鳥取旅行記 2022年6月下旬-20
旅行期間:2022年6月下旬(1泊2日旅)
ささら桁!
鳥取城跡の御殿跡に造られている、明治時代の西洋建築物「仁風閣」。元々は旧鳥取藩主の別邸として建てられた建物だが、大正天皇が皇太子時代に宿泊した施設として、今では資料館として一般開放されている。
住所:鳥取県鳥取市東町2-121
営業時間:9時~17時頃(※定休日:月曜/祝日の翌日)
電話番号:0857-26-3595
入館料:大人150円/高校生以下無料/65歳以上無料
※2023年12月末~2028年まで改修工事で全体休館予定
「仁風閣」の見学!
この地を治めていた鳥取藩は、江戸時代を通して池田恒興の子孫である「池田家」が歴代藩主として治世してきた場所である。元々は江戸時代初期に、池田輝政の弟だった「池田 長吉(いけだ ながよし)」が治めていたが、1617年に長吉の跡を継いで藩主となっていた「池田 長幸(いけだ ながよし)」は備中松山藩に移封される。
その後釜として送られてきたのが、幼年で姫路藩42万石を継いだ「池田 光政(いけだ みつまさ)」であった。幕府は姫路藩42万石という大きな藩を池田光政が継ぐのは許したものの、大藩で重要地でもあったので、池田光政を鳥取藩へ移動させて、その跡を本多忠勝の子だった本多忠政に任せた。
その後、1632年に同じ池田家が治めていた岡山藩主だった池田忠雄(池田輝政の子)が亡くなり、ここでも当時幼年だった「池田 光仲(いけだ みつなか)」が31万石の岡山藩主を継ぐ事になる。そしてここでも幼い池田光仲が大藩を任せられないとして、今度は鳥取藩に回されていた池田光政が岡山藩主と国替えされ、代わりに池田光仲が鳥取藩主と入れ替わって治める事になる。
国替えはこの時だけで、鳥取藩と岡山藩は明治時代まで池田家がそのまま治めるラク!
こちらには大名などが通れる由緒正しい橋にしか、取り付ける事が許されていなかったという「擬宝珠」が置かれていた。
今では多くの橋にこの擬宝珠が見られるけど、江戸時代には藩主が通る大事な橋にしか、見られなかった物である。
こちらは鳥取城で大手門として使われていた中ノ御門の前に架かっていた、「擬宝珠橋」についての案内となっている。
この擬宝珠橋は江戸時代初期に建造されて明治時代まで残っていたが、近年になって鳥取城跡の復元計画の一環で、2021年3月に復元されている。
なお、この擬宝珠橋は”城の復元橋として、国内で最長の橋長36.652m”の橋だという。
この擬宝珠橋は江戸時代初期に建造されて、その後に2度ほど架け替えされた。今回の復元工事では、昔の橋脚遺構をそのまま残して復元するという難度の高い工事が行われていた。
先祖が創ったものは、なるべくそのまま残そうという考えラク!
>鳥取市 擬宝珠橋 水中梁の上に木造橋を乗せる日本初の工法で復元
この「仁風閣(じんぷうかく)」という明治時代に建てられた洋館は、池田家当主で貴族だった「池田 仲博(いけだ なかひろ)」が当時の大正天皇が鳥取行幸する際の宿舎も兼ねて造らせたもの。
池田仲博は徳川慶喜の子供で、婿養子に来た人ラク!
この鳥取県は明治初期の廃藩置県により、「旧因幡国」や「旧伯耆国」などの一部が併合されて鳥取県となった。しかし、その5年後に鳥取県は島根県に併合されてしまった。その為に”鳥取県分離”の運動が強まり、約5年後に再び鳥取県が分離して存在する事になった。
こちらは明治時代初期頃の鳥取城を写した古写真である。明治時代初期には、このように山下ノ丸には三階櫓などが存在していて、江戸時代の城跡らしい姿を残していたが、島根県に併合された後に取り壊されてしまった。
今、この時代の姿を取り戻すべく、復元計画が進んでいるラク!
こちらは明治40年に行幸してきた、当時皇太子だった、後の大正天皇と共に鳥取にやって来ていた、海軍大将だった東郷平八郎が書いた書となっている。
ここに書かれているのは「天気晴朗ナレドモ浪高シ」という、日露戦争での有名なバルチック艦隊との最終決戦に向けて出発する際に、東郷平八郎が味方艦に打電した内容とされている。
明治時代から取り残されたような場所になっていた鳥取県は、明治天皇ではなかったものの、皇太子を迎える事が内定して、大いに街は盛り上がったようだ。その為にこの仁風閣が宿舎として築かれ、鳥取市内では初めての電灯が取り付けられる事になった。
その仁風閣は皇太子を迎える為に、突貫工事で造られる事になった。そして、その当時の鳥取県の年間予算とほぼ同じ費用が掛けられており、それだけ仁風閣の建設に力を入れていたかが分かる。
なお、仁風閣は皇太子が宿泊した後は鳥取市に寄贈された為に、池田家の別邸として使われる事は無かったという。
山陰地方は不便で行きにくいとされていた事もあって、なかなか皇室の行幸が決まらなかった。しかし、行幸が決まってしまうと、逆に皇太子に失礼のないようにと、色んな施設などを急ぎで用意しないといけないハメになったようだ。
館内の内装は、至って明治時代に造られた洋館風の内装となっていた。皇太子を迎える際に昔ながらの日本家屋よりも、近代化の先頭を走っているかのようなイメージを植え付ける為に、このような豪華な洋館を建造した事だろう。
明治40年頃でも、まだ電灯が無かった鳥取市内。東京や大阪などの商業地では大きく都市が発展して電車網が張り巡らされていったが、便の悪い山陰地方はこの頃より、時代に取り残されやすくなっていったのかもしれない。
仁風閣は皇太子の宿泊施設となった後は鳥取市に寄贈され、その後は迎賓館や博物館として使われていった。そして1970年代に近くに博物館が建設された事で、それ以降は資料館として今に至っている。
仁風閣の裏にある「宝隆院(ほうりゅういん)庭園」は、”加賀百万石”でも知られる前田家から養子に来て家督を継いだ、鳥取藩第11代藩主「池田 慶栄(いけだ よしたか)」が、初めて国入りする途中で亡くなってしまい、その夫人を慰める為に作られた庭園となっている。
第11代藩主:池田慶栄が初めて鳥取の地を訪れようとした際に、急病で亡くなってしまい、その跡継ぎには子が無かった為に水戸徳川家藩主だった徳川斉昭の五男(池田慶徳)が、養子入りして池田家の家督を継いだ。
なお、その人物が徳川慶喜と異母兄だった事もあり、後に徳川慶喜の息子をまた婿養子として迎え入れる事になる。
こちらの広間は「随員控所」となっていたが、左側にその宝隆院庭園が広がっている為に、右側の暖炉の上に設置されている鏡越しに、記念写真を撮ろうとしている女の子達が何回も撮影を繰り返している姿が見られた。
スマホはシャッター音が大きくて、迷惑ラク!
そして1890年に徳川慶喜の5男だった「池田 仲博(いけだ なかひろ)」が、池田家先代当主が子供を残さず死んでしまった為に、婿養子として池田家を継ぐ事になる。明治時代は江戸時代に絶大な権力を握っていた徳川家を追放したが、池田家は江戸時代からの忠義心を貫いたのである。
江戸時代には跡継ぎが生まれなかったり早死にした際に、改易を逃れる為に他の大名から養子を迎えて、何とか家柄を存続させた。その為に藩祖の血がほぼ途絶えてしまっている家柄もあるのだが、歴史的には仕方のない事だろう。
さっき女子達がこの緑溢れる宝隆院庭園を背景にして自撮りを楽しそうにしていたけど、これだけ綺麗に芝が張られている事もあって、写真を撮りたくなる気持ちも理解できる景色であった。
ただ、幕末に起きた戊辰戦争では、水戸徳川家の血筋が入っていた鳥取藩は、岡山藩とは違って明治政府側についた。
藩によっては徳川家との婚姻関係でしぶしぶ旧幕府軍側に協力する藩もあったけど、時代の先見性を見極めていた藩は官軍側に付いていたようだ。
そして徳川慶喜の息子:池田仲博を迎えた池田家だったが、まだ仲博が幼かった為に「池田家協議会」という、江戸幕府の老中制度のような数人のブレーンが相談して、方針を決めていたようだ。
こちらは「事務室」という名前が付けられていたが、このように内装だけ見ていると、事務室には全く思えない内観となっていたが。。
池田家には幕末に原宿に約2万坪という敷地を入手し、そこに大きな屋敷を建てた。
なお、現在のJR原宿駅近くにある「東郷神社」は、海軍大将だった東郷平八郎を祀る神社であるが、その境内はかつて池田家の屋敷があった場所となっている。
こちらの机は、原宿にあった池田家の屋敷で、当主の池田仲博が使っていた机だという。
なお、原宿では「竹下通り」がファッショナブルな若者達が通るメインストリートとなっているが、その場所がこの池田家の屋敷があった場所なのである。
廊下を歩くと、床が「ギシギシっ!」と音を立てる。現代の建物ではまず床が軋む音が聞こえないので、歴史ある木造建築物だという事が、視覚以外にも聴覚で味わう事が出来る。
螺旋階段にて
そして建物の西側の端にはこちらの2階に繋がる螺旋階段が設置されていたが、残念ながら「使用禁止」となっていて、登る事ができないようになっていた。
この螺旋階段は支柱がなく、「ささら桁」という構造で支えられている階段となっていた。
「ささら桁」の階段は”シースルー階段”とも飛ばれてデザイン的に見た目がいい階段となっているが、その代わりに重さの耐性が弱いために、老朽化してくると使えない階段と化してしまうようだ。
1人ずつだったら今でも登れそうに見える螺旋階段だけど、今から100年以上も前に造られている階段なので、万が一事故ってしまった際のリスクを考えて、いっその事、使用禁止にしているのだろう。
そして脇にあった窓のガラスは、明治時代の窓ガラスとなっている為に、外の景色が少し歪んで見える。今では窓ガラスの先の景色が歪んで見える事なんて全くないけど、昔は歪んだ景色が見えるだけでも”凄い窓”と思われていた事だろう。
そんな螺旋階段は登れなかったけど、仁風閣内きっての名所という事もあって、その螺旋階段前で”藤原紀香ポーズ”を取って、嬉しそうに記念撮影に応じるオカンであった。。
こんな旅はまた次回に続きます!
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