信州松本旅行記2022年3月-11
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
21世紀の松本城!
さて松本城内を見学し終えて、そろそろ”昼飯時”という時間になっていたので、近くで飲食店を探そうと歩いていると、城の東側にこのような立派な門構えが見えてきた。
松本城の「太鼓門」を見学!
この門は二ノ丸と通じる「太鼓門」で、2段構えの”桝形”になっている。
この太鼓門は明治初年に取り壊されてしまっていたが、平成11年(1999年)に約8年に渡る発掘調査と復元作業の末に復活した門となっている。
「太鼓門」は2段構えの”桝形”となっており、まずは入口となっている”一ノ門”の「高麗門」をくぐる必要がある。
昔の城郭では、単純な門1つだけで敵の攻撃を防いでいた訳ではなく、このように二段構えの構造となっている門が多く、”一ノ門”を突破したとしても次の櫓付きの大きな門で攻め込んできた敵を鎮圧する仕組みとなっていた。
”一ノ門”をくぐって中に入ると、4mほどの高さの石垣が構築されていて、その上には櫓が設置されている。
そしてその櫓には何箇所も狭間の穴が見受けられ、ここから侵入してきた敵に向かって集中砲火を浴びさせる事が出来たのである。
そして中には”二ノ門”である「太鼓門」が見えてくる。なお、この門の左側手前の石垣の角に、大きな『玄蕃石(げんばいし)』という石も見られる。
信濃松本藩:第2代藩主「石川 “玄蕃頭” 康長(いしかわ やすなが)」は松本城天守閣築城の際に、本来の石高(約8万石)を超える規模の城造りを行った。
その為に予算が少なく過酷な労働となり、苦しんでいた人夫はこの20トンを超えるという巨石運びに苦情を申し立てた。
すると石川康長はその苦情を申し立てた人夫の首を切り落とし、その首を槍先に刺して「文句言わずに運べ~!」と大声を挙げて運ばせたという伝説が残っている。
名前が残っていない庶民は、ほぼ奴隷扱いだな・・・
昔はトラックや重機など現代の建築現場で見られる機材などが全く無い時代だったので、重たい石を運んだのも全て手作業であった。
今では想像もつかない位の過酷な労働現場だった城だけど、多くの人達の血と汗と涙の上に造られているのである。
1999年に復元されているので、比較的綺麗な太鼓門となっている。
木材は樹齢400年近くの檜を使用しており、江戸時代を生き抜いた木が21世紀となって、江戸時代の城郭を再現するパーツに化しているのだ。
そして太鼓門の中に置かれていた、こちらの大きな切株は1999年に復元された太鼓門の上に乗る櫓内の「梁」に使われた、樹齢140年の赤松の切り株だった。
このような木造建築物を復元するには、樹齢が100年を越える立派な木材が不可欠な存在となっている。
このように太鼓門の下側から上を見上げると、新たに使われた木材が顔を覗かせているのが見える。
これらの復元に使われた木材は、我々現代人よりも古くから地球上に存在していた木々なので、”地球の先輩”の下を歩かせてもらっているという謙虚な気持ちで門をくぐる必要がある。
二ノ丸御殿跡にて
そんな太鼓門をくぐって奥に進んで行くと、かつて松本藩の藩政の中心地であった「二ノ丸御殿跡」の広場が見えてくる。
ここに存在していた二ノ丸御殿は、江戸時代中頃より明治時代中頃まで使用されてきたが、明治時代に焼失してしまった。
そしてその後は裁判所が建設されて使われてきたが、昭和後半に裁判所が移転した為に空き地となり、そのタイミングで発掘調査が行われた。
この二ノ丸御殿跡は約2000㎡という広さのあった御殿で、勿論ここで藩政だけではなく、藩主が実際に生活していた場所でもあった。
そして藩主が生活するには必ず正室や側室などの”奥”が存在しており、御殿にはその”奥”と”表”が混在する空間ともなっていた。
松本藩では元々は本丸内に本丸御殿が存在していたが、江戸時代中頃に焼失してしまった時にその機能がこの二ノ丸御殿に移転した。
その為に本丸内には御殿が再建される事はなく、明治時代には近くの中学校などの運動場や農業実験所などとして使われていた時期もあるようだ。
こちらの大きな石碑は、明治13年(1880年)に明治天皇がこの松本市内を行幸してきた際に、当時新築だった松本区裁判所に立ち寄った記念に建てられた『明治天皇駐蹕遺̪址碑』。
松本区裁判所は昭和後半に移転してしまったけど、この石碑はそのまま残されているようだ。
太鼓門二ノ門の櫓は上に登る階段があって内部の見学が出来るのかと思っていたけど、どうやら一般公開はされていなくて、特別な時にだけ公開しているようだ。
2022年11月~2023年2月まで、太鼓門を通行止めとして”耐震対策工事”が行われたようだ。機会があれば、是非この太鼓門の櫓内の見学をしてみたい。
そして二ノ丸御殿跡は発掘調査が完了しており、その跡地に何の部屋があったかなどが区分けして説明されている。
ただ、この御殿跡の敷地内への立ち入りは禁止となっており、外側から眺めるだけしか出来ないが。。
この松本城は起伏のある山城ではなく、平地に造られた「平城」だった。
その為に本丸などへ向かう際にも長い階段や坂道を昇り降りする必要が無かったので、城付近で生活する武士達にとっては比較的快適な職場だったのかもしれない。
そんな二ノ丸の端にはちょっと盛り上がった高台が見られる。
見た感じにはこの二ノ丸御殿跡を見下ろす為のちょっとした展望所にも見えるが、江戸時代にはこの高台に櫓などの建物が造られていたのかもしれない。
こちらは江戸時代の1700年代初頭に、この二ノ丸御殿の敷地などを描いたとされる『信州松本城之図』。
この図を見ると右上の場所に櫓のような建物が描かれており、二ノ丸を警備する櫓が建っていた場所だったようだ。
>【長野県松本市史跡松本城二の丸土塀跡発掘調査報告書】(PDF)
二ノ丸御殿跡の発掘調査資料は、上のリンクからダウンロードして閲覧できるよ!
この二ノ丸御殿跡は敷地約6000㎡、そしてそこに造られていた建物群は約2000㎡になっていたという。
今ではこのように地面跡に区別がされているだけの広場となっているが、一応二ノ丸御殿跡も復元する計画が持ち上がったものの、昔の資料が乏しい為に見送りになったとか。。
二ノ丸御殿跡の景観! 動画
「二の丸裏御門橋」にて
そしてその二ノ丸の北側には、このような木造の「二の丸裏御門橋」が架けられているのが見える。
二ノ丸と堀を挟んだ向かい側にある三の丸との間を繋ぐ橋で、江戸時代から存在していた橋のようだ。
ただ、橋自体は後年に架け替えられた橋のようで、普通に通行する事も出来るようになっている。
二の丸裏御門橋近くにいた白鳥! 動画
この二ノ丸部分は無料で入れる場所となっているので、二ノ丸と三の丸を繋ぐ「二の丸裏御門橋」も普通に渡れる橋となっている。
普段都会に住んでいると、なかなか木造の橋を渡れる機会が少ないだけに、趣深い感じになる。
ただこの橋が架かっていた堀自体は、川のような流れが無い為に急流などで橋が流される可能性も少なかった事だろう。
城郭に付き物の堀も、場所によって川や海と繋がっている所もあれば、単なる長い池のようになっている堀もあった。
この松本城の堀も水流が無い為に、泥などが堆積しっぱなしで流れていかない為に、水質が汚れてきているのが問題となっていた。
この辺りでよく見られたカモは、水質が綺麗かより豊富なエサがあればいいのだが、見る側の人間からすれば、やっぱり透明度の高い水に憧れるのである。
そして松本城北側にあった三の丸跡周辺をブラブラと歩いていると、NHK番組『ブラタモリ』で見た事のあった井戸のある広場が見えてきた。
ここはかつて「北門馬出し跡」という門があった一画で、今ではその跡地付近の堀が埋め立てられている。
ここに設置されていた井戸からは綺麗な湧き水が出てくるようで、普通に”飲める水”ともなっている。
周りを北アルプスなどの大きな山脈に囲まれた松本市内の盆地にある場所なので、この松本市内では何箇所も綺麗な水が出てくる井戸が存在している。
北アルプスの美味しい水がタダで飲める松本市民!
さて、それはさておき、早くオカンの胃袋を満たせる飲食店を見つけないと、そろそろ大魔神に変身しかけてきたオカンの姿が横目に見えてきた。
ただこの辺りは観光客向けの商店などはあまりなく、近くに住んでいる住民の住宅街となっていたので、簡単に飲食店が見つからない。
腹減り過ぎたら、倒れるで!(怒)
松本城の周囲には三重の広大な堀が構築されていたが、今ではその半分以上が埋め立てられてしまっている。
世界遺産登録を目指す松本市では、そんな埋め立てられた堀の一部復元を計画しており、埋め立てられた場所に住んでいる住民に立ち退いてもらってまで復元する予定になっているとか。
そしてブラブラと三の丸跡を歩いても、簡単に「蕎麦屋」が見つからない。
信州とも呼ばれた長野県内では、街中を歩けばそこら中に蕎麦屋が存在していると思っていたけど、実際にはそうではなかったのである。。
長野県民も毎食ソバを食べる訳じゃないからね!
そして、遂に”Googleマップで検索”という裏技を使って、やっと見つけた蕎麦屋さん。
建物の外観だけ見ていると、期待していたような老舗蕎麦屋さんの外観をしていなかったけど、歩き疲れていたオカンはこの蕎麦屋さんを見るなり、
ここにしよ!早よ入ろう!
と即決であった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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