信州松本旅行記2022年3月-13
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
どこから見ても美しい!
長野県松本市内で、国宝になっている古い小学校の1つである「旧開智学校」が耐震工事中の為に内部見学出来なかったけど、その代わりに隣に設置されている「松本市旧司祭館」の建物を見学して行きます。
「松本市旧司祭館」の見学!
この松本市旧司祭館も明治時代に建造された歴史ある洋館で、しかも”無料”で入場できる。明治22年(1889年)頃に建造された建物で、カトリックの宣教師が住居として建てたという。
その宣教師の写真は無かったけど、その代わりにこのような説明板が置かれている。この建物はフランス人宣教師だった「オーギュスタン・クレマン神父」が松本での主任司祭として赴任してきた際に、その住居として建設された。
なお、クレマン神父は来日してからまずは東京で日本語を学び、明治20年に松本にやって来たけど、合わせて金沢と甲府の司祭も兼任していたようだ。
それとこちらは「ギュスターブ・セスラン神父」という、明治34年(1901年)から約22年間に渡って松本の主任司祭を務めた人物の説明もあった。
また明治時代には国内でフランス語とドイツ語の研究が進み、セスラン神父の元にフランス語を学びに来た日本人が多かったという。またセスラン神父も日本語をフランス語に当てはめた『仏和辞典』の編纂にも取り組んだという。
こちらは先程外側だけを見学した国宝小学校「旧開智学校」を建築した「立石 清重(たていし せいじゅう)」の説明も置かれていた。大工棟梁の家に生まれて、西洋風建築は独学で学んで、疑洋風建築物を数多く手掛ける事になる。
大工棟梁だけに、足は足袋を履いてるな!
この松本市旧司祭館はカトリック教の建物だが、近くにプロテスタント系の教会もある。
両者は同じキリスト教を代表する二大派閥でもあるので、松本市側も片方とだけ関係を深める訳にはいかない事だろう。
宗教は大体、教祖の想いとは別の方向に行くんじゃ!
明治22年に建造された松本市旧司祭館も、平成3年に移築された時に合わせて耐震補強がされているからか、2階への立ち入りもできるようになっていた。
海外では古い建物が多く見受けられるけど、地震大国の日本国内では古い建物は”耐震基準に達していない為に立ち入り禁止”となっている建物が残念ながら多い。
こちらの建物は洋館として設計された事もあって、”疑洋風建築”ではなく、れっきとした洋風建築物となっている。
部屋内には暖炉が設置されていて、外側にはベランダも見られる。元々ベランダはヨーロッパから東アジア経由で伝わってきたが、寒冷な場所ではガラスが取り付けられるようになっていったという。
こちらは寄付された、明治時代に教員が開催していた「英語研究会」の送別会写真と、松本市内の小学校で昭和初めに登山の際に白骨温泉に一泊した時の集合写真も飾られている。
こちらは昭和6年(1931年)に撮影された、白骨温泉の集合写真。
今から約90年前は、男の子の髪型が坊主ばかりだった事がとても特徴的である。
個人的にはず~~っと今までの人生で”短髪”だったので髪を長く伸ばしたいという欲求は無かったけど、現代の子供達がこの時代にタイムスリップしたら、大きなカルチャーショックを受ける事だろう。。
松本市は標高が約590mもある高台なので、冬場には最低気温が氷点下に達する時期もある。
その為に積雪も毎年あり、この洋館内にもこのような暖炉が各部屋に設置されているのが見える。
文明開化となった明治時代には、開港地から一気に洋風建築物が増えていった。
新しい物好きという特徴がある日本人は、江戸時代までの生活感を捨てて、新しい文化に飛び込んでいったようだ。
ただこのような明治時代に建造された洋館も、既に100年以上が経過しており、これから保存していくのも大変な作業である。
歴史ある建物は常に補修工事が必要であり、入場料が無料のこのような施設の整備費用は税金が捻出されているのだが。。
日本はいくらでも国債発行できるからな・・・
大量国債発行のツケは、遠い未来の子供達に払ってもらうじゃんね・・・
こちらは明治7年頃の「野菜単語表」となっている。
今では野菜の表示に漢字が使われる機会がとても少なくなっているだけに、簡単な「1文字」の漢字はまだ分かる物もあるけど、全然読めない単語も多い・・・。
こちらの黒板には、明治27年3月9日に尋常高等学校で書かれた日誌が、左側に飾られていた。
訪問日毎に当時の日誌が展示されているようで、なかなか手の込んだ展示品となっていた。
そして部屋内にはこちらのスケッチ作品なども飾られていた。
松本市内だけあって、松本城のスケッチはそこら中で描かれているので、特に珍しさがないからか、松本城のスケッチは見当たらなかった。。
なお、旧開智学校や松本市旧司祭館の見学している際に、同行していたオカンは再び
シンドクなった・・・
と近くのベンチでず~~っと休憩していた。蕎麦を食べて元気になったのかと思いきや、蕎麦を食べた為に胃袋が活発に活動を開始し、その為に血液が胃に集中して移動したので、再び酸欠状態になっていたようだ。。
万が一、倒れた際はヨロシク・・・
松本神社にて
そして松本城のすぐ北側にある三の丸跡地に、こちらの神社を発見する。
こちらは「松本神社」で、元々は『暘谷(ようこく)大明神』を祀る神社だったが、後に4つの神社と合祀された。
松本城のすぐ北側にある事もあって、松本藩主のゆかりの神社ともなっていたようだ。
松本藩主では、石川家、小笠原家に次いで3番目に移封されてきた「戸田松平家」の祖である「松平 康長(まつだいら やすなが)」や、戸田氏中興の祖である「戸田 宗光(とだ むねみつ)」などが祭神として崇められている。
江戸時代に松本藩を治めていた治世時代で最も長いのが「戸田松平家」で、明治時代を迎えた最期の藩主でもあったので、松本神社には戸田松平家の「葵の御紋」と共に「六曜の紋」なども見られる。
そして再び松本城の方に戻ろうと歩いていると、シンドクなってきたオカンがいきなりボクの腕にしがみついてきた。
どうやら歩いていたら立ち眩みのようになってきたらしく、目の前に居たボクの腕をとりあえず掴むのに精いっぱいだったようだ。。
アンタはワタシがシンドくなった時の杖代わりやで・・・
松本城西広場にて
そんなフラフラなオカンを支えながら歩くと、松本城の北西側にちょっとした広場があったので、そこのベンチにオカンを座らせる事にする。
そしてこのトイレが設置されている小さな広場には「史蹟 松本城」と彫られた碑もあり、さっきまで見てきた松本城とは違う角度で眺める事が出来る場所となっていた。
そして近くには、1993年に行われた『国宝松本城400年まつり』という、約70日間実施されたイベント用のイメージキャラクターとなった「夢丸」のデザインが彫られた石碑も見られた。
この「夢丸」というキャラクターは、松本城天守の形と、松本の頭文字「M」を組み合わせてデザインされたという。ただ、そのイベント用キャラクターだったので、今の松本市内では殆ど見かける事がないのだが。。
人気が無くて消えていったキャラクターも多いんだぜ・・・
こちらは松本城でも裏手側に当たる場所なので、まずここから城に向かって入っていく観光客が少ない場所でもある。
松本市民からすれば、散歩中に立ち寄ったりする場所なのだろうが、観光客は大手門跡の正面から入ってそのまま帰ってしまう人も多いので、ここに立ち寄らない観光客もそこそこにいる事だろう。
そして北西側からだと、内堀に架けられている「埋橋」も見えて、意外と人気の撮影スポットともなっているようだ。
ここから撮られた写真も多いな!
ただこの「埋橋」は、実は江戸時代には存在していなかった橋なのである。
『昭和大改修』として天守閣の修理が完了した昭和30年(1955年)に、”観光用”として新たに架けられたという。
しかし、橋が架けられてから約60年以上が経過し老朽化してきており、橋は残念ながら通行止めとなっている。
松本市としてもこの老朽化した埋橋の扱いに悩んでいるようで、改修工事をするにしても掘などの遺構を傷つける可能性があり、ただ観光客からは橋沿いに写真が撮れる人気撮影スポットともなっているので、簡単に撤去も出来ないという。
このように城を管理するには、色んな問題があって、そう簡単に修復や工事などが進む訳でもないようだ。
しかし、観光立国を目指す日本としても、このような江戸時代から現存する歴史ある建造物と共に、その建物がある町並みも保存していかないといけない。
そうなると、明治時代以降に造られた、城郭に不要な建築物は撤去していかないといけないのだろう。
高度経済成長期で邁進していた日本には昔の景観なんて気にしていなかったけど、今となってはその時代のツケが回ってきているのかもしれない。
こんな旅はまた次回に続きます!
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