトマトよりも小さなトマトが入って130円という、とてもお手頃な値段で販売していた。なお、こちらのトマト🍅は『アメーラルビンズ』という、糖度が10度を超える”高糖度ミニトマト”だった。
この『アメーラルビンズ』というトマトは、独自の技術で小さいプチトマトのような大きさで栽培され、その高い糖度からスイーツのトッピングなどにも使われる🍅だという。
こんな美味しいトマトがたった130円で買えるなんて、幸せだな!
ボクがそんな長野県らしい美味しそうな野菜群を眺めている間に、買い物かごタップリにお買い物をしていたオカンは、その勢いで購入したお土産の大半をヤマト便で発送する手続きを行っていた。
この長野県に来て”信州蕎麦”を買う気満々だったオカンは、その勢いに乗って、ボクの弟夫婦にお土産として蕎麦を箱一杯に詰めて送っていた。
これだけ送っておけば、文句も言わへんやろ!
上田市の上田城跡へと向かう!
そんな風に途中の道の駅に寄り道した事で約30分ほど時間が押してしまったけど、千曲川沿いにある目的の上田市にやっと到着した。この上田市では、かつて真田家の領地であった「上田城跡」を見学するのを楽しみにしていた。
まずは上田城跡公園の北側にあった「上田城跡北観光駐車場」という、”1時間までは無料/1時間超~11時間以内は100円/時”という料金体系の広い駐車場に車を停めた。
なお、城跡の下の方にある「上田城跡駐車場」は”無料”となっているので、少しでも節約したいのであれば、下の駐車場の利用をオススメする。
そして駐車場から上田城跡の入口へと向かう道は、かつて上田城の二ノ丸に掘られていた堀跡となっていて、今では「けやき並木遊歩道」として整備されている。
この「けやき並木遊歩道」は、実は上田温泉電気軌道(現:上田交通)の線路があって、実際に電車が走っていた場所だったのである。上田温泉電気軌道の『真田傍陽線』間の路線で、「公園前駅」として1927年から1972年まで約45年間に渡って使われていたという。
しかし、戦後にトラック輸送などが普及した事もあって、残念ながら廃線となってしまった為に、今では線路は撤去されて並木道として整備されている。また線路は撤去されているものの、当時使われていた駅のプラットフォームは残されており、二ノ丸橋下に駅跡があるという。
そして堀の脇にあった道路沿いの道を歩いていると、こちらの「加舎 白雄(かや しらお)」という、江戸時代中期を代表する俳人の歌碑が設置されているのが見えてくる。
ひと恋し火とぼしころを桜ちる
by 加舎 白雄
この加舎白雄は上田藩士の子供として江戸屋敷で生まれ、師の下で俳句の修行をした後に、破門された事を受けて全国行脚修行の旅に出た。そして江戸時代には全国で知られる俳人となり、門下生は1000人を超える規模だったとされている。
上田城跡の入口:二の丸橋にて
そして歩いて行くと、「史蹟 上田城址」という文字が彫られた碑が見えてくる。上田城というと、真田信之や幸村の父親である「真田 昌幸(さなだ まさゆき)」が築城した城としても有名だが、江戸時代の上田藩は真田家以外の治世が長く続いたのであるが、今ではすっかり有名になっている”真田家の居城”というイメージになっている場所でもある。
大河ドラマの影響もあって、真田家の名前も全国区だな!
こちらは今では並木遊歩道になっている二ノ丸の外側にあった堀跡に架けられている、二の丸へと繋がる「二の丸橋」。
この「二の丸橋」竣工は昭和2年(1927)となっていて、今から約100年前に架けられたようだ。ちなみにその時代の二の丸には、明治18年に造られた「上田監獄署」や、「伝染病院」などがあったという。その為にこの二の丸橋と共に上田城跡公園を利用する一般人向け用に、もう一本の二の丸とを繋ぐ橋がこれより南側に架けられていたという。
動物園やプールがあった時代もあるよ!
そんな二の丸橋の両脇にあったブロックには、この顔のようなマークが模られているのが見える。
実はこれ、「二の丸橋」に掛けた橋のシンボルマークとなっていて、「○○」は「二の丸」、その下の部分は「橋」を「ハ」と「シ」で表現していたようだ。
言われないと、変な顔マークにしか見えへんデ・・・
この二の丸堀跡が綺麗に延びた遊歩道として整備されているのも珍しいなと思っていたけど、今から約50年前まで鉄道の路線が通っていたという事を知って、納得したのである。他の城跡ではこのような堀跡は埋め立てられてしまう事が多いだけに、不自然に堀跡が残っているという事は、それなりの所以があったという事なのである。
そんな二の丸橋を渡って進んで行くと、上田城跡の入口となっている「東虎口櫓門」と、その脇を固める北櫓と南櫓が見えてくる。
なお、中央の「東虎口櫓門」は平成6年(1994年)に復元された門で、その左右を支える「北櫓」(右側)と「南櫓」(左側)は、江戸時代に建てられた櫓となっている。ただし、北櫓と南櫓は明治時代の廃城令によって民間に払い下げされ、上田新地の遊廓に移築されて、その貸座敷として使われていたという珍しい経歴を持つ櫓ともなっている。
遊郭の貸座敷として使われた建物が、城跡に戻ってくるなんて面白い城やけ!(笑)
江戸時代にこの上田城を居城としていた上田藩で、真田家(信之)が治めていたのはたった20年に満たない程の短い期間だけである。
それ以外では仙石家が3代で約80年間、そしてその後に藤井松平家が7代で約160年間治めた城となっている。そんな江戸時代の歴史の中では殆ど真田家の文字が見られない上田城であるが、仙石家と藤井松平家の約240年間よりも、真田家の約20年の方が勝ってしまうという結果になっている。
家康が最も恐れたとされる真田家の勝ちだな!
こんな旅はまた次回に続きます!
よければ下記ブログ村のボタンをポチッとお願いします!
↓↓↓↓信州松本旅行記:初回↓↓