信州松本旅行記2022年3月-36
旅行期間:2022年3月上旬(2泊3日旅)
帰ってきた櫓!
『大坂の陣』で華々しい活躍をした後に憤死した真田幸村の名前は、現代となってとても有名になっている。そして長野県にあった松代藩主として明治時代を迎えるまで存続させた真田家は、その真田幸村の子孫ではなく、その兄だった真田信之の家系となっている。
上田城跡の見学は続く!
戦国時代に真田家の居城となっていた上田城跡の本丸には、今では「真田神社」が鎮座している。そしてその本堂脇には、こちらの木組みで覆いがされている井戸跡も見られる。
この井戸跡は『真田井戸』という名前が付けられていて、直径約2mで深さは約16mになっている本丸内で唯一の井戸となっている。そしてこの真田井戸には、全国でもよく聞かれる「抜け穴」があったとされており、その抜け穴を通じて兵糧などを運び込んでいたという伝説話が残されているとか。
昔の人達は、こういった抜け穴とかの伝説話が好きだな!
ホンマに抜け穴があったら、調べたらすぐ判るハズやで!
そしてその井戸の脇には、こちらの小さな木の鳥居と、1本の小さな木が植えられているのが見える。その周囲は木の柵で囲まれていたが、そんなに古そうな木でもなかったので、近年に新しく建立された物かもしれない。
そして鳥居の下には「伊勢神宮内宮はここより、256,399.839m(約256km)」と、彫られている文字も見られる。
これは「伊勢神宮内宮遙拝所」という、遠く離れた伊勢神宮を直に訪れて参拝する事が難しい為に、ここに来て伊勢神宮に向かってお祈りをする場所「遙拝所」として造られている。
イスラム教では聖地であるメッカの方角に向かってお祈りを捧げる人々の姿をよく見かけるけど、同じような宗教の考えがこの日本でも浸透しているようだ。遠く離れて違う発展を遂げていった宗教という考えも、このように同じ人間が考えたものなので、似ている所も多いのである。
江戸時代から現存する、唯一の「西櫓」
そして真田井戸や伊勢神宮内宮遙拝所がある真田神社の社殿脇を進んで行くと、本丸の端にこちらの櫓が建っている。この櫓が”上田城跡で唯一江戸時代からここに現存している櫓”で、真田信之が松代藩へ移封された後に転封されてきた仙石家時代の1627年頃に建造された物だと考えられている。
真田信之の領地であった江戸時代初期に、この上田城は棄却されてしまい、上田の土地も荒廃してしまった。そしてその跡を受けて小諸藩から転封されてきた「仙石 忠政(せんごく ただまさ)」が、1626年頃から上田城を再建していったとされる。
今見られる上田城跡は、真田家ではなく仙石家が築いた城だな!
この上田城はその仙石家が再建した城だったが、明治時代に入ってから例の如く、城内の建造物が民間に払い下げられていった。しかし、その中でも「西櫓」だけは取壊しを逃れて、この本丸の端に今も建ち続けている。
ただ2階建て構造となっていた西櫓は、昭和4年(1929年)に「徴古館」という今の上田市立博物館の前身の展示場として活用され、二の丸に新しい博物館が造られるまで約12年間に渡って博物館として使われた建物でもある。
この西櫓が建つ、本丸の西側は崖のようにキツい勾配となっており、南側の千曲川沿いから攻め込んでくる敵を監視する建物でもあった。しかし、今ではそんな千曲川の姿は殆ど見えずに、代わりに1997年に開通した北陸新幹線の新幹線が走る光景が見られる。
なお、この北陸新幹線のプロジェクトはまだ路線建設が進行しており、来年の2024年春頃までに金沢~敦賀間が開通する予定だという。
また北陸新幹線は東京から北陸地方を経由して大阪まで繋げる大プロジェクトであり、敦賀~新大阪駅まで繋ぐ構想となっている。
一応今から20~30年後の完成になると想定されているが、今から京都市内に新しい新幹線の線路を設置したりする事に障害があり、また日本自体が少子高齢化社会で利用者が減っていく中で、北陸新幹線を東京から大阪まで直結させる価値があるかどうかが審議されているようだ。
北陸新幹線早期全線開業実現大阪協議会のホームページで、「北陸新幹線が新大阪まで開業すると、7時30分頃に大阪を出発すれば、金沢駅周辺での9時からの会議にも間に合います」という文言が見られるけど、実際に利用する人がそれなりに居るのか?という疑問しか浮かばないのであるが。。
今はビデオ会議の時代になってしまったしな・・・
リモート社会になって、新幹線を使っての出張も減ってきているのに・・・
今走っている特急サンダーバードに、早く乗ればエエだけやんか!
西櫓前から見える上田市内の景色! 動画
真田神社の「ねがい玉」
江戸時代からそのまま現存している西櫓を外から眺めた後に、真田神社の方に戻ると、こちらの「ねがい玉」という文字が入った幟が見えた。神社では賽銭だけでは運営できない事もあって、最近では色んな工夫を凝らして、収入を増やそうと努力している姿が見受けられる。
そして視線を先の方に移すと、柵の奥に「ねがい玉:納め口」という表示のある穴が見える。どうやら「ねがい玉」という物をこの穴の中に入れると、”良い事”に繋がるという謳い文句が手前の説明板に記載されている。
その「ねがい玉」なる物は、神社のお守りなどが販売されている所で、1個800円で売っているという。そしてそのねがい玉を買ってから、玉に願い事を書いて、この納め口に投入するという仕掛けになっているようだ。
真田神社の拝殿の裏には、この小さい祠の本殿が設置されていて、恐らくここに祭神が祀られているのだろう。そして「納め口」から管が祠の下に向かって延びており、この本殿の下を通過させる事で”祭神からの御利益を得れる”という考えになっているようだ。
この”ねがい玉”というのは昔の真田神社には無かった物で、どうやら2019年末頃に新しく御目見えした仕掛けのようだ。
神様の下を改造して、逆に罰が当たるという発想はなかったんかな?!
神様は人間の都合のいいように解釈されているから、多分大丈夫なハズ。。
そして納め口から投入された”ねがい玉”は、管を通って本殿の神様の下を通過した後、この「ねがい玉受出口」に転がってくるようだ。言うなれば”神社のガチャガチャ的なねがい玉”のような雰囲気だったけど、どうせだったら、もっとガチャガチャのように中身の景品を真田家にゆかりのある品を入れて、運営した方が面白く感じるような・・・。
金儲けの仕掛けではなく、ただ皆さんの願いを叶えたいだけじゃん!
という感じでなかなかにツッコミどころのあった真田神社。しかし、次々に色んな取り組みをしているという見方も出来るし、特に信仰心が厚い人ばかり来る神社ではなく、”真田の城”を目当てにやって来る観光客が多い神社でもあるので、次々と目新しい仕掛けを打っていかないといけない場所なんだろうと思う。
私、スリラーのマイケル・ジャクソンみたいやな♪
こちらは「不落門」という名前が付けられていたけど、実際には徳川家康の大軍を2度防いだ訳だが、関ヶ原の戦い後に真田昌幸が改易されてから、この上田城は取り壊されている。その為に3度目の家康の仕掛けによって、門は崩れ去っているので”不落門”でもないと思うのだが。。
人間は都合の良い事実にしか目を向けないから、これでいいのだな!
この本丸内には最近まで生えていた杉の木が、台風などの影響で倒木する危険性が高まった為に、やむなく伐採されてしまったそうだ。そしてその年輪を調べてみたら、約450年もの年輪が数えられたという。という事は上田城築城当初から生えていた可能性が高い杉という事で、”真田杉”という名前で今もその切り株が御神木としてしっかり守られているという。
御神木となっている真田杉の切り株、写真撮り忘れました・・・orz
こちらの櫓は明治時代になって移築されて、上田新地の遊郭で奥座敷として使われて、昭和時代に出戻りとなって再びこの地に鎮座する事になった「北櫓」。遊郭というと、”色恋”を生業とした遊女が仕事をする場所だったので、色んな情事がこの櫓内で繰り広げられていたのだろう。
そして本丸内にあったこちらの小屋には、「上田城櫓:観覧券売場」という文字が見られた。全然気にしていなかったけど、復元された「東虎口櫓門」と、出戻りした「北櫓」と「南櫓」の内部を有料だが見学できるようだ。
「歴史ある櫓内部を見学できる!」と一瞬心が躍ったが、それから直ぐにこちらの案内を見て、小躍りした心が一瞬で落城してしまった・・・・。残念ながら雪が積もる地域でもあるので、11月から3月までの冬場は『冬季休館』となって閉鎖になっていたのだ。。
観光客が多そうな、3月後半の土日はオープンしてたんだな!
そんな小躍りした心を鎮めるように、上田城の本丸跡の広場をとりあえず散策してみる事にした。
「櫓や門の中に入っても、他の城に現存する木造建築物と似たような構造になっているだけなので・・・」と自分を慰めるのであった。。
櫓なんて、ドコでも同じやで!
こちらは戊辰戦争で、新政府軍側についた上田藩で従軍した藩士達に捧げる記念碑となっている。関ヶ原の戦いのように、これからの日本をどちらの勢力が制すかを見極める戦いであり、戊辰戦争は”明治時代の関ヶ原の戦い”だったとも言えるだろう。
新しいパワーがみなぎる勢力が強いな!
この上田城が明治時代に入ってから民間に払い下げられた際に、建物だけではなく、城内に生えていた樹木も対象となっていたという。
その際に払い下げられた樹木は、人並みの高さがあり、かつ周囲75cm以上という条件だったそうだ。そして実際にその条件を満たした松と杉が、合計950本近くも売られていったという。
そのような事実から、江戸時代の上田城には多くの大きな樹木が植わっていたと考えられ、”緑溢れる城”だった事が推測されているようだ。
昔は木材が貴重だったからな!
本丸の北東側には、江戸時代末頃まで建っていた「北東隅櫓」があったという。今ではその面影を見る事は出来ず、その北東隅櫓がどこに売られていったかも、詳しい記録が残っていないという。
江戸時代の城郭建築物は明治時代以降に、その姿の大半を消してしまっただけに、払い下げられてから無事に帰還した「北櫓」と「南櫓」はとても稀な例なんだろう。しかも遊郭の建物として活用されていたという歴史もあって、より風情を感じれる建物として今も目の前に立ち続けていた。
そんな”出戻り櫓”と新しく復元された櫓門は、冬場という事もあって内部見学は中止となっていた。
普段雪が滅多に積もらない大阪市内に住んでいると、”冬季閉業”という感覚が全くないのである。だから、今回のように雪が積もる場所に来ると、見学したかった施設が”冬季閉業”となっていて、ガッカリする事が多いのだ・・・。
また、温い時に来んしゃい!
こんな旅はまた次回に続きます!
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